幸福
漸は、松を屋敷へ送り届けてから、その屋敷に己の結界を敷いて誰も潜んで来れないようにと整えた。
松は驚いたが、確かにここには忍んで来る男も居るのは確かだ。
大概は十六夜が見ているので、女が助けを求めたらすぐに降りて来て大事には至らないが、女が成すがままとなれば十六夜も手を出さない。
恋愛は自由だし、女が同意しているのにわざわざ水を差しには行かないのだ。
それでも漸は、心配なようだった。
こちらの世ではそれが合法で、そうなると他に嫁げなくなると学んだからだった。
比呂は既に帰っていて、漸が母を送って来たので驚いた顔をしたが、漸は比呂に言った。
「主の母に婚姻の承諾を得た。」比呂がますます驚いて目を丸くするのに、漸は続けた。「松はあちらに連れて参るが、主も参るのなら歓迎する。あちらはこちらの事を教えてくれる神は重宝されるから、臣下も喜ぶだろう。だが、こちらに残りたいと申すなら、我から蒼に頼もうぞ。後は主次第であるし、母と話し合うが良い。我はもろもろの事を何とかするのにここを離れるので、その間松を守るのを任せたぞ。主は軍神なのだろう。主を信頼して託す。」
比呂は、まだ少年の己を軍神と認めるような発言をする漸に、顔を赤くしたが頭を下げた。
「は!確かにお守り致します。」
漸は頷いて、松を見た。
「松、後は我に任せよ。蒼と話すのだな?」
松は、頷いた。
「はい。これより比呂と話し合って、蒼様にどのようにお願いするのか決めてからご相談を。」
漸は答えた。
「ならば、松が話したいと申しておったと蒼に伝えておこう。必ず四方良いように計らゆえ。案じるでない。」
松は、生徒でしかなかった漸が、大変に頼もしい神に見えて、頭を下げた。
「はい、漸様。」
漸は、しっかりと一つ、頷いて、そうして屋敷を出て行った。
それを見送ってから、比呂が言った。
「…母上、最上位の王であられる漸様とご婚姻を?」
松は、ため息をついた。
「…そのように申し入れ戴きました。でもね、我には敷居が高いと思うておって…あなたもご存知でいらっしゃるけれど、お祖父様や伯父上が何とおっしゃるのか。」
比呂は、まだあの宮に居た頃の事を思い出した。
皆が皆、はぐれの神の子だと比呂を蔑み、遠ざけていた。
母と二人、庭に出る事も許されず窓から外を眺めてただ、二人きりで話すだけであった日々…。
どうして自分と母だけが籠められているのか、その時の比呂には分からなかったが、今は知っている。
母が話してくれたからだ。
月に助けられてこちらへ来てから、母は見違えるように明るくなった。
比呂も多くの友ができて、軍神達も厳しいが良く面倒を見てくれる。
自分はここから出ることなど、考えられなかった。
だが、母は違う。
まだ若く息子の自分から見てもこれほどに美しくて、どこかの王妃であってもおかしくはない。
叔母である母の妹の楢を今日、チラと見たが、王妃の衣裳を身に着けて、それは美しかった。
母だって、もっと美しいのにと比呂は思ったものだった。
王に嫁げば、母は立ち働かなくても良くなる。
おっとりと良い着物を身に着けて、皆にかしずかれているのが相応しいと比呂は思った。
なので、言った。
「…我は、良いことだと思います。」松が驚いた顔をする。比呂は続けた。「我は、まだ年齢は子供ではありますが、もう予備の戦力としてお役目に付く事をお許しいただいておりまする。宿舎の部屋も与えられ、子供だからと分け隔てありませぬ。現に親が居らぬもの達は、既に宿舎に一人で暮らしておって、我も母上が居らねば恐らくもうあちらで過ごしておるでしょう。我は共にお連れ頂く事は望みませぬが、なので我の事はお心おきなく。母上は母上の幸福をお考えください。我は既にこちらで幸福なのですよ。」
松は、それを聞いてみるみる涙を浮かべた。
ここへ来た時にはまだ子供で、体も小さく案じてばかりだった。
それが、いつの間にか体もそこそこ大きくなり、確かに今では、一日のほとんどを軍で過ごして夜しか帰っては来ない。
子供だ子供だと思っていたが、いつの間にか大きく成長していたのだ。
「…いつの間にかあなたは大きくなっておったのですね。我は…いつまでも子供であるような心地がして。確かに共に宮へ行ったりして、あなたには面倒であったでしょう。もう、子供ではないのですね。」
比呂は、苦笑した。
「いつまでも赤子ではありませぬから。こちらへ来てから身も大きくなりましたし。まだ成人までは程遠いかもしれませぬが、母上が思うておられるより、成長しておるのですよ。それよりは、母上のことが気にかかっておりました。我は幸福でありますが、母上はどうなのかと。我が成人するまで待っておっても母上ならばお若いし、お美しいのでいくらでも嫁ぎ先はありましょうが、漸様ほどの地位の方は望めますまい。我は、今を逃してはと思います。」
松は、涙を流しながら頷いた。
比呂が、比呂がと言っていたが、比呂からしたら迷惑な話なのだ。
もう、とっくに母無しでも生きて行けるようになっていた。
それよりも松は、婚姻によって父や兄にまた、あの蔑まれた目で見られるのが嫌だった。
そう、松は現状を変えるのが怖くて、父と兄と対面するのが嫌で、比呂を言い訳にしていた自分に気付いたのだ。
漸は、そんな現状を変えるために現れた、救いの神なのかもしれない。
松にとってはトラウマな実家と、渡り合ってくれるというのだ。
松は、覚悟を決めよう、と思った。
これは、逃げていた過去との、向き合うための機会なのだから。
蒼は、部屋に帰って寛いでいたが、そこに漸がいきなり訪ねて来た。
漸にしたら案内などなくても宮の中を熟知しているので関係ないのかもしれないが、先触れくらいは出さねばならないだろう。
なので、蒼は言った。
「漸、ここはそううるさい宮でもないから別にオレは構わないが、敢えて言う。訪ねる時は、先触れを出せ。他の宮では無礼と会ってはくれぬのだぞ?」
漸は、うるさそうに頷いた。
「分かっておるが、急いでおったのだ。蒼、我は松を娶る事にした。」
蒼は、仰天した。
まだ悩んでいたのではないのか。
「え、婚姻を?良いのか、終生だぞ?」
漸は、何度も頷いた。
「終生でも短いのではないかと思うたわ。我はあれと共に居たい。あれに教えてもらいながら、こちらの世に馴染んで参る。その代わりに世話をする。これよりのことがあろうか。」
確かに松は教師だから。
蒼は思ったが、椅子を示した。
「とにかく座れ。それで、松は了承したのか?」
漸は、椅子に座りながら頷いた。
「いろいろあるから主に話してからとか言うておったが、あれ自身は問題が解決するなら良いと。主ととにかく話したいと言うておったから、明日の朝にでも話してやって欲しい。我は、その間に他の王に対応を相談して参る。あれの父と兄に話を通さねばならぬのだろう。」
蒼は、顔をしかめた。
「確かに、そうしないとあれの地位では何かと面倒なことになるゆえ。皇女として嫁ぐ方がいろいろ良いからの。松の事情は秘匿されておって、最上位の王ぐらいしか知らぬ。なので、渡…あれの父だが、あれがきちんと皇女として認めて主に嫁がせると公表すれば問題ないのだ。ちなみに今の王は関。松の兄ぞ。」
漸は、頷いた。
「ならばそちらは我が何とかする。主は、松の案じておる事を聞いてやってくれ。」と、立ち上がった。「ではの。維心達に話に参るゆえ。」
蒼は、慌てて立ち上がった。
「待て、もう日が暮れておるのに?明日にせよ、寝ておるやもしれぬのに。」
漸は、首を振った。
「炎嘉が部屋で飲むとか言うておった。維心もさっき回廊を控えの間の方向へ歩いて行ったゆえ、居るはずよ。とりあえず炎嘉の所に参るゆえ、主は松の事だけ案じてくれたら良いのだ。ではの。」
漸は、さっさと言いたい事だけ言ってそこを出て行った。
蒼は、一度決めたらそればっかなんだから、最上位の王は!
と、内心思ってため息をついていた。
それにしても、阿木の方はどうなったのだろう。
蒼は、気になったがまずは一つずつ解決して行こう、と、阿木の事はあちらが話して来るまで聞かないことにしたのだった。




