7話
「ジョゼフ、何か、あった?」
「ん……」
ミリアが天に昇ってから3日が過ぎた。
今日も僕は変わり映え無く日課をこなしている。洗濯して、町はずれで乾かして、畳んで片付ける。それが終わったら教会と孤児院の持ち場分を掃除して終わり。
今は、女子部屋で洗濯物を片付けているところ。ベッドの上で半身を起こしていたマリが声をかけてくるけど咄嗟にうまく返事が出来なかった。
そのまましばらく無言になってしまう。いつもなら適当に返事をしてからでも考えが追いつくのに、今は全くまとまらない。
「…ごめん、なさい」
やがて謝られてしまう。そうさせてしまうのは間違いだと思っても、僕の口はうまく応えてくれなかった。
「―――ううん。マリが気にすることじゃないよ」
「…そう」
やっと吐き出せた言葉も良くないものだった。でも、どうすることも出来なかった。
「ジョゼフ、悩んでるの、もしかして———ううん。やっぱり、ごめんなさい」
マリはそう言ってベッドの上で横になった。顔も窓の方を向けてしまう。
「………」
“ごめんね、マリ”。そんな一言も結局言えず僕は口を閉ざしたまま部屋を出た。
掃除が終わった後、町はずれの丘。父さんや母さんが埋められている墓地を見下ろしながら、僕は意識と無意識の狭間で粘土をこねくり回していた。
僕は、あの日見た羽のことを誰にも話せずにいた。
話してどうなる。確かめようもない。疑ってはいけないことを僕は疑っている。
もしかすると、空に天国なんてないんじゃないのか?
恐ろしい想像、終わらない空想、そして、思い出す、最後の唇の感触。
「………」
僕が見たものは、間違いなくミリアの羽だった。それを僕は疑っていない。
でも周りのひとに伝えるための証拠はない。羽は地に堕ちて消えてしまった。
だから僕が考えなくてはいけない。真実に至る為には、僕が頑張らなければいけない。
天国に昇ったひとの羽が天から降ってくる意味、答え。それはいくつかの可能性が頭に浮かび、穏やかなものもあれば恐ろしいものもある。
確かめずにはいられない。どうにかして天に昇る方法を考えなくてはならない。
けど———僕の背中には翼がない。生えてくるほどの善行をしている自覚もない。
何より、今まで天に昇って戻ってきたひとはいない。背中に翼があっても自由に飛べるわけじゃなく、天から呼ばれて昇っていくだけ。
戻ってこられる手段がないとダメだ。そこで行われているのが恐ろしいものだったとして、ミリアを連れて帰る手段がないとダメだ。
つまり翼なしで天に昇る方法を考えなければならない———そんなこと本当に出来るのか。考えは堂々巡りだった。
やらなければ何も変わらない。ミリアの羽が降ってくるのを見てしまった以上、このまま何もせずに生きるなんて出来ない。もう何もかもが手遅れ、という恐怖も沸く。
でも確かめる手段がない。僕では、空に手が届かない。
「……どうしたら…」
頭を抱える。唇を噛み締める。誰にも相談できない。答えがあるのかどうかも分からない。
どうしたらいい。僕は———父さん、母さん……僕は、どうしたらいいのかな。
「貴方様の夢。私にお手伝いさせてもらえないでしょうか?」
僕が声をかけられたのは、そんな時だった。
丘の上から見下ろせる墓地。そこからゆっくりとした足取りで昇ってくる1人の女がいた。
着ている服も背格好も普通の物。だけど、有り得ない。有り得ないものが2つあった。
1つは頭部。山羊みたいな角が側頭部から左右に1本ずつ生えている。それは人間らしい背格好の中で突出した違和感を生み出している。
そしてもう1つはその顔。こけた頬、少し潰れたような団子っ鼻、優し気に下がった目尻。
見覚えのあるその顔を見て、思わず立ち上がってしまった。
「か、母さん…!?」
そのまま一歩を踏み出しそうになって、留まる。どう考えてもおかしい。頭を振って目の前の白昼夢を追い払おうとする。
だけど向き直って姿かたちは変わらない。対する相手も僕に倣ったように首を振った。
「私はあなたの母ではありません。今の世では“悪魔”と呼ばれる者です」
「悪魔…」
ごくりと喉を鳴らす。伝承やおとぎ話でしか聞いたことのないその存在。ひとを化かし、誑かし、悪に染めて堕落させる者。およそ眉唾にしか思えないその名乗りも、側頭部から生えた角と、今は亡き見知った顔を写した面を見て否定しきれない。
悪魔はある程度の距離まで近づくと足を止めた。そしてじっと僕のことを見る。
「いかがでしょうか?」
「……何が、でしょうか」
言葉尻に悩む。だけど何故か丁寧な言葉づかいで返答してしまった。悪魔と名乗った相手であるのに、僕を見つめてくる視線は静かで落ち着いたもの。それは清廉潔白な神父様の瞳ほどに優しいものに見えてしまった。
「先ほどの話です。天を目指したいと貴方様は志していらっしゃいます。それを私にも手伝わせて頂きたいと願っております」
「……どういうこと?」
頭を下げられる。途端に視線の呪縛から解かれたようで、僕は警戒心を露わに問いただす。
悪魔が言っていることは確かに僕の望みだった。だけどそこまで僕は独り言を呟いていない。まさかとは思うが心を読まれたのか。
それにその願いを知って手伝いたいという悪魔の意図が見えない。警戒心はやがて不安に変わり、僕の足を一歩引かせる。
「貴方様は人類初の飛行手段を発明される方」
「…!」
言われた瞬間、心臓が跳ねた。かけられたのは何の根拠もない妄言だ。だけどその確信に満ちた声音に、僕の足は縫い留められた。
「人類の更なる進化の為、停滞した時からの脱却の為、貴方様には天を目指して頂きたいのです」
「……頭を上げて」
頭を下げられたままだと顔が見れない。俯かせた向こうでほくそ笑んでいるのか嘲っているのか僕には分からない。だから頭を上げさせた。
そこにあったのは変わらぬ視線。見知った顔に、知らない瞳。僕の心臓は知らず知らず高鳴っていた。
「どうして、僕の手伝いをするつもりなんですか?」
再び同じような問い。だけど同じ答えは求めていない。それを言外に視線へ乗せる。悪魔は再び頭を下げかけて、視線を戻して僕を見つめ直した。
「お会いしたい方がいるから、でございます」
「会いたい方…?」
意味が分からない。はぐらかされている? 僕はそう感じて、その考えは視線にも乗ってしまったようで悪魔は否定するように首を振った。
「人類が進化した果てに、私の求めている方に会える可能性がある。私には、お伝えせねばならないことがあるのです」
「…意味が分からない」
「そうです。貴方様には言っても理解できないことでございます」
「………」
煙に巻かれているんだろうか。それとも他意無く言葉通りなんだろうか。悪魔と名乗る相手の瞳は変わらず静かで揺らぎがなく、感情も意図も全く読めない。
「―――僕に協力してくれる、その見返りは何?」
「違います。私が貴方様への協力を望んでいるのです。ですから貴方様からの見返りは不要です」
「それじゃあ信用ならないって、分かるよね?」
「信用など」
そう言って初めて悪魔は表情を動かした。
笑ったんだと、瞬きの間隙に歩み寄ったその顔が、近くに寄せられて初めて気づいた。
「信用などなさらないでください。私は天使ではなく悪魔なのですから」
「っ、どういう———」
「出来ました」
どういうつもりかと問おうとした。協力を願い出るのに信用するなとは。
だけどそれよりも前に、悪魔が望んだ儀式は終わったようだった。
「手元をご覧ください」
言われて手を見る。
そこにあったのは粘土。元々僕が持っていたものだ。
それが気づかないうちに形を変えられていた。これは、なに———
「あっ!!」
瞬間、頭が跳ねた。閃きが走り、僕は空を仰いで叫んでいた。
その閃きはまだ完成形ではない。手元の粘土も発想の根幹を示しているだけで形自体に意味があるわけじゃない。
だけど僕の瞳には空を飛ぶ羽が映った。炎のうえで不自然に舞う羽が。
「1から100を積み上げるものは知識と時間です。それは人類皆誰しも持っているもの」
身を引き、さっきまで立っていた場所に戻った悪魔は静かな瞳を宿したまま言う。
「ですが1が有ることに気づけるのは知恵ある者のみ。貴方様が空を征き、歴史がまた一歩前進する瞬間を心待ちにしております」
そう言って頭を下げ、背を向けて去っていく。僕はその背中をしばし見送って、町に帰った。
天へ行くための準備を整えるために。
空を飛ぶために、僕は手あたり次第に材料を集め始めた。
必要なのは大量の木材と布。それも布はとても丈夫なものが必要だった。
手近なところで集められる量には限界がある。だけどどのくらい時間の猶予があるのか分からない。
天に昇ったミリアが今も無事に過ごしているのか。いないのか。だけど答えは地上で見つかるはずもなく、だから悩む時間があるくらいなら手と足を動かすと決めた。
僕は今まで以上に善行をすることを心掛けた。そしてそれの見返りとして丈夫な布と木材を求めた。
善行に見返りを求めることは悪徳とされている。だけど形振り構っていられない。僕はそれが更なる善行の為に必要なのだと嘘を吐き続け、何とかそれらをかき集めていった。集めた材料は墓地の近く、誰も使っていない小屋の中に入れておく。
材料を集めると同時に、閃いた発想を具体化するための実験や設計を始める。小規模な実験では見事小さな木箱を空へ飛ばすことが出来、ひとを運ぶのに耐えられる強度を保たせるためにはどれくらいの大きさが必要になるかを試算した。
天へ旅立つのは、次に羽が降る日と決めている。羽が降らない日にはただ空に上がっても天へと昇る道が通じていないかもしれない。
天に導かれるひと達と一緒に空を飛ぶ。その日まで残り2か月もない。
日課をこなす時間を除いて、寝る間を惜しんで、息を吐く余裕もないままに僕は手を動かし続けた。
そして2ヶ月ほどが経ち、ようやく空を飛ぶ手段を完成させた日のこと。
マリが大量の血を吐いて意識を失ったと、孤児院に帰ってきた僕は聞かされた。