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松は、それは美しい天媛の隣りに座って兄の来訪を待っていた。

天媛は、何かを見るように遠くへ視線を固定して、じっと黙っている。

そんな天媛に、初めて会った時の事を思い出した。


蒼に言われて高瑞を訪ねたのは、正月の催しの直後のことだった。

同じ宮の中に居るとはいえ、高瑞は北の対に居て、そこの担当の侍女以外は滅多に顔を見ることもない。

高貴な立場の神達には、そもそも侍女がそうそう顔を見る機会などないのだ。

蒼達月の眷属は特殊で、あっさりどんな下位の臣下の所にも気軽にやって来るが、もともと最上位の宮の王であった高瑞は、王族らしくそんなことはなかった。

高瑞の宮は、高彰という王が継いでいてその高彰は高瑞に似たそれは美しい王だった。

正月の催しでやって来る、それらの王には給仕の関係でよく会うが、高彰は浮いたところもない完璧な王で、焔などとは印象が全く違った。

楽の音を良くするのも松は聞いて知っていたので、あの方の琵琶も聞いてみたいもの、と常に思っていたものだった。

そんな高彰の伯父だと聞く高瑞は、まだ若々しい外見で近くで見ると恥ずかしくなるような美しい神だった。

その上、その隣りには見たこともないほど美しい、月の眷属の縁者であると聞いている、天媛が微笑んで控えていた。

松は、圧倒的な美しい二人の前に進み出て、深々と頭を下げた。

「…面を上げよ。」松は、恐る恐る顔を上げた。高瑞は続けた。「我が主の父となる高瑞。父と呼んでくれて良いぞ。こちらが我が妃の天媛ぞ。」

天媛が、待ちきれないという様子で言った。

「我があなたの母となる天媛ですわ。これからは、母と呼んでくださいませね。」

松は、恐縮しながら頭を下げた。

「はい、お父様、お母様。」天媛が悶絶しているのに気付かず、松は続けた。「この度は我のような者を受け入れてくださいまして、心より感謝しておりまする。これよりは、お二人の恥とならぬように、精進して参ります。」

高瑞が、苦笑した。

「そのように畏まることはない。これよりは我が子となるのだからの。ここは主の里、何なりと望みを申せば良い。例えば、主は父と兄を恨んではおらぬか?隠居したとはいえ、あの宮に圧力を掛ける事もできようぞ。主がここへ来た経緯は蒼から聞いておるし、理不尽な扱いを受けておったようだ。なんなり申せ。」

高瑞はそれをわざと言ったのだが、松は驚いた顔をした。

天媛は、急に暗い顔になって黙り込んでいる。

松は、首を振った。

「そのような。確かに父を恨んだ時もございましたが、今は兄が宮を継いでおりまする。あちらの宮に、某かなど今はもう、ございませぬ。」

高瑞は、片方の眉を上げた。

「ほう?兄とて同罪なのでは?」

松は、首を振った。

「いいえ。妹は何も知りませんでしたが、兄は直後から御存知でした。籠められておって、父に誰との面会も文のやり取りも禁じられていた中、兄だけは我に、着物などを秘かに贈ってくださった。父には新しい着物すら与えられぬようになっておりましたから、とても助かりました。文もついておらず、それを持ってきた侍女も何も言いませんでしたが、兄は宮に伝わる特別な梅香を好んでいて。その同じ香りがいつも移っておったので、兄からだと気付いておりました。比呂が生まれてからも、我は何も与えられぬので己の着物を潰して縫い直してあの子に着せていたのですが、それも贈ってくださいました。なので、兄には感謝こそすれ、恨む気持ちなどありませぬ。」

関は、妹を気遣っていたのだ。

高瑞は、それを知った。

恐らくは、そうやって己が王になるまで庇おうとしていたのだろう。

だが、その前に渡が松を月の宮へ出した。

松が、十六夜に訴えたからだ。

高瑞は、松を試した。

松が、恨んで宮を何とかして欲しいと言い出したら、そんな心根の女神は、いくら蒼の頼みでも自分の娘にはできないと考えていたからだ。

権力を持ってそれを振りかざそうとするものには、権力は持たせられない。

上に立つ者には、それなりの良識が必要なのだ。

高瑞は、頷いた。

「ならば良い。近々、正式な手続きのために関がこちらへ来るそうな。その折主にも会いたいとあちらは言うておるし、主もそのつもりで居るがよいぞ。では…」と、明るい分かりやすい顔で高瑞を見上げる天媛を見て、苦笑した。「…母が部屋に案内したいと待ちきれぬようぞ。行って参るがよい。比呂は、ここに連れては来ぬのか。」

松は、首を振った。

「あの子は、もう子供ではないからと申して。軍の宿舎で寝起きをすると申しておりました。どうやら、同じ年頃の親のない子達が、そうやってお役目を果たしておるようで。己にもできると申すのです。」

松は、どこか寂しげだ。

高瑞は、笑った。

「親が思うより子は育っておるものぞ。もう百年であろう?好きにさせるが良い。」

松は頭を下げて、待ち構えていた天媛と共に、そこを出て行った。

そうして、ここでの生活が始まったのだ。


天媛が、ふと言った。

「…参られるわ。」

松は、ハッとした。

迎えに行くと高瑞が出て行ってから一時以上。

いくらなんでも、宮の中を歩いて往復するには、時が掛かり過ぎている。

…どこかで話しておられたのかしら。

松は、心配になった。

兄は、自分に会いたくないのではないか。

そう、思ったからだ。

隣りの天媛は、松の手を握りしめた。

「何も案じることはないのですよ。あなたの兄上は、誠に物の分かったかたのようですから。」

松は、その言葉に察して頷いた。

僅かの間に知ったのは、天媛は数限りない事が見えているということだ。

しかし傍観者の立場であるからと、何も言えないのだと聞いていた。

きっと、何を話してどうなって今ここへ来るのか、天媛には分かっているのだ。

「はい、お母様。」

松が答えると、侍女が入って来て告げた。

「高瑞様、王と共に関様をお連れになってお戻りでございます。」

天媛は、立ち上がった。

松も、急いで立ち上がって頭を下げる。

扉が大きく開いて、頭を下げる侍女の前を三人が歩いて入って来るのを感じた。


「…戻った。」高瑞の声が言った。「これへ。」

二人は頭を上げて、言われるままに高瑞の方へと移動する。

高瑞は正面の椅子に座っていて、蒼はその向かって左側にある椅子に、天媛は高瑞と同じ椅子の右側へと座り、松は天媛の右隣りの椅子の前に立った。

兄の関は、高瑞と対面の椅子に座って、こちらを見た。

…お兄様…ご立派におなりに。

松は、遠い記憶の兄よりも、数段大人びた姿に感慨深く思った。

そして、その兄に頭を下げた。

関は、言った。

「…幼いばかりであったのに。」松が顔を上げると、関は微笑んで続けた。「立派に育ったのだな、松。」

松は、涙を浮かべて答えた。

「お兄様には、愚かな我を幾度も助けてくださって。感謝しかありませぬ。」

関は、驚いた顔をした。

「助ける?我は何もできなんだのにか。」

松は、苦笑して首を振った。

「いつも着物を贈ってくださったではありませぬか。あのような状況で、お兄様すら危うくおなりになるかもしれぬのに。」

関は、言った。

「…知っておったのか。」

松は、涙を流しながら頷いた。

「はい。いつもお兄様の懐かしい香りが移っておりましたから。」

関は、ため息をついた。

「そうか…バレてはならぬと己で蔵からくすねて来ておったからの。まさか主が知っておるとは思わなんだ。我も若かったからの。」

天媛が、懐紙を胸から出して松に渡しながら言った。

「さあ、お座りなさいな。涙を拭いて。」

松は、頷いて涙を拭きながら椅子へと座る。

高瑞が、言った。

「では、渡は脳が老いておるようなので、兄の関の承諾をもって、正式に松を我が子とする。」と、関を見た。「蒼が証人ぞ。それで良いな?」

脳が老いて?

松は驚いた顔をしたが、関は頷いた。

「はい。どうぞ妹をよろしくお頼み申しまする。」

松は、渡の事を聞きたかったが、しかしそんな雰囲気ではない。

もとより、父は自分を捨てたのだし、今さら案じてもあちらはわからないだろう。

なので、黙っていた。

蒼が、ホッとしたように言った。

「では、ここに松を高瑞の娘として公表しよう。次の節分には、オレも龍の宮に顔を出してこの事を公表するよ。」

高瑞は、頷く。

「我も共に参ろう。天媛と松を連れて参ったら顔見世にもなろうしな。高彰は、我がもう月の宮に属しておると考えておるので、我が誰を養子に取ろうと感知せぬようぞ。一応公にしておかねばと宮へ書状で知らせてはおいたのだがの。」

蒼は、頷いた。

「正月の集まりの席で話していたものな。高彰自体はもう知っていた事だし、臣下もなので書状が来た時には驚いたようだったが、高彰が了承済みだと聞いて納得しておったらしいし。男子であったらまた面倒がと騒いだだろうが、成神した女神であるしな。」

高瑞は、頷く。

「その通りよ。ま、これで何事も収まると思うと我も安堵したわ。」と、松を見た。「主も、久方ぶりに兄と積もる話もあるのではないか。場を変えて話して参ったらどうよ。我らが居っては話せぬ事もあろう。」

松は、戸惑いがちに関を見る。

「我はお兄様とお話ししたいのですが…お兄様には、ご迷惑なのでは。」

関は、苦笑した。

「何を迷惑などと。」と立ち上がった。「庭に参ろうか。先ほどから見えておる庭があまりに見事であるので、気になってしようがなかったのだ。」

確かに、北の庭は高瑞と天媛のお蔭で、これ以上にないほど美しく整っている。

最近では、ここだけでは飽き足らずに東や南の庭にまで手を出しているらしかった。

松は、微笑んで立ち上がった。

「お父様とお母様が丹精込めてお作りになっておる庭でありますの。我も毎日楽しみに歩いておって…ご案内致しますわ。」

そうして、関は松の手を取って、そうして二人で庭へと出て行ったのだった。

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