3話
「ジョゼフ、悩みごとが、ある?」
「ん———」
お昼時、洗濯を終えて女子部屋で時間を潰していたところ、マリが心配げに青白い顔を覗かせてきた。
喉を鳴らして返事をした後、どうしたものかと悩んで、結論が出るより前に僕は首を振っていた。
「ううん、何もないよ。ちょっと昨日あまり寝られなくてぼーっとしてただけ」
「そう。もう、部屋に、戻る?」
「ううん、もう少しここにいるよ」
「そう、ありがとう」
マリはそこまで話すと大きく息を吸って、胸に手をあてながら吐き出す。お日様と陰気なものが混じったような、独特な匂いが鼻をくすぐる。
ふと、ベッドの脇に置いてある水差しの中身が少なくなってきているのに気づく。僕は立ち上がって手に取った。
「水汲んでくるね」
「ありがとう」
背中で礼を受けながら部屋を出る。
教会と孤児院の間にある庭で、井戸から水を汲む。ついでに自分の喉も潤しながら、昨日のことを思い出す。
ミリアの背中に、翼が生えていた。
それを僕は、折って背中から毟り取った。
ミリアは痛がっていた。背中の翼を折られるのがどれくらい痛いのか僕には分からない。涙を流していたけれど、我慢できないほどじゃないのと、汗をかきながら笑っていた。
翼は1週間くらい前から生えていたらしい。それをミリアは今まで毎日折って捨てていた。
だけど段々と1日で成長するスピードが早くなってきて、昨日とうとう背中にまわした自分の手では折れなくなってしまった。
そこで手を借りようと僕に声をかけたんだとか。翼は小枝を折るくらいの力で簡単に折れ、床に置くと消えてなくなった。
1日経てばまた生えてくるけれど、2,3日も置いてもっと大きくなった翼を折るよりは痛みも少なくて済むだろうとのこと。
『だから明日も明後日もよろしくね、ジョゼフ』
そう言って、汗ばんだ笑みを浮かべるミリアの顔。折った翼の感触も忘れられない。
「これで、いいのかな…?」
昼下がりの太陽を見上げて、漠然と抱える不安を呟く。根拠も経験則もないけれど、何かいけないことをしてしまった罪悪感めいたものを拭いきれなかった。
2か月後。空から祝福の羽が降ってきた。
白い羽がふわりふわりと宙を舞う。そして地面に落ちると消えてなくなる。
僕は今日も洗濯物を焚火で乾かしていた。焚火の上に落ちてきた羽は僅かに上昇した後、炎を避けて落ちていく。
風も吹いていないのに、下から息を吹きかけたように舞い上がる羽を見て、不思議だなと僕は思う。
今日、ミリアは天へ昇らなかった。昨晩も懺悔室で翼を折った。ミリアの背中には、まだ半日分しか成長していない小さな翼があるだけ。だから天には昇れない。
今朝、他のひとが天に昇っていくのを見てミリアは安心していた。翼を折り続けてきたことは無意味じゃなかったと喜んでいたんだと思う。
———本当にそうだろうか? ミリアは、本当に喜んでいるんだろうか?
やらなくちゃいけないことがあると聞いている。それを聞いてから今まで、僕はずっとミリアを注意して見てきた。
だけどミリアは別段何も変わったことはしなかった。いつも通り教会のシスターをして、町で善行をして、僕たち兄弟姉妹の面倒を見て。
翼が生える前までと変わらない。逆に小言を言われる機会が増えたと思う。
あれをやれ、これをするな。あれをした方がいい、こんな風にした方がいい。逐一細かく言ってきて、そんなことより『やらなくちゃいけないこと』をもっと優先してやればいいのに、と思ってしまう。
だって、その為に毎日あんなつらい思いをしてるんだから……
「んっ!! んんーっ!!!」
懺悔室。羽が降るのを見送った日の夜。
脱いだ服を口に詰めて、ミリアが必死に痛みを噛み殺す。
その背中の翼に手をかけ、両手でへし折ったのは僕。翼の付け根は、今では親指くらいの太さになっていた。
今や1日放置すれば服で隠しきれないだろうほどに翼の成長は早くなっている。日中はひとの目があるから折ることが出来ない。だから夕暮れ時に隙を見て1回、夜みんなが寝静まったタイミングに1回、翼を折ることが日課になっていた。
特にひどいのが夕暮れだ。前の晩から成長した翼は頑丈で、かなり力任せにやらないと折れない。
根元から折るためにはミリアの背中や肩を掴まなくてはいけない。そこには毎晩の作業によって痣が出来てしまっていた。
だけど、それ以上に折った瞬間のミリアの叫び声が痛々しい。大きく成長した翼を片方折るだけで悶絶し、泣き叫ぶ。それでも他の誰かに気づかれるわけにはいかず、自分の身体を必死に抱き締めて痛みに耐え、叫び声も噛み締めた服の中に逃がす。
僕は何も考えない。考えることによってミリアが不幸になるのであれば、僕は何も考えない。
こんなことをして———なんて、ぐっとこらえて考えない。
ミリアの嗚咽が落ち着いたタイミングを見計らって、僕は残ったもう片方の翼に手をかける。翼には触覚が宿っているらしく、身体を縮こませていたミリアがぴくりと震える。
“ふっ、ふっ”と荒くミリアが息を吐く。どうして、こんな———考えない。考えるな。
ミリアは地上にいたいと言った。今朝も、翼の生えたひと達を見送ったミリアの顔は、良かったと、そう言っていた。
だから———
「んっ、んんんん--!!!!」
へし折った翼は、泣き叫ぶミリアの横に落ちて消えていった。
そして、その時は突然来た。
「もう、いや…」
「え…」
とある日の深夜の告解部屋。片方の翼を折って捨て、残った翼に手をかけた時にそれは聞こえた。
噛んでいた服の裾が口から外れ、漏れ出ていたのは拒絶の言葉だった。
「どうして、こんな…我慢、どれだけ…」
それは僕に向けられたものではなく、ふと漏れ出てしまった独り言、だったんだと思う。
泣いていた。いや、ミリアはずっと泣いていた。
涙を流して、痛みを堪えて、毎日翼を折られ続けて。
嫌だったんだ。ギリギリまで我慢していたけど、我慢しきれるわけがなかったんだ。
それは当たり前のことで、僕もずっとそれを理解していた。
考えないようにしていた。だって、それはミリアの為にならないと思っていたから。
だけど。
だから。
だからこそ、これでおしまいだ。
「じゃあ、もうやめようよ。こんなこと」
「……え?」
うわ言のように弱音を吐くミリアに、僕は考えもまとまらない内から言葉を突き付ける。
「僕だってやめたいよ。ミリア、こんなこと、もうやりたくない」
「え、え……」
わけがわからない、という顔をされた。起き上がり、今まで頑なに見せないように努めていた前側の肌でさえ、僕の前にさらけ出してしまう。
向けられるのは動揺の表情。さっきまであんなこと言っていたのに、僕のことを怯えた視線で見てくる。
僕は拒絶するように首を振った。
「僕はミリアが痛がっているの、もう見たくないよ」
「でも、だって、そうしないと私———」
「ミリアは関係ないっ! 僕がもう、やりたくないの!」
ミリアは縋るように手を伸ばしてきていた。でも、僕が叫ぶとそれも止まる。
ストンと、魂が抜け落ちたような顔。泣いているような、でも泣く感情すらどこかに落としてしまったような、暗い顔。
そんな顔のままミリアは何も言わない。ただ何かを言おうとした唇はそのまま固まって動かない。
「ミリア、諦めて天に昇ってよ! 僕、もうミリアに痛い思いさせたくないよ!」
「あ———」
やがて、力が抜けたように膝から落ちた。ミリアはそのまま立ち上がれず、手で顔を覆った。
「……そっか。私、ジョゼフを傷つけちゃってたの…」
「………」
「…そっか」
「………」
「………そっか…」
それきり、ミリアも僕も黙ってしまう。お互い俯いたまま、視線も合わない。
やがてパチンと手を鳴らされる。つられて見ると、ミリアは笑顔を浮かべていた。
「ごめん。そうね、もうやめにしましょう、こんなこと」
そう言って乱れていた恰好を手早く整え、ミリアは立ち上がった。
「今までごめんね。私のわがままにつき合わせちゃって。もうジョゼフにはお願いしないから」
「………」
僕は何も応えられなかった。嬉しいことのはずなのに、さっきミリアが浮かべていた表情が忘れられない。
今まで散々痛みに耐えていたミリアの顔を見てきたけれど、それよりももっと嫌な、暗い顔。
「じゃあ、おしまい! いつも通り別々に孤児院に戻ろうね。じゃあね、おやすみ!」
そう言って背中を押され、僕は告解部屋を追い出される。
———どうしてあんな顔をしたの? 結局、ミリアがしなくちゃいけないことってなんだったの?
分からない。分からないけれど、前に感じた時以上の罪悪感めいたものが、重く僕にのしかかってきた。
その後、孤児院に戻ってベッドの中。
これでいい。いいはずだ。僕は胸に残った罪悪感に無理やり蓋をして目を閉じる。
2、3日経てばミリアの背中にある翼は服で隠しきれないほどの大きさになる。話題になって注目を浴びればミリアも翼を折ろうなんて莫迦げたことが出来なくなる。
そうして天へ昇っていく。それでいい、何も問題ない。
寝て、起きて、普段通りの生活を送るだけでそれが叶う。そう信じて、僕は大きく息を吐いた。
だけど朝になると、ミリアがいないと騒ぎになった。
ベッドにいない。教会にも孤児院にもいない。そして今、朝食の時間になっても食卓へ姿を現さない。
今朝から誰もミリアの姿を見ていない。兄弟姉妹や神父様も困惑の表情を浮かべている。
ぐらっと世界が歪んだ。その後サァーっと冷たいものが頭の芯から落ちていく。僕は考えるよりも前に食卓を飛び出し、教会へ駆け込んだ。
そしてその地下の奥、懺悔室の告解部屋の扉を開けた。
確信があった。
「っ、ミリア!?」
そして予想通り。上半身裸の状態でミリアが倒れていた。目を閉じ、僕の声に反応もしない。
駆け寄り、抱き上げる———まだ温かい。
死んだらどうなるか、僕は知っていた。だからミリアはまだ生きている。苦しい記憶とミリアの顔が重なりそうになって、ギリギリのところで持ちこたえる。
大丈夫。ミリアは絶対、大丈夫!
「ミリア! ねえ、ミリア! 起きて! どう———」
どうしたのさ。聞こうとして、腕にぬめりとした感触を覚える。
見ると、ミリアの背中にまわしていた僕の腕が赤く濡れていた。見覚えのある色だ。これは間違いなく、
「血だ! ミリアが血を流して倒れている!!」
僕の後ろから声が上がる。兄のヨシュアが僕を追いかけてきたらしく、扉の前で叫んでいた。
その声を聞いて続々と兄弟が集まってくる。みんな一様に顔を真っ青に染めている。
そして誰も近づいてこない。遅れて神父様が兄弟の間を縫ってやってきて、血に濡れた僕とミリアを見て絶句した。
「ジョゼフ、君は―――それはミリアの血ですか?」
「そうです! 神父様、早くお医者様を! ミリアが背中から血を流しています!」
「―――分かりました。ですが医者に見せる前に身を清めなければ。ジョゼフ、君もです」
「そんなこと…!」
している余裕があるのか、無いのか。僕には分からない。
でも口を閉ざした。分かっているのはミリアがまだ生きていること、お医者様に見せる為には身を清めてからでないといけないこと。そして自分が焦るだけでは何も解決しないこと。
分かり切ったルール。この世のルール。それに従って僕は動くしかない。
と、腕の中でミリアの身体がもぞりと動いた。
「……ジョゼ、フ…?」
「っ、ミリア! 気がついたの?!」
ミリアが声を上げた。薄く目を開け、一言話すのにも苦しそうだった。
その焦点は僕に向かっているようで、僅かに合っていない。
「ごめ、んね…寝ちゃってた、みたい……今、何時…?」
「ミリア…」
寝ていただけなんて、あるわけがない。もう僕はミリアの身に何があったか把握している。
昨日僕が折らなかった方の翼が背中に無い。傍に落ちている包丁、ミリアの背中にある切り傷と刺し傷。
自分で背中の翼を折ろうとして、でも自力では折れなくて。包丁を持ち出して何とか切断しようとしたに違いない。
それで勢い余って背中を傷つけて、何とか翼を切り落としたけど痛みで気を失った。そういうことだろう。
『あっ』とミリアが声を上げた。僕の肩越しに、扉の向こうを見ている。
「もう、朝、か……みんなに、見られちゃったな。ダメだね、私。こんなんじゃ、ジョゼフを———」
「…! ミリア!」
呟いたきりミリアはまた気を失ってしまった。神父様や兄弟が身を清めるための準備に走り出す。
……どうして。
ミリアと離され、別室に用意された湯と聖水で身を清めながら動揺のままに拳を握る。
最後、ミリアがうわ言のように呟いた言葉の意味を考えていた。
“こんなんじゃ、ジョゼフを天国に連れていけない…”