9話
その後、結局オーレンさん以外に2人にも追いつかれてしまい、小言を言われた。
その度に誤魔化しの言葉を吐き、納得させないままに話題を逸らして見送った。誤魔化しきれなくて何かされるということもないと思っていたけど、正直うんざりだった。僕は僕の知りたいことの為に事を起こしている。それでお前たちには迷惑をかけていないだろう?と開口一番言ってやりたいと思った。
だけど、この世で正しいのはあっちなんだ。だから非難されるのは仕方のないこと。納得してもらおうとか許してもらおうとかは微塵も思っていないけど。
そうして燃料を窯に投入し続けて、2時間が経った。もうそろそろ籠に吊るしてきた薪も少なくなってきたなと思い始めた頃。
それまで夜の空を飛んでいたはずが急に明るい場所に出て、僕は目を瞬かせた。
そして見渡して、ここが天国なんだと一瞬で理解した。
明るいけれど、太陽のような一方的に与えられる強い明るさとは全く違う。そもそも空には光るものが一切ない。
世界全体がふんわりと優しい明るさを放っていて、淡い暖色の光に包まれているようだった。
眼下には柔らかそうな雲が広がっていて、見上げると一面に白い羽が降り注ぐ。
そしてより高いところに、浮かぶ大きな島が見えた。羽はそこから降り注いでいる。背中に翼が生えたひともそこに向かっているみたいだ。
「………」
本当に辿り着いてしまった。摩訶不思議な世界に誘われ、感動と好奇心に心を奪われそうになったけど、ぐっと堪えた。
天国は本当にあった。であれば、あと確かめたいことは2つ。
祝福の羽は本当に天に昇ったひとの羽なのか。それが本当であるなら、どうして天に昇ったひとの羽が地上へ降り注がれているのか。
それを知りたい。僕は薪を続々と投入していく。
「おぉっ、あそこが、天国―――」
そしてまた1人、気球の隣を追い越していくひとがいた。今までのひとは僕のことを見るなり説教をしてきたけど、ここに至るともう関心は天国に吸い寄せられているらしい。
面倒じゃなくて好都合だ。僕はもう一度見上げてまだ天国まで少し遠いのを確認すると、更に薪を窯に入れていく。
「あ———なんだ、あれは……」
と、隣で昇っているひとが驚いたように息をのんだ。好奇心に駆られて作業を中断し、天を見上げる。
天国と思われる島の端で、何か動いているように見える。羽はそこから降ってきていて、方向からして隣のひともそこに呼び寄せられているように見える。
だけど、まだ遠い。それに上にある布袋が邪魔をして僕からだとあまり見えない。ひとまず何があるのか確認するのは諦めて、僕は薪を入れる作業を再開した。
だけど。
「あ、あぁっ、嘘だろ、やめてくれっ!!」
隣のひとが突然、取り乱し始めた。何が見えるのか、その尋常ならざる慌てぶりに再び作業をやめ、今度は籠から思い切り身を乗り出して天を見上げた。
天国だと思われる島。その端っこで動く何かがいた。少しずつ輪郭が見えてきた。
あれは、ひとの形をしているから、ひとだと思う。ひとだと———思った。
「っ…!」
だけど、気づいてしまった。違う。明らかに縮尺がおかしい。あの島まではまだ遠い。なのにひとの輪郭がはっきりと見て取れる。大きさからしてそれはひとではあり得ない。もっと大きな何か。
その大きな何かは、手に小さな何かを持っている。更に目を凝らして見ると、その小さい何かは動いているように見える。
その何かとは———ひとだった。背中に翼の生えた、ひとだった。
「ひっ…!」
悲鳴を上げてしまう。大きな何かが、だいぶ前に僕を追い越して昇って行ったひとを掴んでいる。捕まっているひとは、その大きな何かの手の中で必死の抵抗をしていて、逃げ出そうとしているように見える。
だけど食べられてしまった。
「………」
声も上げられない。あまりに呆気なくひとが食べられるところを見て、悲鳴も何も上げられなかった。
背中の翼を手で掴んで口元まで運び、翼以外を一口で咀嚼。翼だけが嚙み千切られて大きな何かの手に残る。
もぐもぐと口を動かしながら、その大きな何かは翼を両手でしごいた。途端、翼についていた羽は散らばり、その場から降り注ぐ。そうして数回しごいて羽を落とし切った翼の骨だけを、その大きな何かは大事そうに脇へ置いた箱に収めた。
「あ、あ、ぇ……」
口が震えて言葉が出ない。口だけじゃない、全身が震えていた。
恐ろしい。より近づいてきてその大きな何かの全貌が見えてくる。
それは間違いなく、ひとの風体をしていた。ただ単純にひとを数十倍に大きくしただけの、それだけの巨人。
顔には朗らかな笑顔が浮かべられており、多分、年のころで言うと40歳は軽く超えている見た目の男。
全くひとと見た目が変わらないその何かは、脇の箱に翼の骨を収めた後、両手で宙を掴んで何かを引き上げる動作を始めた。すると、隣にいたひとの昇るスピードが少しだけ早まる。
「―――あ」
理解した。あいつが、翼を生えたひとを引き上げているんだ。
つまり、これは———そういう、ことだったんだ。
「やめっ、嘘だろ、やめてくれっ、たすけ、下ろしてくれ!!」
隣を昇っていたひとが騒ぎ出す。だけどその声もどこか遠くのことに聞こえてしまう。僕は、力を失くして籠の中に座り込んだ。
全部理解してしまった。あの天国にいる巨人が何かは知らないし、なんでこんなことをしているのか分からないけれど。
今まで天に昇ったひとはどうなったのか。その顛末だけは完膚なきまでに理解してしまった。
「ミリア…っ」
どう思っただろう。
何を思っただろう。
悔しかっただろう。
怖かっただろう。
信じたくない。信じたくないけど、でも———あぁ、ミリア……
ごめん。救ってあげられなくて、ごめん…
「うぁぁっ…! ミリ、アっ、ごめん…!」
苦しい涙が出た。
どうにかしてあげたかった。苦しんでいるなら為になってあげたかった。助けてあげたかった。
だけど、全部が遅すぎた。ミリアはきっと、2か月も前に、死んでいる。
1人で。あの巨人に食われる直前まで、恐怖に震えた後で。
死んでしまった。
「やめてくれぇぇっ!!」
聞こえてきた悲鳴で、はっと我に返った。
いつの間にか気球はだいぶ高くまで昇ってきてしまったらしい。巨人の姿もはっきりと見える。悲鳴を上げているひとは、巨人のすぐ傍まで昇り切ってしまっていた。
巨人はその人を引き上げながらも、不思議そうな顔を浮かべて僕のことを見つめていた———認識されている。それを悟ると、ぞくりと背中に悪寒が走った。
「っ!」
慌てて厚手の手袋をつけて、窯の中で燃えている薪のいくつかを取り出して空に捨てる。布袋の中の熱を一旦下げて高度を落とす。じゃないと、あの巨人が手を伸ばして捕まえてくるとも限らない。
いや、そもそも一旦ではなく、このまま地上にまっすぐ帰ろう。天国に呼ばれるということがどういうことなのか、地上のみんなに伝えなければならない。そんな使命感が、自然と湧いてきた。
いや———これは、使命感ではないと思う。単純に怖かった。目の前で見せつけられた光景が。それから僕は逃げたかった。
ゆっくりと高度が下がっていく気球の中で、僕の体はまだ震えている。
怖い。恐ろしい。いつあの巨人が、ぬっと天国から身を乗り出して僕を捕まえに来るか。とても手の届かない距離だと思うが、恐怖が想像を掻き立ててくる。想像以上に身体を伸ばしてきて、ぎゅっと掴んでくる姿が目に浮かぶ。
そして現実。巨人はさっきまで僕の隣にいたひとを手に収めながらも、じっとまだ僕のことを見つめてきている。
「たすけっ、たすけぇぇ———」
ばくりと、助けを呼んでいたそのひとは一口で食べられた。そして背中の翼だけ噛み千切られて、しごかれて羽が再び空を舞う。
ドクドクと心臓がうるさいくらいに脈打つ。次は僕を捕まえに来るんじゃないか。想像の中の影と巨人の姿が重なり、身を乗り出して僕を捕まえに———
「………」
巨人はさっきまでと変わらず、宙を掴んで何かを引き上げる動作をし始めた。それによって僕が引き上げられるようなことは———なかった。
「………」
しばらく、徐々に離れていく巨人の姿を見上げ続ける。相変わらず視線はこっちを向いているが、何かしようという気配はない。
「………ぷはっ」
ため込んでいた息が、一気に解放された。荒く呼吸を繰り返して胸を落ち着かせる。
助かった。
助かったんだ、僕は。こんな、暴挙にでて。こんな、恐ろしい目にあって。あんな、大きなものに目をつけられて。
それでも、僕は、助かったんだ。息を吐く度に身体が無事である実感に打ち震える。
助かったんだ———僕は———僕だけ、は……
「………」
悲しみが、再び襲い来る。だけど嘆くのは後にしよう。
まずは地上に戻ろう。そしてそれから、それから———
ガタンッ、と大きく気球が揺れた。
「っ…!?」
揺れる籠の中で尻もちをつく。なんだ、布袋の中の熱が足りなくなって急に落ち始めたのか。咄嗟に窯の中に薪を入れ直そうとして———愕然とした。
気球が、空に向かって昇っている。外の景色も、自分を襲う浮遊感も、自分が地面に降りていっているのではなく昇っているのだと告げてくる。どうして、なんで、
「お~い、なんだこれは。昇るのに邪魔じゃないのかい?」
動揺していると、籠の下から声が聞こえてきた。はっと気づき、身を乗り出して籠の底を見てみると、そこに翼の生えたひとがへばりついていた。
「ん、誰か上にいるのかい? ちょっと、昇るのに邪魔なんだけど、どかせないかい? 重くてかなわんよ」
へばりついているひとは僕の気配に気づいたみたいだけど、籠の底から身動きが取れないようで呑気に文句を言っている。
「―――まさか…」
僕は天を見上げた。
少し離れた空の向こう。天国の巨人が相変わらず引き上げる動作をしていた。
だけどその手が、何かを手繰るように左右へ僅かに振られていた、
———おしまいだ。僕は自分の“死”が目前に現れたのを理解した。
あの巨人は、僕を逃がすつもりなんてなかったんだ。だからこうして翼の生えたひとを籠に引っかけて、僕ごと引き上げようとしている。
翼が生えているひと以外を、きっとあの巨人は引き寄せられないんだろう。でなければこんな回りくどいことをせず僕を直接引き上げている。
「ミリア……」
天に昇って、いろんなことが分かった。分かって、分からされて、こうして絶望も通り越して途方に暮れている。
おしまいだ。逃げられない。この籠は上下にしか動けないんだから。
ずるずると巨人の手によって引き上げられていく。背中に翼の生えていない僕がどんな扱いを受けるのか、分からないけれど確信はある。
死んだ人と同じところに行けるんだ。なるほど、そう考えると恐怖が少しだけ薄らいだ気がした。
「………マリ…」
そうなると、別の感情がふと沸いてきた。天国に昇りたくて、両親に会いたくて、でも絶対に叶えられないと絶望の毎日を過ごしている彼女。
あぁ……不憫だ。天国に昇れないことで毎日心を痛めている彼女に、天国の真実を伝えたい。
———伝えない方が、いっそ知らない方が幸せなのか? 分からない。だけど、絶対に叶わない願いは絶望そのもので、そのままそれにしがみつくだけの人生は不憫だと、やっぱり僕は思った。
どっちにしろ、地上の誰かには天国の惨状を伝えたい。多分誰に伝えても信じてもらえないと思うけれど、もしかしたらマリだったら信じてくれるかもしれない。
いや、マリのことだから一層のこと信じたくないと思うかな……分からないな。僕だって、実際に目にしなければこんな酷いことが行われてるなんて信じられないと思う。
でも仕方ない。僕は地上に戻れないし、ここの様子を鮮明に誰かに伝えることは無理なんだ。
だから———こうしよう。
僕は地上にメッセージを送る手段を考え、それを実行し、成し遂げた。指先を噛んで血を出して、脱いだ服に書き記して薪を重しにして投げ捨てた。
時間はギリギリだった。成し遂げた後、籠から空を見上げると、そこにもう空は映らない。
目の前には巨人の手と顔。気球を捕らえられ、興味深そうに大きな眼に見つめられた僕はそのまま———
次回、最終回