8話
女子部屋に入る。ミリアが血を浴びても天へ昇ったこともあって、前よりも兄弟姉妹の距離感が近くなったとマリは言っていた。だけどこんな日にマリの近くにいるひとはいなかった。
窓から夕暮れの陽が差す。オレンジ色に染まるベッドとシーツはもう血に汚れていない。あらかた吐き終わって血が固まり切った後、汚れたものは片付けられたらしい。
綺麗に替えられたベッドの上に寝かされているマリは、いつもよりも顔色が酷かった。病はお医者様から諦められている。与えられている薬も治すものではなく痛みを誤魔化すものでしかない。血を吐いたマリがお医者様に診てもらうことはなく、こうして安静に部屋の隅っこに寝かされるだけ。
「………」
僕は寝ているマリに何も言えず、触れもできなかった。彼女は多分、もうすぐ死ぬんだ。死にいく彼女にしてあげられることは何もなく、そして死んだ後彼女にしてあげられることも何もない。
僕が抱いているのは同情と共感。マリが死ぬことによって悲しむだろうけど嘆くことはない。そんな僕が、今のマリにとって最も近い存在なんだ。そんな事実に気づいてしまう度、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
手を握って安心させてあげよう、なんて、あの時とは違って思えはしない。僕はこんな状態のマリを捨て置いて、自分勝手に帰ってこられるかどうかも分からない天へ昇ろうとしている。謝るのも慰めるのも烏滸がましいと思えた。
だけど———あるいは、だからこそ、なのか。窓の外に降っているものを認め、僕はズボンのポケットからハンカチを取り出した。
いつもは粘土を持ち運ぶために使っていたそれ。だけど持っていた粘土は全部空を飛ぶ材料に使ってしまって普通の用途でしか最近使っていなかったそれ。
それをマリの手に握らせた。どうしてそんなことをしたいと思ったのか。考えてみたけれど、その感情にはまだ名前をつけられなかった。
僕はマリに背を向けて部屋を出る。そしてそのまま孤児院から外に出て空を見上げた。
祝福の羽が降り注ぐ。それを尻目に僕は墓地近くの小屋を目指した。
今日、僕は空を征く。無事に戻ってこられるかどうかは分からない。
小屋の中から空を飛ぶ乗り物を運び出す。
木組みの大きな籠と、大きな布袋。それらを結ぶ丈夫な綱。
まずは布袋を別で用意した木組みの柱に吊るして立体に膨らます。その中に粘土で作った厚手の窯を入れて、布に引火しないように気を付けながら空気を温める。
窯は上と横に穴が開いている。僕が横の穴から燃料となる枯れ木の薪をどんどんと投入していくと、上の穴からどんどんと温かい空気が出ていく。
熱にあてられた布袋はますます膨らんでいき、やがて柱がなくてもピンと張り始めた。後々邪魔になる柱を退かしてから、木組みの籠に乗り込んで僕は更に薪を入れていく。
熱い。籠の真上に窯があって、布袋の中に逃がしきれない熱が下りてくる。でも我慢する。
やがて熱がたまり切って、布袋が上から引かれるように浮かび始める。同時に綱で結ばれた籠も地面から離れる。成功だ。
降り注ぐ羽に逆らってゆっくりと、“気球”と名付けたそれと僕は昇っていく。地面はどんどんと離れていく———後戻りするなら今しかない。のに、いざこの時を迎えて、もっと怖いかと思っていたけど全然そんなこともなかった。
地面はもう見ない。夕陽が沈んで夜の色に変わろうとしている空を見上げる。
どこまで昇れるか、天まで昇り切れるのか、分からないけれど。
空へ、行こう。
空を飛び始めて20分が経過した。もうだいぶ地面が遠くなっている。
いつもは見上げていた家も、木々も、まるで玩具のように小さい。ところどころ明かりがチラチラと動いているのを見るとそこでひとが動いているんだなというのが分かる。
僕と気球はどんどんと空に向かって昇っていく。燃料となる薪は籠にたくさん吊るしているので尽きるのはまだまだ先。
その燃料が尽きても天に辿り着かなければ、おしまい。そもそも天に辿り着いて地上に戻るのにも薪は少なからずいる。
降りる為には昇るよりも熱を弱めればいいことも分かっている。だいたい気球の下に吊るしている薪が3分の2くらいなくなったら地上に戻るか、そのまま突き進むのか選択を迫られる。
ひとまず、それまでは適宜薪を投入していくくらいしかすることがない。僕は一旦窯の横穴に蓋をして、籠の中に腰を下ろして一息ついた。
「おや、誰かと思ったらジョゼフじゃないか」
そんな時、声がかけられる。見上げると気球の傍にひとがいた。どうやら天に昇るひとに追いついたか追いつかれたかしてしまったみたいだ。
「オーレンさん。こんばんは」
「こんばんは、ジョゼフ」
見知った顔だったので挨拶をする。昔家族で暮らしていた家の近くに住んでいるひとだった。その背中には翼が生えていて、儀礼服に身を包んでいる。
「オーレンさん、天に昇るんだね。おめでとう」
「ありがとう、ジョゼフ。いや、でも驚いたな。町でも幽霊騒ぎになっていたんだよ。光る大きなものが空を飛んでるって。まさかジョゼフが中にいたとは」
オーレンさんは終始、のんびりした口調だったけど驚いた顔を浮かべている。なるほど、そういえばあまり考えていなかったけど、町では騒ぎになっちゃってるのか……夜だからばれないと思っていたけど、窯から漏れる火の明かりで丸見えだったらしい。
「ごめんね、オーレンさん。せっかく天に昇る日なのに騒ぎにさせちゃって」
「あぁ、うん。別に構いやしないけどね。でもジョゼフ、まさかこれで天まで昇る気かね?」
「そのつもりだよ」
「それは、いけないね」
すっと、オーレンさんの表情からのんびりした雰囲気が消える。当然の反応だろう。むしろ予想の範囲内だったのでそれ以上とやかく言われる前に用意していた答えを口にする。
「大丈夫だよ、オーレンさん。僕は天国にずっといたいわけじゃない。ただ、天国が本当にあるのか知りたいだけなんだ」
「まさか、疑ってるのかい? 天国を」
驚きを通り越して、呆れた表情をオーレンさんは浮かべる。“何を言ってるんだこいつは?”と言わんばかりだ。
当たり前だ。もし天国がないのなら何故自分たちは天に呼ばれるのか。そういった疑念をそもそも持たないひと達だから。
だからこそ僕の言葉は彼らに効く。
「オーレンさん。誓ってもいい、たとえ天国に辿り着けたとしても僕は地上に降りるつもりだよ。命をかけてもいい。僕が嘘をついたなら、天国から突き落としてくれて構わないよ」
「………」
オーレンさんは何とも言えない表情を浮かべる。普通のひとは死に関わる話題を避ける。“死”とは運命であり、他人の手によって与えられるものでは決してないからだ。
僕は両親が死んで、それが真実でないことを悟った。だけどそう考えることはおかしいみたいで、誰にも理解してもらえなかった。他に親族を失くしたひとに聞いてみても、同じように思っているひとは見つからなかった。
死の話題は日常会話の中で決して出てこない。だからこそオーレンさんも何か言わなくちゃいけないという顔をしながら、咄嗟に何も反論できない状態に陥っている。
そうしている間にも、オーレンさんの身体はどんどん浮かび上がっていく。どうやら向こうの方が速いらしい。
「オーレンさんの方が先に天国に着くみたいだね」
「ん。あ、あぁ。そうだね」
「きっと素晴らしいところだよ。僕は見るだけで地上に戻るけど、末永く幸せにね」
「あぁ、ありがとう。ジョゼフもしっかりやるんだよ」
そうして、わざとらしいまでに逸らした話題にほっとした表情で乗っかって、オーレンさんも僕も手を振って互いを見送る。
しばらくオーレンさんを見送って、下を覗く。それなりに高くまで昇ったつもりだったけれど天にはまだ届きそうにない。そしてこのままだと天国に辿り着くまであと何人と同じような会話をしなければならないのかと考えた。
……面倒臭かった。僕は窯にどんどん薪を入れていき、昇るスピードを速めることにした。