10話
「―――…」
長い間、眠っていた気がする。
寝起きの気怠さ。でも、いつもよりもマシな体調。胸の奥をずっと苦しめていた澱みが感じられない深夜。
私は、目を覚ました。
「………」
窓際のベッドで半身を起こす。外を見ると空には月光。全く眠気のなくなってしまった夜に向かって、私は息を1つ溢す。
ただ一日寝て起きただけではないと悟る。私はきっと数日間寝てしまっていた。その数日の間に、私の身体を蝕む病はいよいよ、どうしようもないところに到達してしまったらしい。
今までもこうして苦しさを忘れられることがあった。そしてその小康状態が終わる度、ぶり返すように私の病は悪化した。
これまでは、あとどれくらい生きられるだろうかと考えてきた。だけど悟る。これが最後なんだと。
今までにないほどに調子が良く、病に侵された胸の苦しみを感じない。だけど内には生命の力強さが感じられず、何もなく、空っぽ。
今回の小康が終わった時、次に胸が痛んだ時。それが私という命の最期。
「………」
意外なことに、感慨も絶望も感じなかった。言葉も出ない。ただ、私がそれを認めただけ。
私の命の灯火は、消える直前の煌めきに至った。死は、もう目前にある。
「……?」
ふと、眠りながらずっと握りしめていたものがあることに気づく。かけられていたシーツを剥がし、手元にあったのはハンカチだった。
誰のハンカチか。匂いを嗅ぐとあの子を感じた。
「ジョゼフ…?」
眠る前の記憶と手元に握る感触が繋がらない。ここ最近、ミリアさんが天に昇ってからずっとジョゼフは忙しそうにしていた。私のベッドに座ってくれる機会もほとんど無かった。
それでも今、私の手にはジョゼフのものが握られている。これが何を意味しているのか、寝ている間に何が起きたのか私には分からない。
だけど感じるものがある。ジョゼフは今、孤児院にはいない。
記憶や五感以外からの伝達。私という身体の枠組みからはみ出たところで感じられる何か。ジョゼフのハンカチを握っていると、それを感じる。
その何かに従って私は床に降り立った。胸の奥の病は落ち着いている。痛みも苦しさもない。長いこと履いていなかった木靴をベッドの下から取り出し、孤児院から外に出る。
そしてそのまま、感覚に導かれるままに町からも出る。
肌寒い夜の道。寝間着姿のまま歩いた先、たどり着いたのは見覚えのない場所。
小高い丘と、そこから見下ろせる墓地。何かが、誰かが、あるいはジョゼフのハンカチが私をここまで誘った。
「お見事です。よくこの場所に至りました」
弱弱しい鼓動は変わらず、ただ驚きに私は息を呑んだ。
拍手が鳴った。声をかけられる。空に浮かぶ月明かりは不気味な雲に覆われ始めていた。
「どなた、ですか?」
声を出す。胸の苦しさはない。だけど短く区切るしゃべり方が癖のように出てしまう。
首を振り、あたりを見渡す。足音が鳴る。私は振り返ってそれを見た。
「…ジョゼフ?」
そこにいたのはジョゼフだった。
———違う。ジョゼフの姿を模した、何者かだ。私はぎゅっと、ジョゼフのハンカチを胸元で握りしめた。
「こんばんは、マリ様。私はジョゼフ様ではございません。今の世では“悪魔”と呼ばれる者です」
そう言って奴は頭を下げた。そこに、不自然に山羊の角が生えている。
「悪魔…」
名乗られたそれを口元で転がす。恐怖、感じるべきだったかもしれない。
だけど私は踏み出し、頭を下げたままの悪魔の角を掴み上げた。
「ジョゼフは? あなたは、ジョゼフを、知ってるの?」
「はい。存じ上げております」
「どこにいる」
平坦な視線を浮かべたまま、悪魔は私の問いに対して空を指して答えた。
「天国に行かれました」
「天、国…?」
振り上げられた指先は、真っすぐ空を向いている。私はその指先と空を見比べて、戸惑ってしまう。
「どうして、ジョゼフが、天国に? どうやって」
「ジョゼフ様は空を飛ぶ乗り物を発明されました」
「空を……」
どんな乗り物であるか想像がつかない。だけど、それは凄いことだと分かった。
同時に、それはとてもいけないことだとも思った。ひとが天に呼ばれもしないのに昇るだなんて、そんな———
それに、それに———
「あぁ……」
どうしてハンカチを握らされていたのか分かってしまった。
別れか。これは、私が今握っているこれは、そういう類いのものなんだ。
さぞ、哀れに映っていたんだろう。私の姿は。
「………」
それだけじゃないとは分かっている。ジョゼフは優しい男の子だった。
だけど、置いていかれてしまった。その事実だけは否定しきれなくて、空虚な胸の奥にすっと染み入ってきてしまった。
「………」
最後に会いたかった、だなんて感傷は浮かばない。
会いたいとか、顔を見たいとか、ずっと一緒にいて欲しかったとか、そんな欲求は一欠けらも無かった。
だけど、ただ、もういいやと思った。力が抜けたのか抜いたのかもよく分からないまま膝をつく。私は天を見上げていた。
後悔でもない。絶望でもない。何かよく分からない感情がぐるぐると渦巻く。吐き出したくても吐き出せない。
「あぁ…」
ただ、漏れる。感情の一端が口から零れた。そうすると途端に頭が痛い気がしてくる。
「残念、だな…」
漏れ出た言葉は今の私にふさわしいものだった。何かに負けて、何かを失った。残ったものを探すのも莫迦莫迦しい。
ジョゼフの顔をした悪魔を見上げる。まっすぐ私のことを見つめ返してくるその瞳は、あの子と違って哀れみを映していなくて、あの子と同じ優しい色をしていた。
「こちらをどうぞ」
悪魔は私と目が合うのを待っていたかのように、それを差し出した。
「これはジョゼフ様から貴方様に託されたものです」
「私に…?」
かけられる言葉と目の色に吸い寄せられ、私は反射的にそれへ手を伸ばした。
受け取ったものは布。これは何であるのか。悟って、見上げて、見下ろした。
ジョゼフの服だった。それも汚れていて、これは何か———
「……血…?」
何であるのか悟った。布の表面が血で汚されていた。それは意味ある形を模していて、それを私は読み上げた。
書かれていたのは———
“マリへ”
“天には人を食う巨人がいる”
“今まで昇ったひとは全員昇ってすぐ食われて死んだ”
“僕も“
………そんなことだった。
「………」
悪魔から全てを聞き出した。
天に昇ったミリアさん。血に汚れた羽。それが落ちてきた。ジョゼフがそれを見つける。
そういうことだった。理解した。ジョゼフはミリアさんを助けに行こうとしていたんだと理解した。
であればどうする? 全てを理解して、真実を知らされて、私はどうする。
悪魔は言った。
「知恵ある御方、既に貴方様はそれを見つけていらっしゃる。後は思うままに動きなさって下さい」
何を言われているのかよく分からなかった。だけど、私が望むことは何か、私ができることは何か。考えれば自ずと道が見えた気がした。
悩むことなく、行動すると決めた。悪魔は私を黙って見送った。
まず、私の薬を出してくれていたお医者様の寝込みを襲った。縛り付けて、脅して、“それ”を聞き出した。
私に出してくれていた薬の原料。それがとある花の葉であることを教えてくれた。用が済んだからお医者様は誰にも見つからないように殺して捨てた。
必要とする花の葉は野山に普通に生えるものだった。それが毒にも薬にもなることなんて知らなかった。
私はそれを原料として、何人ものひとに協力してもらって新しいお薬を作った。結果、出来たのは痛みや苦しさを誤魔化せる薬。濃度と粘度が高くて飲むのには適していない薬―――肌に塗る為の軟膏を作った。
完成したそれを、私は病がこれで治ったと吹聴して回った。重い病気や怪我をしたひとはこれを使うとたちどころに治ると押し付けて回った。
効果は覿面だった。怪我や病気に侵されていたひと達は痛みも苦しみも忘れて動き回った。走り回った。健康だった時よりも元気になったと評判になった。
天から羽が降ってきた日。私は天に昇るひと達全員に大量の軟膏を配って回った。
天国で病気や怪我をしたひとがいれば、これを渡してほしいと言って。皆快く受け取ってくれた。
それからも私は軟膏を作り続けて、配り続けた。異変はそれからしばらく日が経ってから起こった。
町中で無気力に寝転がるひと達が現れ始めた。どうしてそんなことになり始めたのか、まだ健全な町のひと達には理解ができない。
それでも町は止まらない。私は心の苦しみも和らぐと嘯き、無気力になった親族に頭を悩ませているひと達にも軟膏を配り、その製法も伝えた。
原料は、野山に普通に咲く花の葉である。
そうしてとうとう、待ち望んだ日がやってきた。
羽が降らない。
前回、祝福の羽が降ってから既に2か月半を超えている。町中皆が騒ぎ出す。
おかしい、おかしい、と皆が言う。最近羽が生え始めるひともいなくなった。どうしてだ、どうしてだ。不安そうに騒ぐ皆は私に軟膏を求めてくる。
不安を消したい。嫌なことを忘れたい。軟膏を塗ればみんな忘れられる。たくさん塗れば、空を飛ぶような爽快感だって得られる。そうしてみんな、笑って帰る。
目的を遂げた私は今日、孤児院じゃなくて、いつか悪魔と出会った墓地へと向かった。
最後はあそこがいいと思った。だけど辿り着くより手前、墓地を見下ろせる丘まで来た時に膝から力が抜けた。
―――あぁ。
「…おしまい、だね」
倒れこんだ。起き上がろうとしたけど、もう起き上がれない。ただ前のめりに倒れてしまったのを、力を振り絞って仰向けにひっくり返る。
空、青い。羽はもう降ってこない。
軟膏を直接口に含めば死ぬ。それは軟膏を作るのに協力してくれたひと達が、きっちりと致死量含めて教えてくれた。
天に昇るひと達に持たせたのは、飲めばひとが死ぬ何億倍もの量。そのまま食べてくれれば、ひとの何倍あるか分からないけれど巨人も死んでくれないかと考えていた。
結果、多分、叶ったんだろう。それが確認できるまでは死ねないと思っていたけど、多分それが叶って、もう、あとはどうでもよかった。
「………」
身体が動かない。私はここで死ぬ。天に昇ったジョゼフ、その出発点の近くで死ねる。
息を吸う。息を吐く。もう正しくその動作が行えているかも分からない。痛みも苦しみも死も何もかも遠ざける為に軟膏を塗り続けた私には、もうまともな感覚は残されていない。
ぼーっと霞む視界の中、空だけを見上げ続ける。記憶も思考も虫食いだらけで何の感慨も沸かない。
と、近づいてきた誰かの影が、青い空を背景に黒い輪郭を形どった。
「マリ様、お疲れ様でした」
それはジョゼフの声。
それはジョゼフの姿。
だけどそれはジョゼフじゃない。
「………」
私は影に向かって手を伸ばした。
「……あのね、ジョゼフ…」
「私はジョゼフ様ではありません」
首を振られる。
振られるその顔に、その頬に、手が届かない。遠近感が掴めない。
だけどぎゅっと手を握りしめられた。そして半身を起される。
近づく顔。胸に額を押し付けて、私は最後の願いを口にした。
「…私に、キスして…」
「………」
戸惑いの気配が返ってくる。最後に断られるのは、嫌だな。
「…マリ様。私はジョゼフ様ではありません。この姿も、見ている方が最も会いたがっている方の姿に見えてしまうだけで、そもそも私は———」
「いいの。関係ない」
最後の力を振り絞って、軟膏を配り歩いていた時に使っていた鞄からハンカチを取り出す。それで目と鼻と口を覆い、仰ぐ。
あとは言葉もない。ただ、待つ。逡巡するような気配をハンカチの向こうに感じて、でも最後には身を寄せられて、ハンカチ越しに唇を塞がれた。
ジョゼフを感じた。ドクンと、久しぶりに胸が痛みを覚える。
「———あぁ……」
ごめんなさい。私は、きっと、悪い子でした。
ジョゼフ。あなたも悪魔に会ったのでしょう? あなたが目にしたのは、きっとミリアさんで、私なんて、きっと———
悪魔はそっと唇を離した。
涙に濡れたそのハンカチを外すと、現れたのは安らかな死に顔。
抱き起こしていたその身体を下ろし、丘の草原に寝かせた後、悪魔はその場を静かに去った。
こうして停滞した歴史は動き出し、人類は進化に向けて時を刻み始める。
その裏に誰がいたのか、どのような想いがあったのか、歴史が細かく語ることはない。
これにて「天使の羽が降る」完結です。
最後まで読んでくださった皆様、ブクマ・評価・いいね・ご感想頂けた方々、誠にありがとうございました。
本作を書くにあたって参考にした情報や裏話的な話はあとがきとして活動報告に載せております。作品のイメージを損なう可能性もございますが、お暇な時にでも読んで頂ければと思います。
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それでは。