クレアは婚約者が恋に落ちる瞬間を見た
──あ。
本当に恋とは一瞬で落ちるものなのですね。
その日、私は見てしまいました。
婚約者が私以外の女性に恋をする瞬間を見てしまったのです。
私が婚約したのは13歳の春でした。
「はじめまして。オリヴァー・レヴィンズと申します」
同い年の彼はまだ体が小さく、声変わりもしていない少年でした。
柔らかなライトブラウンの髪に若葉色の瞳はとても優しげで、初めてお会いする婚約者に緊張していた私は少しホッと致しました。
「はじめまして。私はクレア・リースです」
自然と笑顔になり、その後も楽しくお話しすることが出来ました。
こうして私達の初顔合わせはつつがなく終わり、そのまま婚約を結ぶことになりました。
レヴィンズ伯爵家とリース子爵家は事業提携を結んでいる。と言ってもそれによる政略結婚というよりは、両当主の間に友情が芽生え、子供達が同い年ならば結婚させよう!というよく分からない男の浪漫というものらしい。
「父上がお優しい子爵にすっかりと懐いてしまったみたいだ」
定期的に交流をするうちに、このような軽口も聞ける間柄になってきた頃にオリヴァー様がそう言いながら笑っていた。
「あら、お父様もよ。伯爵様ほど立派な方は中々いないとほろ酔い加減で語っていたもの」
「…おじさん二人が両思いで気持ち悪いね?」
「まあ、ひどい!でも…ふふ、本当だわ」
オリヴァー様はずいぶんと背が伸びました。
すっかりと声も低くなり、何だか別人のようです。
「どうしたの?」
「いえ。オリヴァー様は格好良くなられたと思って」
「クレアも綺麗になったよ」
「本当ですか?」
「うん。君はどんどん慕わしくなる」
慕わしい。それは、ただ美しいと言われるよりも嬉しい言葉です。
「私は貴方の穏やかな雰囲気が好ましいです。一緒にいてとても落ち着きますもの」
「嬉しいな、でも相手が君だからだよ。君となら穏やかな家庭が築けると思う。楽しみだね」
「はい」
燃え上がる様な恋では無いけれど、私達は少しずつ歩み寄り、理解し合い、絆を深めていきました。
卒業したらこの方と結婚をする。
それは、私の中で喜びを持って受け入れている未来でした。
それは18歳になった最終学年での出来事でした。
2つ下の学年で、隣国からの留学生が来たと話題になっていました。それはとても美しい方だとか。
「クレアも気を付けた方がいいわよ。私の妹が同じ学年なんだけど、あの子の婚約者がその留学生にメロメロになってしまったと泣いていたわ」
「……そんなことがあるものなの?」
「プラチナブロンドに琥珀の瞳で、まるで月の精みたいに儚げな美しさだそうよ」
私はブルネットの髪にダークブルーの瞳です。不細工だとは思っていませんが、そんな人外な美しさは持ち合わせておりません。
「…オリヴァー様は誠実な方よ。外見なんかに惑わされたりしないと信じているわ」
「馬鹿ね。恋なんて頭で考えてするものじゃないの。ある日突然落ちてしまうものなのよ」
恋に落ちる…。私はまだ体験したことが無いので、どう反応していいのか分かりません。
「まさかキャシーがそんなにも情熱的な恋を経験していたとは知らなかったわ」
「やだ、物語で学んだのよ。でも、一度でいいからそんな恋をしてみたいと思わない?」
「……そうかしら。自分で制御出来ない感情なんて、ちょっと怖いわ」
「まあ確かにね。とりあえず、今は妹が不幸にならないことを祈るばかりよ」
「そうね、一過性の熱病ならいいけど」
恋とは、本当にそんなにも恐ろしいものなのでしょうか?
そして、運命の日が訪れました。
「きゃっ!」
オリヴァー様と移動教室に向かう為、階段を登り始めたその時です。
上から降りて来ようとしていた女生徒が、他の生徒にぶつかり足を踏み外してしまったのです。
落ちるっ!
そう思いましたが、何とオリヴァー様が女生徒を受け止め、反対の手で手すりを掴み、何とか踏み止まったのでした。
「だ…大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ろうとした、その時。
女生徒とオリヴァー様の視線が絡みました。
──あ。
……何故でしょう。私は理解してしまいました。
二人は、互いに恋に落ちたのです。
きっと階段から落ちる恐怖に涙が出たのでしょう。琥珀の瞳からころりと涙が落ちました。
──なんて美しい方なのかしら。
ああ、この令嬢が噂の月の精なのですね。
女性の私ですら見惚れてしまう程、可憐で、綺麗で…。
「……大丈夫か?」
「…はい。…あの、ありがとうございます」
まるで二人しかその場にはいないかのような、そんな光景。彼女を支えながら、ゆっくりと立たせてあげている。
まるで劇のワンシーンのようです。
「あの、貴方様のお名前をお聞きしても良いでしょうか」
瞳を潤ませながら、縋るように、期待するようにオリヴァー様の名を尋ねる姿に、私の胸がツキツキと痛みます。
「…いや。怪我が無かったのなら良かった」
ふいに何かを切り捨てるかのようにオリヴァー様を包んでいた甘やかな空気が消えました。
そして、彼女から手を離すと私の方を振り向きました。
「クレアごめん、驚かせた?」
「……ううん、大丈夫。それよりも怪我は?」
「平気だよ。さあ、行こうか」
そう言って私に手を差しのべてくれる。
…いいの?彼女が見つめているのに。
でも、オリヴァー様は私の婚約者で。
彼の対応は間違っていなくて。
「……そうね。行きましょう」
ああ、でも。
さっきの貴方が忘れられません。
あれは確かに、恋に落ちた瞬間でした。
それでも私は…彼の手を取りました。
◇◇◇
あれからオリヴァー様は普段と変わらず、あの一瞬の恋は夢だったのかと思うほどです。
「でも、確かにあれは恋だった…」
現に、月の御方はあれから何度もオリヴァー様にせつな気な視線を送ってきているのです。
それに気付いているはずなのに、オリヴァー様は何も見えていないかのように一度たりとも視線を交わすことはありません。
私はこのまま見て見ぬふりをしてもいいのでしょうか。
たぶん……私という婚約者がいるからオリヴァー様は恋を諦めようとしているのでしょう。
でも、そうやって無理をして私と一緒になって、本当に幸せな家庭を築けるのでしょうか。
契約は大切です。必ず守るべきものだとは思います。
でも……。
心を守る事も大切だと思うのです。
「オリヴァー様、大切なお話がございます」
「……どこで話す?」
唐突な私の言葉に、ほんの少しだけ驚きを見せましたが、すぐに向き合って下さる。
そんな貴方のことが私は──。
「クレア?」
「…ごめんなさい、我が家でもいいかしら。丁度庭園のピオニーが花開いてとても綺麗なんです」
「それは楽しみだ。では、今週末にでも伺おうかな」
「はい、お待ちしてますね」
もうこれで引き返すことは出来ません。
ああ、週末まで眠れぬ日が続きそうだわ。
「ああ、本当に美しいね」
庭園を歩きながらオリヴァー様が美しく咲くピオニーを褒めて下さいます。
「ええ。香りも素敵なんです」
薔薇に似た芳香が優しく辺りを包んでいます。
「誘ってくれてありがとう」
「…いえ。喜んでもらえて嬉しいです」
これから話す内容を聞いた後でもそうやって笑って下さるかしら。
東屋でお茶を準備してもらってから使用人には下がって貰う。
「さて、クレアの大切な話は何かな」
私が言い淀んでいることに気が付いたのでしょう。オリヴァー様が水を向けて下さいました。
「……オリヴァー様の、恋について、です」
「それは」
「嘘だけは吐いて欲しくありません」
「……うん、分かった」
「貴方はあの時、恋に落ちたのですよね?」
「恋…なのか実はよく分からない。ただ、彼女に強く惹き付けられた。……でもそうか、そうだね。あれは一目惚れというものだったのかもしれない」
……そう。貴方は無自覚だったのね。
「でも、それだけだよ」
「あの方は、今でもずっと貴方を見つめていますわ」
「それは如何しようもない。私には応えてあげられないし、そうしたいとも思わない」
「……え?」
したいと思わない?
「…まさかとは思うけど、あの一瞬の衝動で君という婚約者がいるのに彼女を求めると思ったのかい?」
「……」
そうです、とは言い難い圧を感じます。
「いや、そう思わせる程のものを君に見せてしまったのか……最低だな、私は」
フゥ────…と、とても大きなため息が漏れました。
「クレアがいたのに他の女に目移りするなんて、何と情けない男なのか…。だけどお願いだ!あんな一瞬のことで私を見限らないでくれないかっ!」
どうしましょう。思っていた反応と違い過ぎます。
別れ話が出るかもとビクビクしていましたのに、これでは捨てないで欲しいと懇願されている気が?
「いえ、あの、見限るなんてとんでもない」
「本当にか!?」
「は、はい!本当です!」
凄く食い気味に聞かれてこちらまで声が大きくなってしまいました。
「でも、本当に宜しいのですか?」
「私を虐めているのかい。本気で泣いてもいいかな。何なら君の足に縋って口付けようか」
「な!?や、止めてくださいっ」
本当に足元に跪くのは止めて~っ!!
「私は君が慕わしいと言ったはずだ」
「…はい」
「君と家庭を持つことが楽しみだとも言ったね」
「…はい」
「君と二人で5年という長い年月をかけて積み上げてきたものが、あんな一瞬の衝動に負けると思われたのはちょっと悔しいよ」
「……ごめんなさい」
でも、あの時のあんな眼差しを私は知らない。
だから私は──、
「愛してるよ、クレア」
「……うそ」
「酷いな、一世一代の愛の告白なのに」
そう言うと、オリヴァー様は居住まいを正し、私を見つめました。
「クレア・リース嬢。私はこの5年という月日の中で、少しずつ、でも確実に貴方との愛を育んできたつもりです。
心から、貴方だけを愛しています。どうか私とこれからの人生を共に歩んで下さい」
信じられません。これはプロポーズ?
「……本当に?」
「私は君にも愛されているつもりだったのだけど、自惚れだったかな」
「……いいえ、いいえっ!私も貴方を愛しておりますわ」
「よかった。……抱きしめてもいいか」
「はいっ」
オリヴァー様がゆっくりと、でも、強く強く抱きしめてくれました。
「捨てられるかと思った……」
「……違います。絶対に貴方を手放したくなかったから、私に恋してもらえるように頑張ると宣言するつもりだったの」
だってずっと貴方との未来を夢見てきたの。
今更あんな一瞬で奪われるなんて嫌だった。
でも、貴方の気持ちも大切にしたかった。
「クレアはとっくに私の心を掴んでる。あれはきっと階段から人が落ちてきてギリギリ助けられた心臓の鼓動を脳が勘違いしただけだと思うっ!」
あ、怒ってる。本当に嫌なのね?
「うん、信じるわ。でも、あんなに美しい方だもの。仕方がないとも思ったの」
つい、そう言ってしまうと、とても嫌そうな顔をされてしまいました。
「美しい?あれが?」
まさかのアレ呼ばわりです。
「月の精のようだと」
「だが、中身が駄目だよ。仮令学年が違っても私が君と婚約していることはすぐに分かったはずだ。
それなのに毎日毎日ねっとりと見つめてくるなんて淑女の風上にもおけない行動だよ」
……ああ。確かにそうね。
「でもおかげでクレアを抱きしめられた」
「……抱きしめたかったの?」
「好きな女性を抱きしめたくない男はいないと思いますが?何なら口付けたい衝動を必死に抑えている私を褒めて欲しいところだ」
「っ!!」
「間違ってもいいと言っては駄目だよ。抑えが効かなくなるから」
コクコクコクッ!と慌てて頷きました。
でもどうしましょう、凄く嬉しいです。
「……早く結婚したいな」
「私もです」
ありがとう、月の精様。おかげさまで私達の仲は深まりましたわ。
勝手なもので、あんなにも悲嘆に暮れていたのに今では恋のキューピッド扱いですが許して下さいませ。
♢♢♢
「何だか最近ラブラブね?」
キャシーに揶揄われてしまいました。
「あっ、聞いて!妹の婚約者はちゃんと元に戻ったみたい。何だか彼女が婚約者がいる男性に秋波を送ってるのを見て幻滅したんですって」
……それはもしや?
「そ、そう。よかったわね」
「これからはしっかりと手綱を握るように言っておいたわ」
まさか、オリヴァー様がキャシーの妹君を救ってしまうだなんて。
「ふふっ」
「どうしたの?急に笑って」
「ん~、幸せを噛み締めてたの」
そんな私を不思議そうに見ているけど気にしません。
だってあの時、私を抱きしめた彼の眼差しは階段での出来事の比ではなくて。
だから、もう彼を疑う私は消えてしまったのです。
「早く──」
早く、貴方の妻になりたい。
あの熱い眼差しをもっと見たいと思ってしまう。
もうすぐ来る未来が待ち遠しいです。
【end】