海がくれた試練
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
船の横舷
一瞬、火砲の射線に船が入る
緊張がはしる…・・が、なにもなかった。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
とうとう航海も三十四日目となった。その日は風もなく、海は鏡のように静かで、船はまるで氷の上を滑っているかのように進んだ。
バッツは退屈して甲板に大の字に寝そべっていた。退屈なのはいつものことだが、今日は糸に縒りをかけて退屈だ。というのも、
当然俺は
「バッツ、船が見える」
「おおん?」
そうして船が進むうちに、やがて水平線の上に、巨大な船の残骸がゆっくりと姿を現した。
(イラスト 022 01)
【メーベル】―「……なんだか不気味な船ね」
【バッツ 】―「おお……」
バッツは甲板に寝そべったまま、気のない返事をした。彼の視線は、船の残骸ではなくメーベルの体に注がれていた。陽に焼けて黒くなった肌が、あらわになっている。襟元から腰にかけて無造作に露出したその肌に、日焼け跡の境界線がはっきりと見える。バッツは、ハナクソをほじりながら、メーベルの体を上から下まで存分に眺めていた。
【メーベル】―「ねえ、あそこに宝箱がある」
バッツの視姦タイムは、唐突に如打ち切られた。バッツは慌てて前かがみになりながら立ち上がった。
【バッツ 】―「おお、何があるって?」
【メーベル】―「宝箱よ。ほら、あそこ」
気が付くと、彼らの小舟はすでに漂流船の残骸のすぐ近くまで進んでいた。その船は、まるで何年も放置されていたかのように黒く腐食していた。船体は真っ二つに裂け、船首と船尾は互いにあさっての方向を向いている。この船が今も海に沈まずに漂っていることが不思議でならなかった。
船の側面には一面に白いフジツボがこびりついている。それを見る限り、この船は破壊されてから相当な年月が経っているはずだ。それでもなお、この大海原のを漂い続けている……それは異様な光景だった。
そして、その異様な船の甲板に、堂々と一つの宝箱がすえられていた。
【バッツ 】―「ほんとだ。宝箱だ。」
【カイン 】―「あんな露骨なのありえる?絶対になにかの罠でしょ」
【メーベル】―「これは、神様の試練に違いないわ。手紙にもあったでしょう、『絶対に船を降りるな』って。誘惑に負けて船を降りたら、罰が下るわ」
【バッツ 】―「……なあ、一つ考えてることがあるんだけどさ、俺たちってロードランって国についた後、どうやって飯食ってくんだ?だって俺等って一文無しじゃん」
【 ロキ 】―「まあ、当面はこの船に寝泊まりすればいいだろ」
【バッツ 】―「だけど俺達、靴すら持ってねーんだぜ。この炎天下の中、裸足で街を歩き回れってか?」
【メーベル】―「あーそれは辛いかもね。わたしも昨日、床のささくれが足の裏に刺さって痛かった」
【バッツ 】―「よし、決めた、俺がちょっくら泳いであの宝箱の中身取ってくるわ」
【メーベル】―「やめなさい!誰も降りてはいけないって手紙に書いてあった……ってちょっとバッツ!」
メーベルの叫びもむなしく、バッツは既に海に飛び込んでいた。
バッツは素晴らしく泳ぎがうまかった。彼はあっというまに向こうの船まで泳ぎ着くと、甲板にひょいと乗り込んだ。そして、ぺたぺたと床を水で濡らしながら、甲板を横切り宝箱まで歩いた。そして、無造作に宝箱の蓋を開けた。
【バッツ 】―「なんじゃこりゃあ?」
バッツは中を見て、つぶやいた。
宝箱の中に入っていたのは、乾燥してミイラ化したなにかの羽だった……。二枚一組のその羽は、赤いビロードが敷かれた宝箱の底に、丁寧に広げられていた。
バッツは最初、それがコウモリの骨だと思った。バッツがそれを持ち上げて、光にかざすと、薄い羽の中を通る静脈や、細い腕の骨が透けて見えた。
バッツは羽をひょいとパンツの中にしまい込み、再び海に飛び込んだ。彼が泳ぎだそうとしたその時、何かの声が聞こえた気がして顔を上げた。すると、仲間たちが甲板に集まり、こちらを指さして大声で叫んでいる。その声には、明らかに緊張感が宿っていた。
バッツは彼らが自分お後ろを指さあしていることに気づき、ゆっくりと振り返った。
そこには、化け物が立っていた。
黒い化け物は毛むくじゃらの黒い毛に覆われていた。黒い顔の真ん中に埋もれている血走った大きな黄色い目は、目を見開いた黒猫にも、あるいは昆虫のようにも見える。まるで無表情にバッツを見つめるその目は化け物の狂気を物語っていた。
その化け物は、黒い棍棒を持っていた。化け物は無言でその棍棒を振り上げると、バッツの頭に振り下ろした。
【メーベル】―「バッツ!!!!」
メーベルが叫んだ。棍棒はバッツの脳天に直撃し、バッツはまるで釘が打ち込まれたように、海の中に沈み込んだ。
誰もがみな、バッツは即死したと思った。勝利を確信した化け物は、甲板の上からロキたちを見ていた。
【バッツ 】―「いってーな」
バッツは顔をしかめながら、水面に再び浮かび上がった。棍棒は頭蓋を粉々に砕くほどの勢いで振り下ろされたのに、彼はまるで軽く拳骨にでも打たれたかのように、頭頂部をポリポリと掻いているだけだった。
【バッツ 】―「なにすんだテメエ……おおん?」
バッツは、鉄の棍棒を握っている化け物を前に、堂々と船べりに上がった。そして、化け物の顔面に顔を寄せ、1インチの距離から睨みつけた。
化け物は感情がないのか、それとも驚愕に固まっているのかわからないが、ただなにもせず立ち尽くしていた。
次の瞬間、バッツは何の予備動作も見せずに、拳をふるった。
化け物は、デコピンで弾かれた羽虫のように空中を吹き飛び、壁に激突した。羽目板が砕け、構造物が崩れ落ちる。化け物は壁一面に血のりを残し、地面にべチャリと崩れ落ちた。
【バッツ 】―「けっ。弱え」
バッツは頭をボリボリかきながら、化け物の死体に背を向け、再び歩き出した。
すると再び仲間たちの声が聞こえ、顔を見上げるとバッツの後ろを指さしていた。彼はなにかと思い振り返った。
いつの間にかそこには、毛むくじゃらの化け物が百匹も集まっていた。一体コイツラは、いままでどこに隠れていたのだろう。化け物は、まるでカマキリのような無感情な黄色い双眸で、一斉にバッツを見ていた。
化け物の手には、それぞれに武器が握られていた。剣、斧、そして棍棒……やがて化け物たちは、いっせいにバッツに向かって動き出した。
【バッツ 】―「やべっ!」
バッツは叫び、急いで水に飛び込んだ。悪魔たちも次々に水に飛び込み、バッツを追う。
バッツは必死に泳いだ。彼は凄まじい速度で水をかき、激しい水しぶきが上がる。息が上がり、筋繊維が疲労の声を上げる。それでもバッツは泳ぎ続ける。
バッツは船べりに手をかけ、甲板に素早く上がった。しかし、化け物たちもすぐに追いつき、同じように船べりに手をかけてよじ登ろうとしている。
【メーベル】―「化け物おおお!」
メーベルは棹を振り上げ、化け物の頭に叩きつけた。しかし、女の非力な力では、化け物はびくともしない。化け物は構わず平然と船べりに足をかける。
【バッツ 】―「貸せ!」
バッツはメーベルから棹を奪い取ると、それは軽々と頭上に振りかぶった。棹は太い樫の木でできており、長さ三メートルはある思いものだったが、彼はそれを小枝のように扱い、勢いよく振り下ろした。
棹は化け物の脳天に直撃した。スイカが割れるような音が響き、化け物の脳髄が飛び散る。化け物は船べりから手を離すと、海の底へと沈んでいった。
バッツは何度も棹を振り下ろし、化け物たちを次々と殺していった。そやがて小舟が船の残骸から離れると、化け物たちの姿は消えた。
バッツはようやく棹を下ろした。メーベルはその棹をみて驚いた。バッツの凄まじい握力に潰されて、持ち手に指の跡が食い込んでいるのだ。
【メーベル】―「あなた、すごく力強いのね……」
【バッツ 】―「ふっ、見直したか?」
バッツハウインクした。メーベルはむっとして言った。
【メーベル】―「まあ、ね……でも、あんたがそもそも不用意に飛び込まなきゃ、こんな危険なことになってないわ」
【バッツ 】―「あ~わかったわかった」
【 ロキ 】―「それで、宝箱の中身はなんだったんだ?」
【バッツ 】―「ああ、それならこれだ」
バッツはパンツの中から羽を取り出した。宝箱の中で干からびていたはずの羽は、今は水を吸ってぷっくりと膨れている。
みな顔を寄せてそれを見ていると、突然バッツの手の中で、羽が小魚のようにピチピチと跳ね出した。
【カイン 】―「うわっ、なんか生きてる!」
【メーベル】―「ちょっとキモイキモイキモイ」
羽は勢いよく羽ばたき、空中に浮き上がった。その様子は、まるでこかへ飛び去ろうとしているかのよう。バッツハ羽を握り込んだ。羽は、鷲づかみにされた蛾のように、手の中で暴れまわった。
【メーベル】―「ちょっと!早く捨ててよ、気持ち悪い!」
【バッツ 】―「待て待て、俺にいい考えがあるんだ」
バッツはそう言うと、奇怪な羽を握ったまま、船室に入っていった。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
バッツの言ういい考えとは、そのコウモリの羽を、釣りエサにすることだった。
羽は、釣り針に串刺しにされて、海の中へと放り込まれる。もしかしてら活餌になるのかも知れないが、はたしてあんな奇怪なものを食べる魚がいるのだろうか。
ロキがそんな疑問をいだいていると、早速魚がかかったようだった。
【バッツ 】―「お、きたぞきたぞ」
バッツは嬉しそうに、釣り糸を手繰り寄せる。ところが、針が外れたのか、糸は急に抵抗を失った。バッツは首を傾げながら糸を回収すると、一度緩んだ糸が、再び強く引かれた。
バッツは不審そうに海を覗き込む。そして、暗い海の底から何かが浮かび上がってくるのが見えた。それは徐々にその輪郭が明らかにしながら、海へと浮かび上がった。
それは全長三十メートルはある巨大な深海魚だった。深海魚は獰猛な口を大きく開けながら、船を丸ごと呑み込もうと迫ってくる。
【 ロキ 】―「ぎゃあああああ!」
五人は恐怖の叫び声を上げ、あてどなく船上を逃げ惑った。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
明くる朝は、静かな凪の海から始まった。
ロキはいつものように船べりに海水を撒き、塩を作っていた。その時、ふいに頬を撫でる風に湿り気を感じ、彼は顔を上げた。そして進路の先を見やると、そこには、空を覆うくろぐろとした入道雲があった。
【 ロキ 】―「……まずいな、嵐が来る」
ロキは遠くの水平線を見ながら、低く呟いた。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
そうして、彼らはついに嵐に巻き込まれた。
分厚い雲が空を覆い尽くし、空に雷が轟く。稲妻の光が空を裂き、横殴りの雨が容赦なく船室の窓を叩きつける。甲板は何度も高波にさらわれ、船は激しく上下に揺れた。もしこの船が神の加護を受けていなかったならば、とっくに沈んでいてもおかしくなかった。
船員たちは皆、船室に避難していた。この嵐のなか、十秒でも外に出たら、波にさらわれるか雷に打たれるかして命はない。彼らは暗い船室に亀のように引きこもっていた。
【 ロキ 】―「この船、どんな風でも横揺れしないのはすごいんだけど……( ´ཀ`)うっ、うおえ……」
【メーベル】―「そうね……きっと帆にかけられた魔法のおかげね。右に押されれば左から風を受けて。、左に押されれば右から風を受けて。まるで地球ゴマみたいに立ってる……(˚ଳ˚ )うおえ……」
【バッツ 】―「さすが神様の力だよ……けどよ……(;ˊ艸ˋ)うおえええええ……!」
確かに帆は、風を受け流し、常に直立状態に保った。。嵐の中でも進路は東を向いたまま揺るがない。しかし…
【バッツ 】―「でもよぉ……波の揺れはどうにかなんねえのおおおおおおおおおお((유∀유|||))!」
帆の魔法は、風を操る力を持っていたが、波の揺れまでは防げなかった。船は高波に乗り上げては沈み、まるで巨大な浮きのように激しく上下に揺さぶられる。自然に反するこの縦の動きが、加速させた。
ロキたちはみな、猛烈な船酔いに倒れていた。
ロキはまたもや悪寒に襲われ、手元の皿を引き寄せると、ほとんど透明な液体しか出てこない吐瀉物を吐き出した。浅い皿に溜まったそれは、すぐさま船の揺れに合わせて床一面にこぼれ落ちる。船室は吐き気を催すような異臭に満ちていたが、それでも外に出るわけにはいかない。波にさらわれれば即座に命を落とす。
彼らにできることはただひたすら、異臭のこもる船室の中で、嵐が過ぎ去るのを待つことだけだった。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
午後になり、ようやく嵐は収まり始めた。荒れ狂っていた風は次第に弱まり、空にはかすかな明るさが戻りつつあった。しかし、海は依然として白波を立て、容赦なく荒れていた。
甲板に出た彼らは、湿り気のある空気に嵐の余韻を感じ取った。嵐の中心からは抜け出したものの、船はまだその影響下から抜け出していない。船が上下に揺れるたび、胃がひっくり返りそうな感覚が襲ってくる。
メーベルは船べりに寄りかかり、背中を丸めて嗚咽を漏らしていた。胃は痙攣し、体は力なく震えているが、はや吐き出すものはほとんど残っていない。彼女は透明な胃液を口から垂らすと、口元を拭った。
ロキが彼女の背中をさすりながら声をかけた。
【 ロキ 】―「大丈夫か?」
メーベルは弱々しく頷いた。彼女の船酔いは、五人の中でも最もひどいものだった。顔は蒼白で、体は脂汗でべったりと湿っていた。外の空気を吸ったことで、あらためて彼女の体から漂う異様な匂いに気づいたが、それを指摘するわけにもいかない。何より、ロキ自身も同じくらいひどい状態だったのだ。
その時、メーベルがふと顔を上げ、震える手で遠くを指さした。
【メーベル】―「あれ!」
ロキは彼女の指差す方向に目を凝らした。大きな波の合間に、何かが一瞬見えた気がしたが、すぐに次の波に遮られてしまった。ロキは目を凝らして、視界が開けるのを待った。
【 ロキ 】―「船だ!」
ロキは叫んだ。波間に、一艘の小舟が力なく漂っている。そして、その中には白い布に包まれた赤ん坊が横たわっていた。赤ん坊の他に人影はなく、その命は波の気まぐれに委ねられていた。
【メーベル】―「赤ん坊が……!」
【バッツ 】―「よっしゃ、俺が行く!」
バッツはその声を聞くやいなや、迷いもなく海へ飛び込んだ。白波に逆らい、荒れ狂う海の中をまっすぐに小舟へ向かって泳ぎ出す。
【 ロキ 】―「あいつ、どんだけ度胸があるんだ……」
バッツはあっという間に小舟にたどり着き、中に飛び込んだ。赤ん坊は突然の訪問者に驚いたのか、目を見開いていたが、すぐにかすれた声で泣き出した。その泣き声は、波の轟音に掻き消されそうなほど小さい。
赤ん坊を包む布は、雨でぐっしょりと濡れていた。このままでは体温が下がってしまう。バッツは船を漕ごうと棹を探したが、船には赤ん坊以外は何も見当たらなかった。
【バッツ 】―「棹を持ってくればよかった……」
バッツハ焦りをつのらせた。すとと、急に足元の小舟が大きく傾き出した。
彼は顔を見上げた。すると、巨大な波が、まさに彼と赤ん坊に迫ってきていた。波の高さは20メートルはあろうかというほどで、小舟は波に乗り上げて大きく傾いた。
【バッツ 】―「やばい……このままじゃ転覆する!」
瞬時にそう判断したバッツは、赤ん坊をしっかりと抱きかかえ、海に飛び込んだ。
波が彼らを飲み込み、バッツは激しい水流に巻き込まれた。上下もわからないほどもみくちゃにされた。無数の気泡が二人を包み込み、水を搔こうにもうまく捕らえることができない。それでもなんとか体勢を立て直し、バッツは水面へと泳いだ。
ようやく顔を水面に出し、彼は大きく息を吸った。振り返ると、小舟はすでに波にさらわれ、跡形もなく消えていた。
バッツは赤ん坊を頭上に掲げながら、立ち泳ぎで船へと戻った。
バッツが戻ると、メーベルは船べりから身を乗り出し、赤ん坊を受け取った。
【メーベル】―「冷たい……!」
メーベルは驚いて言った。。赤ん坊の体はひどく冷えていた。彼女は急いで船室へ向かい、五人も後を追った。
船室に戻ったものの、赤ん坊を温める道具は何もなかった。迷うことなくメーベルは上着を脱ぎ、それで赤ん坊を包み込み、裸の胸元にしっかりと抱き寄せた。アルも上着を脱ぎ、それを赤ん坊にくるませると、メーベルといっしょに赤ん坊を挟み込んだ。
【 ロキ 】―「俺たちは外に出てるよ」
【メーベル】―「気にしないで」
メーベルは答えたが、男たちは何も言わずに甲板へ戻っていった。
外ではまだ、荒れた波が続いていた。嵐の残り香の小雨が、冷たく肌を濡らした。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
やがて夜が明け、朝が訪れた。
赤ん坊は、夜のうちに冷たくなり、静かに息を引き取った。女たちは一晩中その小さな命を抱きしめ、温もりを与えようとしたが、なすすべなく命が静かに消えゆく様を見守ることしかできなかった。
太陽が昇り始め、空がうっすらとまどろみはじめる頃、彼女たちは赤ん坊を布で丁寧に包み、海へと送り出した。静かな海が赤ん坊を包み込み、遠くへ遠くへと運んでいく。朝焼けの海は、昨日の嵐など嘘だったかのように、穏やかに静まり返っていた。
メーベルは手を合わせ、静かに祈りを捧げた。他の者たちもそれに倣い、祈った。海の彼方へ消えていく赤ん坊をじっと見つめながら、彼らは無言のまま立ち尽くしていた。
【メーベル】―「神様は、私たちに一体何をさせたかったんだろう……」
メーベルがぽつりとつぶやいた。
【バッツ 】―「……俺の服を着な」
バッツは黙って上着を脱ぐと、いまだ裸のメーベルに差し出した。
【メーベル】―「ありがとう」
メーベルは静かに礼を言い、バッツの上着を身にまとった。
カインもバッツに習い、アルに自分の服を差し出した。アルはそれを受け取って頭からかぶったが、服は彼女には少し大きすぎて、膝まで服の裾にすっぽりと覆われた。
赤く腫れた目をこすりながら、アルは無理に笑みを浮かべた。すると、他の者たちも微かに微笑みかえした。朝の日差しが上り、彼らの体温を少しずつ温めていった。
その日の航海は、どこまでも静かだった。凪いだ海を進む静かな船の音だけが、彼らを包み込んでいた。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
明くる日、再びメーベルが沖合に何かを見た。
【メーベル】―「あれ、何かしら?」
ロキが目を凝らすと、遠くに小さな船が浮かんでいた。
【 ロキ 】―「船だな」
船は、波に流されて段々と近づいてきた。
小舟には人影がなかった。帆は畳まれ、オールは左右に投げ出されて海面に突き刺さっている。船は無抵抗に波間を漂っていた。
やがて、船はさらに近づいてきた。ロキは立ち上がり、目を凝らす。そして、ようやく船内の様子がかいま見えた。
船の中には、血まみれの兵士が二人、倒れていた。
一人の兵士はすでに息絶えており、切断された首の傷口から赤い肉が覗いていた。彼は体を船べりに横たえたまま、微動だにしなかった。
もう一人の兵士は、わずかに肩を動かし息をしていた。彼は、虚ろな目でロキたちを見つめていた。
【 ロキ 】―「おっちゃん、大丈夫か?」
ロキは迷うことなく船に飛び移り、兵士のもとへ駆け寄った。
兵士の胸甲には大きな穴が開き、そこから流れ出た大量の血が船底に血溜まりを作っていた。鎖帷子は血でゴワゴワに固まり、赤黒く変色している。右脚は膝から先が切断され、止血のためのベルトがきつく巻かれていた。
ロキ上着を脱ぎ、兵士の傷口を覆った。兵士はロキに何かを話そうとし、口を動かした。ロキは彼のそばにかがみ、耳を近づける。朝もやの寒気の中、男の息の微かな温もりを感じながら、ロキはその言葉を聞き取った。
【 兵士 】―「悪魔の襲撃だ……。船が悪魔どもに襲われた」
兵士はそこまで言うと苦痛に顔を歪ませ、肩で息をあえいだ。
【 ロキ 】―「船?あんたはどこの国の兵士だ?」
【 兵士 】―「俺達はローゼンハイムの西海艦隊に所属している。戴冠式の警らのために、沖にいたんだ……」
兵士は、ぜえぜえと肩で呼吸をしながら、続けた。
【 兵士 】―「わたしを、いますぐ王のところまで連れて行ってくれ。私の名は、ハンス・ユーベルトだ。王城の中に、裏切り者がいるのだ」
【 ロキ 】―「誰だ、その裏切り者ってのは」
【 兵士 】―「それは言えない……王に直接離さなければならない事情がある」
【 ロキ 】―「俺達は、絶対に他人に漏らしたりしない。言ってくれ」
【 兵士 】―「だめだ。君たちが危険だ。名前を知れば、殺されるかも知れない……」
【バッツ 】―「構わねよ。言えって」
バッツがロキたちの船から声をかけた。
【 兵士 】―「すまんができない……遺書を頼みたい」
【 ロキ 】―「わかった。誰に渡せばいい?」
しかし、ハンスは返事をできなかった。彼は目を閉じ、苦しげに呼吸するだけだった。
【 ロキ 】―「勝手に読むぞ。『我、若年より皇軍の栄光に仕え一片の悔いなし。しかし壮年にて故郷に残せし母を思う。我の僅かな蓄え是非母に贈り給え』。きちんと渡しておくよ」
遺書を折りたたむと、ロキは遺書を胸にしまった。
ハンスの呼吸はさらに荒くなった。もう長くはないだろう。アルがハンスの右脚を見て言った。
【 アル 】―「ねえ、脚に蛆が湧いてる」
【メーベル】―「触らないで!蛆は傷口をきれいにしてくれるわ」
【 ロキ 】―「蛆が湧いてるってことは、ハエがそもそも船にいたか、それとも陸が近くにあるかだな」
【バッツ 】―「よっしゃ。マストに登ってみら」
バッツは、あっという間にマストをよじ登りの頂点に立つと、水平線を指さして叫んだ。
【バッツ 】―「島が見えたぞ!」
ロキは立ち上がった。彼は船べりにたち、バッツの指差す方をみると、確かに霧の向こうに、島が見えた。
それは、けっして小さな島ではなかった。島は山なりに高さがあり、斜面は一面の緑に覆われていた。山の頂上はかなり高度があり、霧に隠れていまは見えない。
斜面の麓に、橙色の屋根に覆われた白い町並みが見えた。それは、ざっと見た感じでは、人口二百人はいる村だろう。あの島ならば、神官も見つかるはずだ。
【バッツ 】―「よし、あの島に行くぞ」
【メーベル】―「ダメよ、進路を変えちゃ。手紙に『絶対に進路を変えるな』と書いてあったでしょう」
【バッツ 】―「はぁ?このままこのおっちゃんを見殺しにするのか?」
バッツは怒りをあらわにし、棹を手に取ろうとするが、メーベルがそれを遮った。
【メーベル】―「やめて。手紙に逆らわないで」
【バッツ 】―「馬鹿か?進路を変えるなっつーんなら、そもそもなんでこの船に棹なんかあるんだ?」
【メーベル】―「それは、神を試すな、ということだと思う」
【バッツ 】―「何意味わかんねー事言ってんだ!もういい、黙って見てろ」
バッツはそう言うと棹を握り、助走をつけて船べりを蹴った。そして、兵士の船に飛び移った。
【バッツ 】―「俺がこの船を操縦する。それなら文句ねーだろ。お前らは先にいけよ」
【メーベル】―「それはだめよ。だれも船を降りるなってかいてあったでしょう」
【バッツ 】―「じゃあこのおっさん、死んでもいいのかよ!」
【カイン 】―「ロキはどう思うんだ?」
カインが訊ねた。ロキは答えた。
【 ロキ 】―「なあメーベル、お前は手紙の内容を守れって言うけど、そんなのは昨日赤ん坊を助けたときに破ってるだろ」
【メーベル】―「それは……」
【 ロキ 】―「俺はこの人を助けるべきだと思う。それに、俺達の目的は王女を助けることだろう。このままだと王城の裏切り者ってのがだれだかわからなくなる」
【 アル 】―「私も、このおじさんを助けたい。」
【バッツ 】―「カインは?」
【カイン 】―「僕も賛成だ」
【バッツ 】―「どうする?四対一だぞ」
【メーベル】―「……わかったわ、助けましょう」
【 ロキ 】―「よし、じゃあ島に向かおう」
こうして彼らは帆を畳み、島に向けて船を漕ぎ出した。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
こうして、彼らはハンスを担ぎ、島の教会へと運び込んだ。
【 神官 】―「――――命の果の暗闇の縁 大地を濡らす信仰の血 聖者を照らす月明かり 天国に至る神の道」
神官が呪文を唱えると、ハンスの呼吸はようやく落ち着いた。深い眠りについたハンスは、ベッドの上でかすかに規則的な呼吸を繰り返している。
【 ロキ 】―「この人は、いつ頃目を覚ましますか?」
ロキが問いかけると、神官は穏やかな表情で首を振った。
【 神官 】―「当面は目を覚ますことはないでしょう。体はまだまだ衰弱しています」
【バッツ 】―「でも、命は助かったんだよな?」
神官は優しく微笑みながら頷いた。
【神官】―「命に別状はありません。それは私が保証しましょう」
【バッツ 】―「そうか……良かった」
安堵の声を漏らすバッツの背中を、ロキが軽く叩いた。
【メーベル】―「神官様、お願いがあるのですが」
メーベルが言った。
【メーベル】―「杖をお借りできますか?それと、先程神父様が唱えた魔法を教えていただきたい」
【神官】―「魔法を覚えるには、何年もの時間がかかりますが……」
神官は断ろうとしたが、しかしメーベルの決意に何かを感じ取り、承諾した。メーベルは教会の奥の部屋に行き、魔法を授かった。彼女が戻ってきた時、その手には十字架の杖が握られていた。
夜が深まる中、彼らは静かに教会を後にし、港を出発した。星の瞬く空の下、彼らは帆を揚げ、静かに海へと漕ぎだした。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
あくる朝、五人は朝はやくに甲板に出て、メーベルの魔法を試すことにした。
【メーベル】―「――――命の果の暗闇の縁 大地を濡らす信仰の血 聖者を照らす月明かり 天国に至る神の道」
メーベルがそう唱えると、バッツの手のひらに刻まれた傷は、みるみるうちに塞がった。
【バッツ 】―「おお、すげえ」
【メーベル】―「こんなの、初歩の初歩の魔法よ。なにもすごくないわ」
【 ロキ 】―「でも、神官様も言ってたじゃないか。魔法を覚えるのは長い時間がかかるって。それを一晩で覚えたんだから、やっぱりすごいって」
【メーベル】―「まあ、この力で、命を救えればいいんだけど」
【バッツ 】―「よし。そろそろ飯にしよーぜ」
そう言って、バッツが船室に戻ろうとしたとき、彼らは遠くに軍艦の姿を見た。軍艦は、孤独な海の中で、堂々とした存在感を放っていた。高い甲板を備え、上段には長いマストがそびえ立ち、白地に金と赤の十字架をあしらった旗が風にたなびいています。帆は大きく、真っ白な帆布が潮風を受けてふくらみ、船はまっすぐこちらに向かってきた。
船が近づくと、船の詳細な様子があらわになってきた。船の側面には何層にも渡って大砲の砲口が並び、黒い鉄製の砲身が外へ向けられている。船首には象牙の剣士の彫刻が白く輝いている。
艦は、段々とアイルたちに近づいてきた。船はとてつもなく大きく、横に並ぶと、その舷はまるで崖が迫っているようだった。船べりの上から、兵士たちが鋭い目でロキたちを見下ろしている。彼らは小舟をおろして、ロキたちの船に近づいてきた。
【 ロキ 】―「俺が話しをする」
ロキは言った。三人の兵士が船に乗り込み、言った。
【 兵士 】―「わたしたちは、ローゼンハイム西海部隊のものだ。この近辺の海を警らしている。中を検めさせてもらおう」
【 ロキ 】―「もちろんです。どうぞ」
ロキがそう言うと、二人の兵卒は船室に入っていった。残った一人の兵士が言った。
【 兵士 】―「お前たちは、何しに来た」
【 ロキ 】―「王女様の巡礼の旅に同行するため、西からやってきました」
彼が言い終わったところ、船室を調べていた兵士が、戻ってきた。
【 兵士 】―「早いな。何かあったか」
【 兵卒 】―「船室にはなにもありませんでした」
【 兵士 】―「本当か」
【 兵卒 】―「ええ、テーブルの他にはなにも」
【 兵士 】―「そうか、ご苦労。俺達は西の海域で俺達の仲間と連絡が取れなくなった。なにか心当たりはないか」
【 ロキ 】―「我々は遭難者を給餌しました。名前は、ハンスユーゲルト」
【 兵士 】―「なんだと!ハンスはいまどこに!」
【 ロキ 】―「は。サラトガという島にて、治療を受けています」
【 兵士 】―「サラトガ……ここからすぐ近くではないか。ありがとう。感謝する」
【 ロキ 】―「ひとつよろしいですか。ハンスさんが言うには、王城のなかに裏切り者がいると」
【 兵士 】―「なんだと!それは誰だ」
【 ロキ 】―「それが、名前を挙げることを拒否されました。我々が知ったら、命の危険に巻き込まれると。彼はそのまま意識を失いましたので、裏切り者についてはそれ以上のことはきけませんでした」
【 兵士 】―「……そうか……わかった。協力感謝する」
【メーベル】―「あの、わたしもひとつよろしいでしょうか」
メーベルが前に進み出た。
【メーベル】―「この軍艦に神官様はおられますか」
【 兵士 】―「ああ。当然だ。どんな軍艦にも神官は乗っている。それがどうかしたか」
【メーベル】―「……いえ」
メーベルがそれ以上のことは何も言わなかったので、彼は軍艦に乗り込み、去っていった。その背中を見ながら、メーベルは言った。
【メーベル】―「やっぱり、進路を変えるべきじゃなかったのかも……もしハンスさんをあのまま船に乗せていたら、ここで引き渡せたのかも知れない」
【 ロキ 】―「そんなこと、いまさら言ってもしょうがないだろ」
【メーベル】―「うん。で、私は考えることをやめないわ。そうすべきだと思うから……わたしたちって、記憶がないのに全然性格違うじゃない。わたしはそのことに意味があると思うの」
【 ロキ 】―「そうか」
ときは短く答えた。そのとき、バッツが船室から大声で呼んだ
【バッツ 】―「なあ、ロキ、ちょっとっときてくれるか」
ロキとメーベルが船室に入ると、バッツが顔をこわばらせていた。
【 ロキ 】―「どうした?」
【バッツ 】―「……食事が、用意されてないんだ」
【 ロキ 】―「なんだって?」
ロキとメーベルは、顔を見合わせた。果たして、その日から公開が終わるまで、船に食事は現れなかった。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
昼も夜も、彼らは神が食事を与えてくれるのをじっと待っていた。しかし、期待はことごとく裏切られ、食卓が整えられることは一度もなかった。それから、何も食べられない日々が続いた。三日目の夜には、皆が空腹で甲板に倒れ込んでいた。腹の虫と静かな波の音の他には、聞こえるものはなにもない。みな喉は渇き、頬はこけ、目はどこか虚ろになっている。空腹の限界は近づいていた。
【 ロキ 】―「もうおれたちは駄目かもな…」
ロキがかすれた声で呟いたそのとき、バッツが水平線を見て叫んだ。
【バッツ 】―「陸だ!見えたぞ、陸!」
彼らは力なく立ち上がり、その光景を目にした。確かに、遠くに陸地が見える。突如、船は風を受けて、意思を持ったかのように港へと向かって進み始めた。船は港を走り、勝手に桟橋に横付けになった。
街は、祭りの真っ最中だった。おそらく、王女の戴冠を祝っているのだろう。音楽と笑い声が街中に響き、そして美味しそうな香りが風に乗って漂ってくる。
【バッツ 】―「もう、陸に上がって飯を食おうぜ!」
バッツが興奮しながら言った。
【メーベル】―「でも、わたしたちにはお金がないじゃない…」
メーベルがため息交じりに答える。
【バッツ 】―「メーベル、もう覚悟決めろ。食い逃げするしかねぇって!」
【メーベル】―「そんな、だめよ…」
メーベルが戸惑う中、ふいに、小さな少女が声をかけてきた。
「お兄ちゃんたち、旅の人かい?今日はお祭りだから、いくらでも食べ放題だよ!」
少女の言葉に、全員が顔を見合わせた。次の瞬間、誰からともなく船を飛び出し、港へと駆け降りていく。すると、彼らは広場に設けられた空いたテーブルを見つけた。そこにはパンやスープ、そしてぶどう酒、色とりどりの飲み物などが、冷たい水滴を垂らしながら、並べられていた。
隣のテーブルを片付けている給仕のおばちゃんと目が合うと、彼女は五人を手招きで座らせた。
【バッツ 】―「おばちゃん、これタダかい?」
バッツが聞くと、おばちゃんは笑顔でうなずいた。
五人は飲み物に手を伸ばす。彼らはエールとぶどう酒をたらふく飲み干し、乾いた喉を潤す。パンをリスのように口に詰め込み、果物や肉を次々に頬張った。彼らは飢えた獣のように無我夢中で食べ続けた。
バッツは腹を押さえながら、酔いの中で大声を上げた。
【バッツ 】―「うめえええええ!これが飯だぜ!見たか!ファックユー、ゴッド!」
創意いいながら、バッツは天に向かって中指を立てる。メーベルもそれを見て笑い、中指を突き立てる。
【メーベル】―「イエエエエ!ファックユー、ゴーーッド!」
二人は笑い合い、酔った勢いで何度も何度も中指を天に向けて突き出した。ロキもカインも、アルも大笑いした。
こうして彼らはたらふく飲み明かしながら、夜更けまで大騒ぎしたのだった。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇
翌日、彼らは朝早くに港を出た。
そうして、ロキたちが目覚めてから四十日目、ついにロードランにたどり着いた。
◇◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇