第1章:箱根の静寂と、黄金比の死体
1. 密室の「完成予想図」
神奈川県箱根町。仙石原の奥深く、深い霧に包まれた会員制ヴィラ「アバロン」の一室。
そこは、選ばれた者しか入れないはずの聖域だった。しかし、その朝、静寂を破ったのは通報を受けたパトカーのサイレンだった。
「……なんだ、この部屋は。掃除が行き届きすぎている」
警視庁捜査一課、徳川警部が現場に足を踏み入れるなり、眉間に深い皺を刻んだ。
通常、殺人現場には争った形跡や、生活の乱れ、あるいは死の苦しみが残るものだ。だが、ここは違った。
「徳川さん、鑑識の報告です。部屋の入り口から窓際まで、一切の指紋が拭き取られています。それも、ただ消したんじゃない。磨き上げられているんです」
若手の本多刑事が、タブレットを手に駆け寄る。
「被害者の状況は?」
「リビング中央のソファです。IT企業『デジ・フロンティア』のCEO、佐藤龍二(45)。死因は表向きには急性心不全。外傷はありません。ですが、本多、これを見てください」
徳川が指し示したのは、ソファに座る佐藤の遺体だった。
彼はまるでお気に入りの映画を鑑賞しているかのように、リラックスした姿勢で死んでいた。しかし、その手足の角度、首の傾き、テーブルに置かれたワイングラスの距離——。
「……黄金比だ」
背後から声がした。
「本多、お前も気づいたか。この部屋の家具の配置、そして死体の姿勢。すべてが1対1.618の比率に基づいて配置されている。芸術作品のつもりか?」
「悪趣味ですね。犯人はこの配置を作るために、死後硬直が始まる前に遺体を動かした形跡があります。しかし、防犯カメラには誰も映っていない。窓は内側から施錠されたオートロック。完全な『密室』です」
「所轄はどう動いている」
徳川が問うと、現場の入り口で腕組みをしていた二人の男が、忌々しそうにこちらを睨んだ。小田原署の柴田と蜂須賀だ。
「おい警視庁さん、あんまり首を突っ込むなよ。これはただの病死だろ」
がっしりした体格の柴田が、鼻を鳴らす。
「心臓の持病があったって秘書も言ってる。密室なんだから、事件性なんてあるわけねえ。あんたらの出番じゃないんだよ」
「柴田さんの言う通りですよ」
相棒の蜂須賀が、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「キャリア組の点数稼ぎに、箱根の静かな朝を汚さないでいただきたい。黄金比だなんだって、ミステリー小説の読みすぎじゃないですか?」
徳川は彼らを無視し、本多に耳打ちした。
「本多、所轄の嫌がらせは放っておけ。被害者の周辺を洗え。特に、最近このヴィラに出入りした『業者』だ。この完璧な配置を数分で作り上げるには、プロの空間把握能力が必要だ」
2. 美しき作家の休息
同じ頃、箱根の別のホテル。
明智凛は、テラスで優雅に朝食を摂っていた。彼女の手元には、最新のミステリー雑誌。
「凛先生、おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
マネージャーの女性が、スケジュール帳を抱えて現れる。
「ええ、とても。箱根の空気は澄んでいて、素晴らしいアイデアが浮かぶわ」
凛はティーカップを口に運び、微笑んだ。その微笑みは、誰が見ても非の打ち所がないほど美しい。
「先生、例の事件、ご存知ですか? すぐ近くのヴィラで亡くなった方がいるそうで……」
「あら、怖い。でも、死というものは、時として人生で最も完成された瞬間になることもあるのよ。そう思わない?」
マネージャーは一瞬、凛の言葉の冷たさに言葉を失った。だが、凛はすぐに柔らかい表情に戻り、「冗談よ」と付け加えた。
「さあ、午後のサイン会の準備をしましょう。読者の皆さんに会えるのが楽しみだわ。特に……私の『作品』を深く理解してくれる人にね」
3. 旅人の直感
一方、箱根の登山鉄道に乗っていた浅井拓海は、車内の異様な空気を感じ取っていた。
(……警察の車両が4台。救急車は1台だが、サイレンを鳴らさずに帰っていった。つまり、生存者はいない。場所はあの高級ヴィラ街か)
浅井はIQ125の頭脳で、瞬時に状況をシュミレートする。
通常、高級ヴィラの急死なら所轄だけで済む。だが、先ほどすれ違った黒塗りのセダン。あれは警視庁の車両だ。
「なぜ、一課が動く?」
浅井の好奇心が疼いた。元旅行会社勤務の彼は、そのエリアの建物の構造をすべて記憶している。
「あのヴィラは、全室カードキー連動の最新セキュリティ。外部からの侵入は不可能に近い。だが、もし『内部の人間』を操る術があるとしたら……」
彼は次の駅で降りることを決めた。目的地は、事件現場から数キロ離れた、明智凛の新作発表会場。
「旅の予定は、狂うほど面白い」
4. 警視庁の確信
現場では、徳川と本多が密かな確信を深めていた。
「警部、見つかりました。被害者のパソコンから消去されていたメールです」
本多が声を潜める。
「復元したところ、一通の短いメッセージが届いていました。『あなたの犯した罪を、最も美しい形で清算しましょう』。差出人は不明ですが……」
「連絡殺人の予感だな」
徳川は窓の外の霧を見つめた。
「一見、関係のない人間が、異なる場所で、異なる理由で死んでいく。だが、そこには共通の『美学』が存在する。本多、本庁に連絡を入れろ。これは単独の殺人じゃない。壮大な連作の始まりだ」
「警部、第2の標的はどこに?」
「……風に聞け。だが、犯人は必ず、自らの正義を誇示したいはずだ」
箱根の山を降りる風は、冷たく、不吉な予感を孕んでいた。
5. 泥臭い足跡:箱根・強羅の聞き込み
箱根の急峻な坂道を、本多刑事はスーツの背中を汗で濡らしながら歩いていた。警視庁捜査一課というエリート集団に身を置きながらも、彼は「靴底を減らしてこそ真実が見える」という徳川警部の教えを忠実に守っている。
「失礼します。警視庁の本多です。昨夜、こちらのヴィラの周辺で、見慣れない車や不審な人物を見かけませんでしたか?」
聞き込み先は、現場となったヴィラ「アバロン」に食材を納品している老舗の精肉店だ。主人の老人は、差し出された警察手帳をまじまじと見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「不審な奴ぁ、いなかったねぇ。ただ……変な話だが、昨日の夕方、霧が凄かったろ? あの霧の中から、真っ白な服を着た女が歩いてくるのを見たよ。傘も差さずに、まるでお化けみたいにスーッとね」
「白い服の女性? 特徴はわかりますか? 年齢や顔立ちは……」
「いやぁ、霧が深くてね。ただ、背筋がピンと伸びていて、育ちの良さそうな歩き方だった。あっちのヴィラの方へ消えていったが、あそこは会員制だろ? 住人かと思って気にも留めなかったよ」
本多は手帳に筆走らせる。
(白い服、凛とした歩き方……。被害者の佐藤と関係のある女性か、あるいは——)
その時、背後から無遠慮な声が飛んだ。
「おい、本多。まだそんな無駄なことやってんのか」
振り返ると、所轄の柴田と蜂須賀が、冷やかすような笑みを浮かべて立っていた。柴田は口に咥えた爪楊枝をペッと吐き捨てる。
「白い服の女ぁ? この箱根にゃ観光客なんて腐るほどいるんだよ。そんな曖昧な目撃証言、何の証拠にもなりゃしねえ。佐藤の死因は心不全、部屋は密室。これ以上の答えが必要か?」
「柴田さん、密室だからこそ不自然なんです」
本多は努めて冷静に返した。
「被害者の佐藤氏は、健康オタクで有名でした。心不全を起こすような持病の兆候は、定期検診の結果にもありません。それに、あの家具の配置……」
「ケッ、また『黄金比』か」
蜂須賀が鼻で笑う。
「あんたら本庁の人間は、ドラマの見すぎなんだよ。現実の殺人はもっと汚くて、単純なもんだ。怨恨か金か、痴情のもつれ。だが、この件に関しては、入り口の防犯カメラが『誰も入っていない』と証明してるんだ。物理の法則には勝てねえよ、本多ちゃん」
二人の所轄刑事は、本多を追い越してパトカーへと戻っていく。本多はその背中に向かって、静かに闘志を燃やした。
6. 緊迫の合同捜査会議
午後2時。小田原署の会議室。
部屋には、警視庁捜査一課と地元警察の面々が集結し、重苦しい空気が充満していた。正面のホワイトボードには、遺体の発見状況と、被害者の経歴が書き殴られている。
中央に座る徳川警部が、重々しく口を開いた。
「これより、箱根ヴィラ内変死事件に関する捜査状況の共有を行う。まず本多、現場の鑑識結果の続報を」
本多が起立し、プロジェクターに画像を映し出す。
「はい。現場の密室状況についてですが、玄関のオートロック、窓のクレセント錠、すべて内側から施錠されていました。侵入の痕跡はありません。しかし、唯一の不可解な点は、リビングの空調設定です。設定温度が18度と、この季節にしては異常に低く設定されていました」
「暑がりだったんだろ」
会議室の隅で、柴田が野次を飛ばす。
「いいえ」
徳川が鋭い視線で柴田を黙らせる。
「単なる暑がりで片付けるには、出来過ぎている。本多、続けろ」
「はい。検視の結果、胃の内容物からは毒物は検出されませんでした。しかし、心臓の筋肉に微細な『収縮の痕跡』が見られます。これは、急激なショック、あるいは——『未知の手段』による外部からの干渉を示唆しています。また、現場に落ちていた微細な粉末……これは、ある種の冷却材に使用される成分であることが判明しました」
「冷却材?」
捜査員の一人が身を乗り出す。
「犯人は、室内の温度を急激に下げ、ある種の物理現象を利用して『遠隔』で被害者の心臓に負担をかけた可能性があります」
徳川が補足する。
「そして、その後に家具をミリ単位で移動させ、美的な調和を作り上げた。これは単なる殺害ではない。被害者の死を、一つの『パーツ』として組み込んだ、壮大なインスタレーション……芸術作品の創作だ」
会議室に戦慄が走る。
徳川はホワイトボードに、大きな文字で書き込んだ。
『連絡殺人の可能性』
「被害者の佐藤龍二は、5年前、ある若手作家の著作権を巡る訴訟に関わっていた。その作家はその後、謎の失踪を遂げている。そして、その作家と親交が深かった人物の中に、一人の女性が浮上した」
徳川が写真を提示する。そこには、若き日の明智凛の姿があった。
「明智凛……今や売れっ子のミステリー作家か」
誰かが呟く。
「彼女は事件の夜、近くのホテルに滞在していた。アリバイはある。だが、彼女の作品を読んでみろ。そこには、常に『完璧な秩序を求める犯罪者』が登場する。彼女はこの現実を、自分の小説の続きにしようとしているのではないか」
「警部! 妄想が過ぎる!」
柴田が机を叩いて立ち上がる。
「著名な作家を疑うなら、それなりの証拠を持ってきなさい! これじゃあ所轄は動けませんよ!」
「証拠は、これから見つける。本多、明智凛の周辺を徹底的に洗え。彼女の過去、交友関係、そして——彼女の『執念』がどこに向かっているのかを」
徳川の命令は、冷徹な響きを持って会議室に響き渡った。
7. 暗闇のプレリュード
その夜。
明智凛は、ホテルのスイートルームで、一人赤ワインを傾けていた。
彼女の視線の先には、タブレット端末に表示されたニュース記事がある。
『IT企業CEO、箱根の別荘で急死。事件性は低いと見られる』
「……事件性が低い、ですって?」
凛は低く、鈴の音のような声で笑った。
「失礼しちゃうわね。あんなに苦労して、ミリ単位の配置を整えたのに。凡人には、あの美しさが理解できないのかしら」
彼女は立ち上がり、窓の外を見下ろした。眼下には箱根の夜景が広がっているが、彼女の瞳にはもっと遠い場所、横浜の港が見えていた。
「次は……もっと『派手』な舞台を用意してあげましょう。読者が待ち望む、あっと驚くような第2章を」
彼女の指先が、スマートフォンの画面をなぞる。そこには、次の標的となる人物の顔写真が表示されていた。
「あなたは、どんな叫び声を上げてくれるかしら?」
凛の微笑みは、暗闇の中で狂おしいほどに美しく、そして残酷だった。
8. 旅人と羽ばたく鳥
同じ頃、浅井拓海は、箱根の小さな居酒屋で一人、地酒を飲んでいた。
彼の前には、新聞の切り抜きと、自作のメモが散乱している。
(心不全、密室、黄金比。警察は偶然だと思わせたいようだが、無理があるな。あの配置は、人間の心理を極限までコントロールしようとする意志の表れだ)
浅井はIQ125の計算能力を駆使し、地図上に「黄金比」の螺旋を描き込んでいく。
「……次は、横浜か。あるいは湘南か。このベクトルが向く先には——」
一方、羽田行きのバスの中で、織田霧子はノートを閉じた。
彼女は明智凛の全著作を読み解き、ある共通点を見出していた。
9. 港のノイズ、あるいは絶叫の欠落
横浜、みなとみらい。巨大なショッピングモールの吹き抜け構造を活かしたイベントホールでは、若者に人気のストリートピアニスト、**梶原 健人(28)**の公開ライブが行われていた。
「すごい人ね……」
仕事帰りの織田 霧子は、人混みの後方からステージを眺めていた。彼女の広い視野は、観客たちの興奮だけでなく、警備員の配置や、天井から吊るされた大型スピーカーの揺れまでをも捉えている。
一方、その数メートル隣には、バックパックを背負った浅井 拓海がいた。彼は音楽を聴いているのではない。スピーカーから出る音波と、観客の熱気が生み出す気流の淀みを計算していた。
(……この空間設計、音の反響が一点に集中するように計算されている。だが、あの位置に立つ人間は、逃げ場を失うな)
曲がクライマックスに達したその時だった。
突然、会場のすべての照明が落ち、真っ暗闇に包まれた。悲鳴が上がる。しかし、スピーカーからはピアノの音が鳴り続けている。
「停電?」
「いや、演出じゃないのか?」
ざわめく観客。だが、霧子と浅井の耳には、同時に「異質な音」が届いた。
——シュッ、という、空気が切り裂かれる微かな音。
数十秒後、照明が復旧した。ステージの上で、梶原はピアノに突っ伏していた。背中には、彼が愛用していた指揮棒が、まるで最初からそこにあったかのように深く突き刺さっていた。
観客がパニックに陥る中、浅井と霧子の視線が、同時に「犯人が消えたはずの空白の空間」に向けられた。
10. 横浜・氷川署の傲慢
「どけ、どけ! 警察だ!」
現場に駆け込んできたのは、横浜・氷川署の刑事、柴田と蜂須賀だった。箱根の事件から引き続き、彼らがこの管轄を仕切っている。
「おい、またお前か、警視庁の本多!」
柴田が、現場を保存しようとしていた本多刑事を突き飛ばすように割り込んだ。
「箱根の時も言ったがな、ここは俺たちのシマだ。芸能人の刺殺事件なんて、痴情のもつれに決まってる。変な知恵をつけるんじゃねえぞ」
「柴田さん、これは普通の刺殺ではありません」
本多は必死に食い下がる。
「暗転していたのはわずか45秒。その間に、1000人の観客に囲まれたステージに上がり、正確に急所を刺して、誰にも気づかれずに立ち去る。そんな芸当、人間業じゃありません」
「ハッ! 手品かなんかだろ」
蜂須賀がせせら笑う。
「防犯カメラを確認すれば一発だ。どうせ、スタッフの誰かが紛れてやったんだよ。お前ら警視庁は、難しく考えすぎて時間を無駄にするのが趣味なのか?」
そこへ、重厚な足音が近づいてきた。
「……物理的に不可能なことを可能にするのが、ミステリーの常套手段だがな」
徳川警部だ。彼は鋭い眼光で、ピアノの周りの「不自然な空白」を指差した。
「柴田、よく見ろ。被害者の足元に散らばっているのは何だ?」
「あ? 楽譜だろ、風で飛んだんだろ……」
「違う。これは、特定の『角度』で折られた紙だ。箱根の時と同じだ。ここにも、犯人の歪んだ『秩序』が残されている」
11. 深夜の捜査会議:冷徹な解析
深夜、横浜・氷川署の臨時会議室。
徳川警部は、ホワイトボードに二つの現場写真を並べた。
「第一の事件、箱根の黄金比。第二の事件、横浜の対称性。本多、報告を」
本多が声を張り上げる。
「はい! 鑑識の結果、被害者の背中に刺さっていたのは、彼自身の指揮棒でした。しかし、傷口の角度が異常です。真上から、叩きつけるような重力で刺入されています。犯人がステージに登った形跡はなく、天井の梁にも人がいた痕跡はありません」
「空中から降ってきたとでも言うのか?」
柴田が苛立たしげに机を叩く。
「あるいは……『最初からそこにあった』のではないか」
徳川が呟く。
「本多、空調の記録を。箱根の現場でもそうだったが、ここでも直前に温度変化があったはずだ」
「おっしゃる通りです! 事件発生の10分前、ホールの空調が一時的にフル稼働し、局所的に氷点下に近い気流が発生していました。犯人は……『氷の装置』を利用して、凶器を空中に固定していた可能性があります」
「そんなバカな……」
蜂須賀が絶句する。
「そして、このメモを見てください」
本多が提示したのは、現場のゴミ箱から見つかった、明智凛の小説の一節が印字された紙片だった。
『旋律が止まる時、偽りの王は静寂の座に帰るだろう』。
「明智凛……」
徳川の目が細くなる。
「彼女は今日、この近くの書店でサイン会を行っていた。アリバイはある。だが、この巧妙なトリックと、被害者への容赦ない断罪。これは彼女の筆致そのものだ」
12. 氷川署の取調室:旅人とCAの「供述」
横浜のイベント会場がパニックに包まれる中、浅井拓海と織田霧子は、重要参考人としてそれぞれ別室で事情聴取を受けていた。
浅井の前に座るのは、所轄の柴田と蜂須賀だ。
「おい、バックパック。お前、ずっとステージのスピーカーの方をジロジロ見てたらしいな。何だ、音響のエンジニアか何かか?」
柴田が机を叩き、凄む。
浅井はIQ125の脳をフル回転させ、目の前の短気な刑事をいなす最適解を導き出す。
「いえ、ただの旅人です。ただ、あのホールの設計には興味がありました。天井の吸音パネルの数と、空調の吹き出し口の角度が、特定の音域を増幅させるように配置されていた。……刑事さん、あんな場所で人が死ぬのは、物理的に見ても『不自然』ですよ」
「不自然だと? 刺されたんだよ、背中をな!」
蜂須賀がせせら笑う。
「暗闇に紛れて誰かが近づいた。それだけだ。お前、何か怪しい動きを見たんだろ? 正直に言え」
「暗転時間は45秒。人混みを縫って移動し、正確に急所を刺して戻るには、秒速2.7メートル以上の速度を維持しつつ、無音で動く必要がある。……無理ですね。それより、ステージ真上の空調から吹き出していた『霧』の正体を調べた方がいい。あれは演出用のスモークじゃなかった」
一方、隣の取調室では、霧子が本多刑事と向き合っていた。
「織田霧子さん……客室乗務員の方ですね」
本多は、霧子の理路整然とした説明に驚いていた。
「はい。暗転の直前、3列目の中央付近に座っていた方が、不自然に身を屈めました。その際、彼女が落としたプログラムの紙が、ピアノの脚に向かって滑っていったんです。でも、紙は脚に届く数センチ手前で、まるで目に見えない壁に当たったように跳ね返りました。そこには、何らかの『張力』が存在していたはずです」
「張力……。まるで楽器の弦のようなものが張られていた、と?」
「ええ。CAは機内の気流の変化に敏感なんです。あの時、ステージの周りだけ、冷たい風が渦を巻いていました。あれは、単なる空調の故障とは思えません」
本多は手帳に筆走らせる。この若々しい女性の観察眼は、プロの捜査員をも凌駕していた。
13. 廊下のベンチ:二人の天才の邂逅
事情聴取が終わり、解放された二人は、警察署の長い廊下に並んだベンチで偶然隣り合わせになった。
「……あなたも、あの『不自然な風』を感じたんですか?」
霧子が、隣の男の鋭い視線に気づいて声をかけた。浅井は前を見つめたまま、淡々と答える。
「シュッ、という空気の摩擦音。あれは人が動く音じゃない。何かが『解放』された音だ。……君、さっき刑事と話していた張力の話、もっと詳しく聞かせてくれないか?」
「ええ。私は織田霧子。CAをしています。……あなたは?」
「浅井拓海。ただの旅人だ」
二人は警察署の硬い椅子に座りながら、互いの「視点」を交換し始めた。
浅井の論理的な空間把握能力と、霧子の広い視野が、パズルのピースのように噛み合っていく。
「……つまり、犯人はステージに登っていない可能性がある。そう考えないと、あの45秒の説明がつかない」
霧子が目を輝かせる。
「面白いわね。まるで明智凛先生の小説みたい。……あ、そうだ。浅井さんは明智先生、ご存知ですか?」
「ああ、さっきサイン会の広告を見た。美人な作家だな」
「私、ファンなんです。機内でお会いした時も、すごく気さくで素敵な方でした。彼女の小説には、いつも誰も思いつかないような奇跡的なトリックが登場するの。……もし彼女がこの現場にいたら、なんて言うかしら」
二人はまだ、憧れの作家がこの惨劇の「演出家」であるとは、微塵も疑っていなかった。
14. 憧れの眼差し:明智凛の登場
その時、廊下の向こうから、凛としたヒールの音が響いてきた。
警察署という殺風景な場所にそぐわない、華やかなオーラを纏った女性。明智凛だ。
彼女は、柴田や蜂須賀を従え、優雅に歩いてくる。
「刑事さん、大変な事件でしたわね。市民として、何か力になれればと思ったのだけれど……。あら、あなたたちは」
凛が足を止め、ベンチの二人に微笑みかけた。
「あ! 明智先生!」
霧子が思わず立ち上がる。
「先日は機内でありがとうございました。私、先生のファンなんです!」
「まあ、あの時の素敵なCAさんね。こんな場所でお会いするなんて、奇遇だわ。……隣の方は、お友達?」
凛の視線が浅井に向く。浅井は座ったまま、その瞳をじっと見つめ返した。
「いえ、今、ここで知り合ったばかりです。事件の『不可解さ』について、意見を交わしていたところで」
「あら、それは興味深いわ。私の新作のネタにさせていただきたいくらい」
凛は慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「先生、今回の事件……犯人はどうやってあんな短時間で逃げたんでしょうか。先生なら、どんなトリックを考えますか?」
霧子の無邪気な問いに、凛は少しだけ首を傾け、楽しそうに笑った。
「そうね……。私なら、『犯人は一歩も動かなかった』という設定にするかしら。美しき秩序は、手を汚さずとも完成されるべきですもの。……ふふ、冗談よ。刑事さんたちに怒られてしまうわね」
凛はそう言い残し、優雅に警察署を去っていった。
「……すごいオーラだったわね。やっぱり、一流の作家は違うわ」
霧子が感嘆の息をつく。
一方、浅井は彼女が去った廊下を凝視していた。
(……犯人は一歩も動かない、か。作家特有のレトリックか。あるいは——)
「浅井さん? どうしたの?」
「いや、何でもない。……霧子さん、今度行われる彼女のサイン会、一緒に行かないか? 彼女の言う『秩序』とやらが、この事件を解く鍵になる気がするんだ」
「ええ、喜んで! 私、絶対サインしてもらうわ」
二人はまだ、自分たちが「作者」の掌の上で踊らされていることに気づいていない。
しかし、旅人とCAの共闘は、ここから静かに始まった。




