6話
ミリアが血を流して倒れていた事件から、1か月が経った。
昼の雨が降っている。ふと窓を叩く雨音に気を取られ目を向けると、そこには大きな翼を背に生やしたミリアがいた。
ミリアは窓際に腰を下ろし、薄暗い空を見上げている。僕も同じものを覗きあげながら声をかけた。
「もうすぐ、羽が降るかな」
「そうね」
「明日かもしれないよ」
「そうね」
ミリアは窓の向こうを見上げたまま言葉数少なに答える。
前回羽が降ってからもうすぐ2か月が経つ。そろそろ僕たち2人がしでかした悪戯に審判が下る。
不安は、あんまり感じていない。
「ねぇ、ジョゼフ」
「ん、なに?」
「約束、覚えてる?」
「覚えてるよ」
何時した、どの約束か。明言されていないけれど僕は答える。
あの騒動以降、2人の間で話題を上げなかった。意識して避けていたのも、ちょっとあったかもしれない。日課を行い、善行や祈りもそこそこに行い、適当さ加減をミリアに怒られる。そんな代わり映えの無い生活。
このまま天国に行けない者同士、そんな代わり映えの無い生活を送るのも悪くないと思っていた。だけどミリアは違うようだった。
「私、もし天に昇れなかったら孤児院を出て、シスターもやめようと思ってるの」
「そうなんだ」
「それでその時、あなたにも付いてきて欲しいの」
「ありがとう」
初めて聞かされた話。2人で孤児院を出るってことはつまり、そういうことだ。
僕の頭では理解が追いつかなくて、なんて言ったらいいか分からなくて、考えが全然まとまらなくて。
でも、考えるよりも先に口に出していた言葉が、僕の答えを示していた。
「…ありがとう、ミリア。凄く嬉しいよ。でも———」
「無しで」
「え……」
きっちり答えようと思っていた僕の口が、ミリアの指先によって塞がれていた。
「今の話、無かったことにして」
「え、無しって、なに———」
「いいから! 天に昇れなくっても私は孤児院に住み続ける。シスターも続ける! 何も無し! いい?! 分かった!?」
「わ、分かったよ、ミリア…」
凄い剣幕でまくし立てられて頷くしかなかった。その後、しっしっと邪険に追い払われる。
「―――ごめんね、ミリア」
ミリアのもとから離れ、振り向かず続きを呟く。もちろん、ミリアの耳に届くわけがない。
でも今孤児院を離れるわけにはいかないと咄嗟に思ってしまった。ミリアに誘われて嬉しい気持ちもあったけど、それよりも他の感情が勝ってしまって、即座に頷くことが出来なかった。
何となくの同情心と、ちょっとばかりの共感。その感情にはまだ名前をつけられていない。
“莫迦”、と背中から聞こえてきた気がした。それはもしかして正解の1つなのかもしれない。なんて、僕は思った。
そしてその日の夜、町に羽が降り始めた。
雨の上がった夜の町に、祝福の羽が降り注ぐ。
暗い世界でも凛と主張する白が、ちらちら雪のように降っては地に溶ける。
「あ、私、呼ばれてる———」
羽が降り始めて慌ただしくなっていた孤児院が、ミリアの一言で更に騒がしくなる。
羽は一日くらい降り続ける。その間、いつ翼をもったひとが天に昇るかは分からない。同じ町の中でも同時に天に昇ることはなく、1人ずつ順番に呼ばれて昇っていく。
今回、ミリアは降り始めて早々に天からお声がかかった。のんびりしていては支度が間に合わない。天に昇る為の儀礼服、親しいご近所さんへの連絡、ミリア自身の身体の清め。孤児院は総出でミリアを送り出す準備に手を付けた。
ミリアが天より声をかけられて30分もしない間に何とか支度を整え切った。僕たちは送り出す為に外へ出て、ミリアを囲んで最後の別れを済ませる。
「ミリア姉さん、元気で…!」
「ミリアお姉ちゃん、また会おうね!」
「ミリアちゃん、これ、旦那の好物。向こうで渡してあげてね!」
口々にかけられる親しみの声。それらにミリアは少し涙ぐみながら1つ1つ丁寧に答えていく。
そして渡される物もたくさん。ミリア自身への祝福の品と、先に天へ昇って行ったご近所さんへの手土産等々。それらを収めるべく鞄も儀礼服一式の中に含まれている。その中へミリアはどんどんと詰め込んでいく。
「ミリア、おめでとう」
僕も祝福の言葉をかける。お祝いの品として渡したのは木彫りの人形だ。修道服を再現するのは難しかったけど、誰を模したかはきっと分かってくれるはずだ。
「ジョゼフ、ありがとう。これ、私?」
「うん。翼は生えてないけどね。もう折っちゃダメだよ?」
「折らないわよ。意味ないし」
そうして笑い合う僕らを、周りは奇妙な目で見てくるが気にしない。
そして、品を渡したのにミリアは僕の前から去ろうとしない。何となくそうなるかなと思っていた僕は、惜しまず更に一歩踏み出した。
「ミリア、賭けに勝ったね。悪戯は僕たちの勝ちだ」
「そうね」
いつもより一歩近い距離。見上げることの多かった姉の顔は、近づくと意外とそれほど高くないところにあったと気づく。
目が合う。顔を僅かに逸らされて、僕も恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。見えたのはミリアの背中から大きくはみ出る大きな翼。純白であるはずのその中のいくつかが赤茶色に汚れていた。
肌や髪についた汚れは取れたけど、翼についた血は跡を残した。せっかく綺麗なのに勿体無いなと思い、僕はミリアの背中に手を伸ばし、それを撫でる。
「ジョゼフ、触り方がいやらしい」
「えぇ、羽なのに?」
「くすぐったいの。なんか、もぞもぞする」
翼を折る時はそんな余裕もなかったけど、ふさふさと連なる羽の表面を撫でるのは気持ちいい。滑らかなそれを撫でる度に、ひくひくと翼が揺れる様も面白い。
「あ、そろそろ時間みたい」
「―――そっか」
ミリアが夜空を見上げて言う。
僕は惜しみながらも翼から手を離し、詰めていた一歩分、後ろに、
「ジョゼフ」
退いた、時。気がついたら目の前にミリアの顔があった。
両の頬を手のひらで包み込まれて、唇に冷たく柔らかい感触———あ、え、これ。
「…ジョゼフ、きちんと追いかけてきてね」
「あ———」
唇から感触が離れていく。ミリアは一歩、二歩と踊るように僕から身を離すと、大地を蹴って空に舞った。
「っ、さようなら!! みんな、お元気で!!」
そして大声で別れを叫ぶ。その姿はどんどんと空に昇っていく。あまりの出来事に僕含めてみんな戸惑っていたけど、最後はきちんと大声で応えて送り出していた。僕だけは、何も言葉が出てこなくて手を振るくらいしか出来なかったけど。
暗い夜空を昇っていくミリアの姿は、やがて降りしきる羽に紛れて見えなくなる。どこまで昇って、どれだけ昇れば天にたどり着くのかは分からない。けど、ミリアはきちんと昇っていった。
それをきちんと見届けた後―――残された感触と火照りでおかしくなりそうになる。やっぱり、僕は、まんざらでもない気持ちだった。
そうしてミリアを見送った後、孤児院に戻ろうとしたら女子部屋の小窓から覗いていた顔と目が合った。と思ったらすぐに逸らされ、覗く顔がなくなった。
湧き上がるのは何となくの同情心と、ちょっとばかりの共感。そこから生える僅かな申し訳なさ。
「―――寝よ」
頭を振って思考を追い出す。考えても仕方がないことばかりで、楽しく過ごすためには気にしないことも肝要。
孤児院に戻る波に乗って、僕も今夜眠りにつく。ミリアがいなくなっても、変わらずやらなくちゃいけないことが明日からもあるのだから。
町はずれの丘の上。焚火で洗濯物を乾かしている。
ミリアが天へ昇った日の翌朝。未だ羽が降り続いている。
今日は何人のひとが天に昇っただろう。みんな祝福されて見送られ、天国にいる家族や友人に会って喜びを交わしているだろう。
僕はこれからどうしたらいいのか。悩むと自然、唇に手を当てていた。
目下、目標が出来てしまった。それも今までの生き方を変えさせられてしまうくらいの。
ため息を吐く。大きな、大きな願いを聞いてしまった。そして僕は多分、それに応えたいと思っている。
明確だ。僕はこれまで以上に善行を行っていかなければならない。そして———
「………」
無数の白い羽が降り注ぐ空の向こう。そこに行かなければと、初めて思った。
「ほんと、僕のこと振り回してばかりだよね…」
苦く笑って、視線を焚火に戻そうとする。火の調整を間違えて洗濯物を焦がしたら一大事だ。
———と。
「あ……」
僕はそこで見た。
見つけて、しまった。
空から降ってくる白い羽。その中にちらりと茶色が混じっているのを。
ひらひらと落ちてくるそれを、地に堕ちる前に掴み取る。
見る。
見つめる。
間違い、ない。
「あっ」
突然強い風が吹く。洗濯物と一緒に、僕の手から逃げるように羽が宙を舞った。
再び捕まえるよりも前に地に堕ちてしまう。そして他の羽同様、それは幻のように溶けて消えた。
「………」
未だ昨日の雨で濡れている地面に落ちた洗濯物を、僕は拾えそうにもなかった。
———羽だった。
堕ちて消えてしまったそれは間違いなく、血の跡がついた羽だった。