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母のこと

瑞花は、兄との庭の散策で、初めて母が亡くなった事を聞いた。

母の初は、それは美しく品の良い、そして厳しい女神だった。

父はその母に叱責されるのを恐れて、外では何とか王としてやっていたが、宮の中では横暴極まりない、粗野な神に見えた。

だが、母には頭が上がらないので、それで母が理不尽なことは諌めて何とかやっていた。

兄は、あんな父のようにはならぬと幼い頃から母に忠実に育ったので、問題なく立派な神に成長したし、瑞花と楢も、父はそれほどこちらに干渉してこなかったので、母のいうように淑やかにと心掛けて育った。

だが、そんな母でも瑞花が籠められていても、顔も見に来なかった。

言い付けを守らず愚かな行為で、己の身を貶めた娘だと、疎んじていたのだろう。

だが、兄が言うには、母は病に倒れてから、瑞花の身を案じていたのだと。

松のことだけは後悔してならぬ、と母は最期まで言っていたそうだ。

兄に譲位をと脇から強く勧めたのも、母だったらしい。

そうすれば、瑞花が戻って来られるのではないかと考えていたようだ。

だが、関が王となって王座に慣れるのを待つ間に、母は命を落とした。

兄も、王座についてから事あるごとに松を宮に、と父に言っていたらしいが、臣下に根回しして宮の恥になると言い含め、とうとう成せなかったのだそうだ。

なので、今回の話はホッとしたのだということだった。

高瑞の養子になり、松から瑞花となって数ヶ月、未だ漸からは話が来ない。

文は毎日やって来るが、まだ時が悪いとこちらに会いに来る事は、なかった。

…嫌になられたのかしら。

瑞花は、不安になった。

自分から望んだ縁ではなかったが、しかしこうなって来ると漸と過ごした日々が思い出されて、寂しく感じていた。

瑞花は、漸を想うようになっていたのだ。

天媛が、そんな瑞花の部屋にやって来た。

「瑞。どうしたのですか?何やら鬱々とした気を感じますこと。」

だから来てくれたのね。

瑞花は、天媛を見た。

天媛はいつも瑞花の事を見ていてくれて、こちらが暗いと様子を見に来てくれる。

とても極め細やかに世話をしてくれる母だった。

「お母様。いえ、兄から実家の母がとっくに亡くなっておったのを聞いて、それを思い出しておったのですわ。あの時は母のことより、とにかくこちらの生活に慣れねばと、皇女であった己を思い出すのに精一杯で、母の死を考える暇もありませなんだ。誠に親不孝な娘でありました。」

天媛は、横に座って、瑞花の髪を撫でた。

「あなたは何も悪くはないのですよ。略奪などが合法な、今の世に問題があるのです。漸殿の宮でなら、あなたは恥だなど言われる事もありませんでしたのに。あれは渡殿が悪いの。産みの母上も分かっていらしたのではないかしら。」

瑞花は、頷いた。

「はい。母は、こんな我を死の直前まで案じてくれておりました。兄も我の事を戻そうと考えてくれておったようで…何事も、我があの時侍女の目を盗んで部屋を抜け出さなければ起こらなかった事であろうと。後悔しても、せんのない事でありますが。」

天媛は、言った。

「過ぎた事は、もう考えるのはお止めなさい。比呂がこの世に居るのも、間違いだと申すのですか?」

瑞花は、それには慌てて首を振った。

「そのような!あの子は誠に優しい良い子でありますわ。何事にも一生懸命で…あの子が居ないことなど考えられませぬ。」

天媛は、微笑んだ。

「ならば、先を考えなさい。あなたは十分に苦しんだのですよ。比呂は立派な神に育っておりますわ。ここに居れば蒼が結界内で守ってくれる。何も案じず、あなたはあなたの幸福を考えるのです。漸殿は、毎日御文をくださるのでしょう?」

瑞花は、下を向いた。

「ですが…時が悪いと申して。会いにもいらしてくださらぬようになってしまったので…。」

天媛は、その事か、と苦笑した。

「…殿方には殿方のご都合がありますわ。まして王である漸殿のこと、時を空けねばまずい状況だと判断なさっておるだけでしょう。地震の後始末も終えたようでありますし、神世が落ち着き始めました。恐らく、そろそろいらっしゃるのではないかしら。」

瑞花は、顔を上げた。

「誠ですか?ならば、漸様はお心変わりをなされたわけではないと。」

天媛は、また瑞花の頭を撫でた。

「漸殿のお気持ちは、そう簡単に変わるものではないと我は思いますよ。あなたが信じて差し上げないことには。待つのが賢い女神というものですよ。我とて、最近に学んだ事なのですけれどね。」

フフと笑う天媛に、長く生きているという、月の眷族の母も未だに、学ぶ事もあるのだ、と近しく思った。

瑞花は微笑み返した。

「はい。漸様はとてもご信頼できるかただと思うておりまする。我は…知らぬ間に、漸様を慕わしく思うておるようでありますわ。お顔を見ないで過ごしていると、寂しく感じてしまう己が居るのに気付きましたもの…。」

素直にそう打ち明ける瑞花に、天媛は嬉しそうに笑った。

「まあ、瑞にもそのような心地が芽生えたとは。誠に幸福な事でありますよ。終生誰も愛せぬ命もある中で、慕わしい心地を知ることができる事こそが、幸福であるのですわ。良かったこと。」

瑞花は、驚いた。

この気持ちを持つことが、幸福なのだと。

「誠ですか?お相手が、もしこちらに興味がなくとも?」

天媛は、頷いた。

「はい。何も感じておらなんだ時に比べたら、その苦しい気持ちもまた、成長するための学びとなるのですわ。我は、良い事だと思いまする。あなたはお相手があなたを望んでくださるのですから、もっと幸福でありますけれどね。」

瑞花は、頬を赤らめた。

そうか…我は幸福なのだ。

瑞花は嬉しくなって、そこからは月を眺めながら、天媛と取り留めのない話をして、時を過ごしたのだった。


次の日、会合を終えた維心が早々に鳥の宮を飛び立って龍の宮へと帰って来ると、維月が到着口に出迎えて、頭を下げていた。

一人で行く時は輿を使うことが少ない維心は、今回も飛んで行っていたので、床へと降り立ってすぐに維月に歩み寄った。

「維月。今帰った。」

維月は、顔を上げた。

「お帰りなさいませ、維心様。恙無くお戻り頂けて嬉しいですわ。」

維心は、維月の肩を抱いて頷いた。

「留守中、問題はなかったか?」

維月は、維心に促されて歩き出しながら、頷いた。

「はい、いつもながら臣下達が全て弁えておりますので。私は何もすることも無くて。維斗の所へ行って、夕貴殿と話したり、維知と話したりしておりました。あの子ももう、大きく育っておって、最近では立ち合いも良くするのだと聞きましたわ。」

維心は、微笑んだ。

「維明が未だにあの様子であるから、維知がそのようなのは心強いことよ。」

歩きながら、維月は真剣な顔になって、言った。

「その事なのですわ。」

維心は、眉を上げた。

「どの事ぞ?」

維月は、維心の袖を握りしめて、続けた。

「維明の妃でありまする。前世の維明様なのは重々存じておりますし、私も時々困るほどですけれど、その、阿木のことですわ。」

阿木?

維心は、思った。

そういえば、維明の妃にでもと思っていたとか言っていた。

焔が興味を失くしたので、もしかして本当に維明にと?

「…我は反対する理由はないが、しかし維明は恐らく首を縦に振るまいぞ。分かっておろう?」

維月は、ため息をついた。

「…はい。それはそうなのですけれど、勧めるぐらいは。何しろ、今生こそは幸せにと願っておりますのに、あの子は全くそんな素振りもなく。案じて仕方がないのです。」

とはいえ、前世を知っている維心からは、絶対に無理だろうと思えた。

何しろ前世の叔父はかなり頑固で、自分そっくりなのだ。

あり得ない、というのが維心には分かるのだ。

「維月。」維心は立ち止まって維月を見つめた。「恐らく無理ぞ。こればかりは端から言うてどうにかなるものではない。あやつがその気にならぬと、後々面倒なことになる。我が言うたらあれは立場上断れぬから娶るだろうが、放置するぞ。それが阿木の幸運だと主は思うのか。」

言われて、維月は渋い顔をした。

明維ですら、こちらが推し進めた美羽との婚姻が結局上手く行かず、かなりの面倒な事になった。

確かに維心が言うように、こちらが良いと思っても本神が望まなければ無理があるのだ。

「…分かりました。」維月は、渋々頷いた。「確かに仰る通りであります。口出しはせぬことに致します。」

維心は頷き返したが、維月がまた、維明と阿木が出会うように手を回したり画策するのではないかと、面倒だけは起こしてくれるなと思っていたのだった。

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