プロローグ
1. 旅人の眼、あるいは「世界の綻び」
成田国際空港、第1ターミナル。
**浅井 拓海**は、雑踏の中に立ち尽くし、無意識に周囲の情報の密度を計測していた。
32歳。かつて大手旅行会社で「分刻みの完璧な旅程」を組み上げ、顧客の欲望を先回りすることで伝説となった男だ。しかし、彼は組織というシステムに飽き、すべてを捨てて「放浪者」となった。
彼のIQ125という知能は、日常生活においてはむしろ呪いに近い。
「……左前方、赤いスーツケースの女性。車輪の回転音がわずかに高い。中身は衣類ではなく、硬質な金属か書籍。右後ろの男性、歩幅が0.5センチずつ縮まっている。尿意か、あるいは隠し持った何かへの緊張か」
浅井にとって、世界は論理的な情報の集積体だ。彼は使い古されたバックパックを直し、ゲートを出る。彼は今、特定の目的地を持っていない。だが、彼の嗅覚は、関東の空気に混じった「異物」の気配を感じ取っていた。
「風が変わったな……」
独り言とともに、彼は駅へと向かう。彼の足跡は、やがて凄惨な連続殺人事件の軌跡と重なることになる。
2. 高度一万メートルの観察者
同じ時刻、羽田行きの国内線機内。
**織田 霧子**は、通路を滑るような足取りで歩いていた。24歳。国立大学で心理学を専攻し、その知識を「現場」で試すために客室乗務員という職業を選んだ。
彼女の外見は、小動物を思わせる可愛らしいものだが、その瞳は猛禽類のように鋭い。
「お飲み物はいかがですか?」
彼女の声は鈴の音のように澄んでいるが、視線は乗客の手元や瞬きの回数を逃さない。
「この方は……新作のプロットを練っているのかしら」
霧子の目が止まったのは、窓際に座る一人の美女だった。
その女性——**明智 凛**は、ノートPCに向かうこともなく、ただ窓の外を流れる雲海を眺めている。凛は30代、文壇の寵児とされる人気ミステリー作家だ。人当たりが良く、サイン会ではファン一人ひとりに神対応をすることで知られているが、霧子の目には、彼女の微笑みが「完璧に計算された仮面」に見えた。
「素晴らしい空ね。まるで、すべてを白紙に戻してくれるみたい」
凛が不意に霧子を見上げて微笑む。その瞬間、霧子は背筋に薄氷が走るような感覚を覚えた。ミステリー小説を愛読する霧子の直感が告げている。この女性の心の中には、底の見えない深い闇がある、と。
3. 警視庁の「猛者」たち
警視庁捜査一課の一室。
重苦しい空気の中、徳川警部がホワイトボードを睨んでいた。彼は江戸幕府の始祖のごとき重厚な威厳を持ち、周囲から厚い信頼を寄せられている。
「本多、第一の現場の検視結果はどうだ」
「はい、警部」
若手ながら冷静沈着な本多刑事が資料を広げる。
「被害者はIT企業のCEO。箱根の別荘の完全な密室で発見されました。死因は心不全とされていますが、現場に不自然な点が多すぎます。家具の配置が、ミリ単位で『黄金比』に従って整えられていたんです」
「……美学を感じるな」
徳川が呟く。
「これは事故じゃない。挑戦状だ。それも、並外れて執念深く、知的な犯人からのな」
彼ら警視庁の精鋭たちは、まだこの事件が、関東全域を巻き込む三つの「連絡殺人」の序章に過ぎないことを知る由もなかった。
4. 嵐の前触れ
浅井は新宿の雑踏を歩きながら、ふと、ある書店の大型広告に目を留めた。
そこには、明智凛の新刊『冷たい連鎖』の発売告知と、彼女の美しい近影があった。
「……綺麗な顔だ。だが、この左右非対称な口角。何かを激しく憎んでいる顔だ」
浅井は無意識に、その顔を記憶のフォルダに叩き込む。
一方、霧子はフライトを終え、制服を脱ぎ捨てて私服に着替えていた。彼女のバッグには、明智凛の旧作が詰め込まれている。
「次のサイン会、行ってみようかな。あの人の『本音』、もっと近くで見てみたい」
空のプロフェッショナルと、地の放浪者。
正反対の場所で「違和感」を抱いた二人の運命が、次に起きる凄惨な「第二の事件」の現場で、磁石のように引き寄せられることになる。
関東の空を、どす黒い雲が覆い始めていた。




