第2章:鏡像のシンメトリー
1. 旅人とCAの「知的な好奇心」
横浜でのショッキングな事件から二日。みなとみらいを一望できるオープンカフェのテラス席で、浅井拓海と織田霧子は向き合っていた。テーブルの上には、浅井が手帳に書き殴った現場の座標データと、霧子が持参した明智凛の最新刊が置かれている。
「……信じられないわ。あんなに素敵な演奏をしていた梶原さんが、あんな一瞬で。警察はまだ通り魔の線を追っているみたいだけど」
霧子は、機内での凛とした姿とは対照的に、一人の音楽ファンとして沈痛な表情を浮かべていた。しかし、彼女の広い視野は、無意識に周囲の不自然な動きを捉え続けている。
「通り魔か。所轄の柴田刑事たちはそう言いたいだろうな。だが、IQ125の僕から見れば、あの現場はもっと『知的』で、もっと『残酷』だ」
浅井は、冷めたコーヒーのカップを見つめながら言った。
「霧子さん、君が言っていたあの『風』の違和感。僕なりに計算してみた。あのホールの構造上、空調がフル稼働すれば、ステージ中央にだけ特殊な気流の渦ができる。もし、そこに何らかの仕掛けがあったとしたら……。これは、並の犯罪者の発想じゃない」
「ねえ、浅井さん。それって、まるで明智先生の小説みたいじゃない?」
霧子がふと思い出したように本を叩いた。
「先生の『硝子の迷宮』でも、気象条件を利用した不可能犯罪が出てきたわ。先生なら、この不可解な現実をどう読み解くかしら。……ねえ、会いに行ってみない?」
「会いに行く?」
「ええ。今日、都内のホテルで新作のサイン会があるの。私、招待状を持ってるわ。先生は、私たちが事件の目撃者だって知っているし、何よりあの鋭い知性なら、警察が気づかないヒントをくれるかもしれない」
浅井は少し迷ったが、自分の頭脳だけでは解けない「世界の綻び」に触れたいという欲求に勝てなかった。
「……いいだろう。人気作家の『物語的思考』とやらを、一度拝見させてもらおうか」
2. 警視庁の密かな敬意
同じ頃、警視庁の一室。徳川警部は、本多刑事が持ってきた報告書を精査していた。
「警部、例の二人——浅井拓海と織田霧子が、明智凛のサイン会場へ向かったようです」
「……ほう。あの二人は、明智先生に知恵を借りるつもりか」
徳川は、重厚な顔に微かな笑みを浮かべた。徳川自身、明智凛のファンであり、彼女の著作が持つ完璧な論理性を高く評価している。
「柴田や蜂須賀は、明智先生を『目撃者』として疑うような無礼を働いているようだが、我々は違う。彼女は、この混沌とした事件に秩序を与えてくれる唯一の存在かもしれない。本多、我々も会場へ行くぞ。もちろん、一人のファンとして、彼女の安全を確保するためにな」
警察組織の中でも、明智凛は「正義の側にある、鋭すぎる知性」として、絶対的な信頼を置かれていたのである。
3. サイン会:女神の降臨と、知性の交錯
都内屈指の歴史を誇るホテル・グランド・オリエント。その大宴会場「鳳凰の間」は、数千人の溜息と熱気に満たされていた。
壁際には、明智凛がこれまでに獲得した文学賞のトロフィーや、直筆の草稿が整然と展示され、さながら一人の聖者を称える神殿のような趣を呈している。
「見て、あの列……最後尾はホテルの外まで続いているそうよ」
霧子は、人混みの中に漂う「崇拝」に近い空気を感じ取り、身震いした。
並んでいる人々は、単なる読者ではなかった。家庭の問題に悩む主婦、進路に迷う学生、人生の崖っぷちに立つビジネスマン。彼らは皆、明智凛の書く「悪が挫かれ、美しき秩序が勝利する物語」に、自らの救済を重ね合わせているのだ。
「彼女は、人々の欠損した心を、言葉という精巧な義肢で埋めているんだな」
浅井は、IQ125の計算能力を「会場内の感情エネルギーの推移」に向けていた。
「これほどの集団心理を掌握できる知性は、もはや作家の域を超えている。一種の統治者だ」
その時、会場の重厚な扉が開かれ、一瞬の静寂の後に、雷鳴のような拍手が沸き起こった。
純白のカシミヤドレスを纏った明智凛が、ゆっくりとステージへ歩を進める。彼女が微笑むだけで、最前列の女性ファンが感極まって涙を流し、会場全体の温度が数度上がったかのような錯覚さえ覚える。
「皆様、本日は私の小さな物語のために、貴重なお時間を割いてくださりありがとうございます」
凛の声は、鈴の音のように清らかで、会場の隅々まで染み渡るような響きを持っていた。
「今、私たちの住むこの街では、理解し難い悲劇が続いています。箱根の別荘で亡くなった方、横浜のステージで散った才能……。法や理屈では説明のつかない不条理が、皆様の心を傷つけていることでしょう」
凛は一度言葉を切り、会場全体を抱擁するかのような慈愛に満ちた視線を投げた。
「ですが、信じてください。カオス(混沌)の裏側には、必ずロゴス(理知)が存在します。物語が最後の一行で救いをもたらすように、現実もまた、最も美しい結末へと向かっているのです。私はその『美しき秩序』を信じて、筆を置いていくつもりです」
その演説が終わるやいなや、割れんばかりのスタンディングオベーションが巻き起こった。
「……素晴らしいわ」
霧子もまた、その熱狂の渦に飲み込まれ、強く拳を握りしめていた。
「浅井さん、彼女なら……彼女の言葉なら、あんな凄惨な事件でさえ、何か意味のあるものに変えてくれるかもしれない」
サイン会が始まると、凛は一人ひとりの目を見つめ、丁寧に言葉を交わしていく。
その様子を遠巻きに見ていたのは、警視庁の徳川警部と本多刑事だ。
「……どう思う、徳川さん」
「……神々しいな。あの柴田や蜂須賀でさえ、彼女の前では毒気を抜かれたように大人しくなっている。彼女の知性は、我々警察が守るべき『正義』の、さらに一段高い場所にあるようだ」
ついに、浅井と霧子の番が来た。
「お待ちしておりました。空の上で見守ってくださる方と、地の上で全てを見通す方……お二人の登場を、私の物語も待っていたようです」
凛は霧子の手を取り、そっと包み込んだ。その手の温かさは、決して偽物とは思えない母性的な優しさに満ちていた。
「先生、私たち……横浜の事件に立ち会って、何が正しいのか分からなくなってしまったんです。あんなに理不尽な死があるなんて」
霧子の切実な問いに、凛はいたずらっぽく、しかし深い慈しみを持って微笑んだ。
「霧子さん、楽譜には『休止符』が必要なの。それがあるからこそ、旋律は完成する。事件も同じ。まだ、結末へ至るための『必要なピース』が足りないだけよ。……浅井さん、あなたなら、そのピースがどこに落ちているか、もう気づいているのではないかしら?」
浅井は、彼女の瞳の奥にある「深淵」を覗き込もうとしたが、そこにはただ、透き通った青空のような純粋さがあるだけだった。
「……僕には、まだ譜面が白紙に見えますよ、先生」
「ふふ、謙遜を。さあ、これを受け取って。あなたたちの旅に、光がありますように」
手渡されたサイン本には、凛の流麗な文字でこう記されていた。
『真実は、静寂の中に降り積もる』
会場を後にした二人の背中を、夜の冷たい風が撫でる。
ホテルの外壁に設置された巨大な街頭ビジョンには、明智凛の新作のプロモーション映像が流れ、彼女を「現代の預言者」と称える文字が躍っている。
「……ねえ浅井さん、なんだか少し、怖いくらいに完璧な時間だったわね」
霧子が、大切そうに本を抱えて呟いた。
「ああ。だが、完璧すぎるものには、必ず『揺り戻し』が来る。彼女の言う『美しい結末』に向かって、この街が大きく息を吸い込んだような……そんな予感がする」
浅井は空を見上げた。厚い雲が、月の光を遮ろうとしている。
IQ125の計算機は、まだ答えを出していない。
しかし、彼の本能は、この平穏が「嵐の前奏曲」であることを告げていた。
関東のどこかで、まだ誰も気づいていない「第三の音」が鳴ろうとしている。
それは、これまで起きた二つの悲劇を一つに繋ぎ合わせる。
「行こう、霧子さん。」二人は闇の中に消えていく。
その数時間後、関東一帯を揺るがす「第三の凶報」がもたらされることを、まだ誰も——そして、敬愛される作家以外の誰も——知る由はなかった。




