5話
父さんと母さんは、僕が6歳の時に死んだ。
原因は馬車の転倒。昼下がりの道を歩いていた両親と僕は、暴走して横転した馬と馬車に圧し潰された。
運よく僕は怪我で済んだ。だけど父さんと母さんは違った。
父さんと母さんは天に昇れずに死んだ。それが2人の運命だったのだと周りの大人は言っていた。
そういうものなんだと僕は納得した。
そういうことなんだと僕は軽蔑した。
馬車を引いていたひとは1年もしない内に天へと昇った。世界は正しい一方で、何が正しいのかよく分からない。
僕が感じていたのは悔しさなのか。何なのか。それもよく覚えていない。
ただ死んでやると思っていた。天に昇ってたまるもんか。どうせ行くなら両親と一緒のところがいい。
不貞腐れていた。孤児院に入れられて、憐れまれる対象であったはずの僕は真面目さなんて一片も持ち合わせておらず、すぐに周りの関心を薄れさせていった。
天にふさわしくない人間。親が親であるなら子も昇れない運命の子だ。施しを与えても善き行いとは言えないだろう。
誰もそんなことは言っていない。考えてもいないだろう。でもそれが僕にとっての事実だった。
死にたい。死にたい。お父さんとお母さんに会いたい。僕はそればかりを考えていた。
『ねぇ、いつまでもそうしていたらダメだよ』
そんな僕に、根気強く声をかけてくる1人の女の子がいた。
『まずは洗濯。その次は掃除。ここではやることがいっぱいあるの。手伝って、ほら立って!』
問答無用に洗濯物を押し付けてくる女の子。座り込んだままそれを受け取ってしまった僕は、女の子の顔を見上げた。
『……だれ?』
『呆れた。自己紹介は一昨日済ませたよ。覚えてない?』
僕は首を振った。高いところにある呆れ顔が、不満げに1つ息を吐いた。
『ふぅ……まあいいわ。私はミリア。あなたは一昨日から私の弟になったのよ、ジョゼフ』
手を伸ばされる。その手は途中でとどまらなくて、僕の肩を掴んで無理やり立ち上がらせてくる。
そうして洗濯や掃除のやり方を問答無用に教えてくる。それが僕とミリアが初めて会った日のことだった。
だけど違った。違ったということを、今日僕はミリアに教えられて初めて知った。
父さんと母さんが死んだ馬車の事故。あの場にミリアも居合わせていた。
いや、“居合わせていた”というのは語弊がある。そもそも馬車が暴走したのはミリアが原因だった。
不注意で馬車の前に飛び出してしまったミリア。御者は慌てて手綱を引いて馬を止めようとする。突然のことに動転した馬が暴走してそのままバランスを崩して転倒。馬車もつられて横転。僕たちが圧し潰された。
事故の後、顛末が語られる時、ミリアの存在は憐れみによって隠された。詳細が語られる時でさえ“幼い少女”という匿名性を帯びた言葉に覆われ、そうでない時には単純に馬が暴走したと語られるのみ。
当事者である僕はまだ幼く、詳細を語られることもなかった。ただ馬が悪い、間が悪い、それが運命と聞かされるだけだった。
そうして当事者である御者のひとも、周りに居合わせたひともどんどんと天に昇っていく。事故の風化は早い。僕も聞かされた内容を疑うことすらしなかった。
だけどそれをずっと抱え続けていたひとがいた、ということを今日僕は知ったんだ。
泣きじゃくるミリアを宥めながら話を聞く。途中で中庭を抜けようと歩く兄弟たちに見られてぎょっとした顔をされたけど、首を振って見送った。
「ごめんなさい…私が、あなたを不幸にさせてしまったの…」
そんな自分が天使になって天に昇っていいわけがない。昇るならせめて僕を天使にさせてあげなければ許されるはずがない。泣きながら、絞り出すように言ってミリアはまた泣いた。
「これが———全部。私が隠していたことの全部。ごめんなさい、ジョゼフ…!」
ミリアは手で顔を覆う。何を隠すための手なのか、考えて僕は悲しくなった。
「私、あなたに不幸しか与えられなかった…! 全部、全部私のせいでっ! だから———」
「だからって、死ぬことはないよ」
「………」
ミリアは背中を震わせたまま、顔を覆った手を下した。
「…私、こうやってあなたに打ち明ける夢を何度も見た。罵倒されることもあれば、そうやって気にしない素ぶりをしてくれることもあった。でもね、私が犯した罪は消えないの」
「………」
「こんなことになってようやく気付いたの———たとえあなたを天使にすることが出来ても、私の罪は消えない。自分を誤魔化す言い訳になるだけ」
「僕が許すって言っても?」
「もう———やめて。お願い。ごめんなさい、あなたが許すと言ってくれても、私の罪は消えないの…」
ミリアは項垂れ、向こうを向いた。これ以上僕が何を言っても聞き入れるつもりはないんだろう。
とてつもなく———腹が立った。
「僕、血を浴びるのは初めてじゃないよ」
「……え?」
だから僕の言葉で振り向いたミリアを見て、少しだけ勝ち誇った気持ちになれた。
「だから今更ミリアの血で汚れたからって僕は気にしないよ。神様も気にしないんじゃないかな?」
「そ、そんなお気楽に言っていい話じゃないっ! もう、やめて、嘘をつくのは。私を慰めるためにそんな———」
「嘘じゃないよ。内緒にして欲しいんだけど、前にマリが血を吐いた時あったでしょ?」
「えぇ…まさか、え、嘘でしょう…?」
「ううん、ベッドで寝ていたマリが血を吐いてね。その時浴びちゃった」
告白すると、ミリアは放心してしまったようでしばらく口を開けっ放しにしていた。
でも、しばらくすると首を振った。
「いや、いやいや、そんな、え、どうして黙ってたの。というか、なんで誰もそのことを知らないの」
「だってマリが可哀そうじゃん」
「………」
またミリアは放心してしまった。
「僕は天国に行けるかどうか分からないし、そんな僕のせいでマリが落ち込むことになったら嫌だよ。だから皆がいない間にシーツとか洗濯して誤魔化した」
「…ちょっと、待って。え、っていうことはマリもそのこと知らないの?」
「当然だよ。じゃないと隠す意味がないでしょ?」
「いやいやいや、あなた、え、ジョゼフ、あなた……」
混乱しているようで、わたわたと慌てるミリアはやがて、はっとした顔つきになって僕の肩を掴んだ。
「まさか、神父様にも言っていない…?」
「うん」
「っていうことは、その時身を清めてもいないの…?」
「うん、聖水貰ってないしね」
「……あぁっ…」
くらりと、ミリアがベンチの上に倒れる。かと思ったら説教顔で戻ってきた。
「ジョゼフ、あなた———!」
「待って、ミリア。あんまりこのことを大声で話してほしくないな」
「なっ、あ———確かに、そうね…」
今の中庭には僕たち以外誰もいないけど、どこに耳があるか分からない。あんまり楽しい話でもないから聞かれないよう用心するに越したことは無い。
そして目の前には何か言いかけてそれきり言葉を失くしてしまったミリアがいる。僕はわざとらしく1つ咳払いして言葉を続けた。
「だからミリアが僕のことをそこまで気にする必要はないよ。僕は、僕の意思で一回血を浴びてるんだからね」
「でも、あなたのご両親を死なせてしまったのは私で———それに、マリの件だって元はといえばあなたが孤児院に入っていなければ、そんなことにはならなかった」
「それなら、父さん達があの日で出歩いてなければ父さん達は死んでなかっただろうし、僕が生まれてなければ孤児院に入ることもなかったね」
「そんな、適当なことを言って…」
ミリアは首を振るけど、僕も首を振って応える。
「僕からしてみればミリアが気にしていることも一緒だよ。ミリアが馬の前に飛び出さなければ父さん達は死ななかっただろうけど、そもそも馬や馬車がなければ父さん達は死ななかった」
「そんな屁理屈―――」
「屁理屈だよ。当然だね。だって僕はミリアにそんなこと気にするなって言いたいだけなんだから」
「………」
言いながら、ふと思う。“気にするな”って言えるのは負い目の無いひとの特権だ。
僕が逆の立場だったらどうだろうと考える。でもその思考には何の意味もないことに気づいて打ち切った。
「僕だって他のひとにはこんなこと言わない。僕が嫌いなやつが同じことをしてきたら、詫びの一言も聞かずにさっさと死んでしまえって言うと思うよ」
「…ジョゼフに嫌いなひとなんていたの?」
「いるよ。例えば父さん達が死んだのは運命だとか言ってる奴ら」
そう言うと、ミリアがすごく微妙な顔を浮かべてしまった。
そりゃそうか。ミリアを含めた数人以外、全員嫌いだって言ったようなものなんだから。
「まあ、そんなわけでさ。どう、少しは死のうって気持ちがなくなってきてるなら嬉しいけど」
「……いや、もう、ほんと、なんて言っていいのか分からないけど———」
そうしてミリアはしばらく考え込むようにして目を瞑った後、ため息をついてから、こつんと僕の額を小突いてきた。
「―――私が悪いんだけど、あなたのせいで振り回されっぱなしよ。私の人生」
「う~ん、お互い様かな」
「冗談になってない」
更に小突かれた。しかもちょっと強めに。
痛む額を擦りながらミリアを見る。さっきまで考え込むようにしていたのに、今はじっと僕の顔を覗き込んでいる。
「―――何?」
「……ううん。なんでもない」
それでいて、さっと目をそらされて今度は何か悩むように唸り始めた。かと思うと突然カッと目を見開いて立ち上がった。表情が忙しい。
「よし、決めた!」
「何を?」
聞き返す。そんな僕の手をミリアは握ってきて、言った。
「ジョゼフ、あなたに手伝ってほしいことがあるの」
その日の昼下がり、教会は大騒ぎになった。
背中の翼を隠すことを止めたミリアが教会に現れる。髪と肌、翼のところどころが赤に染まっている。
血だ。ミリアは全身いたるところが血で汚れていて、神父様や居合わせたひと達が身を清めさせるべく慌てだした。
「騒ぎにさせてしまってごめんなさい。でも、このままでいさせて下さい」
だけどミリアはそう言って頭を下げた。付いた血は既に乾いていて他人や物に移ることは無い。結局ミリアはその日湯浴みするまでその格好で過ごして、聖水で身を清めることもしなかった。
その行為の代償は割と軽いもので、ミリアをおかしな目で見てひそひそ語るひとが出てきたのと、僕の手のひらが痛むくらい。包丁でつけた傷跡は、しばらく洗濯する度にひりひり主張してくるだろう。
「これで、いいのかな?」
いつか見たのと同じ、昼下がりの中庭から見上げる太陽。今の僕の胸にあるのは漠然とした不安じゃなくて、しでかしてやったという充足感。
止めなかったわけでもない。せっかく翼が生えたのに、今血を浴びて天に昇れなくなったらどうするのか。そう説得した僕に対して、ミリアは“もう決めた”と言わんばかりの顔で答えた。
『何を言われても、もう決めたから』
『いや、もう決めたって言われても…』
さっきまで泣きじゃくっていたひとと同一人物とは思えない。けど、そうもはっきり言われると逆に胸をすくような気持ちにさせられた。
……それに。
『それに、もし天に昇れなかったらその時は———』
“天に昇れない者同士、ずっと一緒に地上で暮らしましょう、ジョゼフ”―――そう言われて、なんだかよく分からない気持ちになって。
気づいたら、僕は思わず頷いてしまっていた。