漸と松
松は、楢との対面を終えて、日が暮れて来たのでこれ以上はと、急いで楢を樹伊のもとへと帰した。
楢は名残惜しそうだったが、それでなくとも宮から追放された身の松に会う事を許してくれた樹伊に、これ以上迷惑は掛けたくなかった。
またここに居る間には会えるからと楢を説得し、楢は仕方なく戻って行った。
かと思ったら、隣りの部屋から漸が入って来た。
何の前触れもなかったので松は驚いたが、どうやら漸はそこで楢が帰るのを待っていたらしい。
松は、王なのにそんなことをさせてしまったと急いで漸に歩み寄った。
「まあ漸様。」と、頭を下げる。「お待たせしたのではありませぬか?」
漸は、なんと頷いた。
「待った。」松が目を丸くしていると、漸は続けた。「主がこちらへ来た時から待っておったのだ。話がしとうての。主らの邪魔はしとうなかったが、長いのでイライラしてしもうた。」
漸の素直な様子に、松は思わず微笑んだ。
「申し訳ありませんわ。何か御用でありますか?御文を戴きましてありがとうございます。今年も良い年でありますように。」
漸は、頷いて松に手を差し出した。
「松。ここではなんだし、庭にでも参ろう。日が暮れては来ておるが、ここは月の宮。月が照らすであろう。」
松は、苦笑した。
「それはよろしいですが…他の王の方々とは、お会いにならぬのですか?共にこちらへ戻られたと蒼様からお聞きしておりますのに。」
漸は、松の手を握って首を振った。
「皆控えに戻っておる。我は…己の中で固めねばならぬ事があるのだ。参ろう。」
松は、何を固めるのかしら、と自分とそれが何の関係があるのか分からぬで困ったが、漸の事は嫌いではない。
紳士的で、他の男のようにそこら辺の茂みに連れ込んでとか、絶対にあり得ないのはもう知っていた。
なので、黙って漸に従って、回廊を歩いて行った。
どうやら、南の庭に向かっているらしい。
漸は難しい顔をしていたが、松の手はがっつり握って歩いている。
宮の中央にある大回廊に差し掛かった時、遥か向こうから龍王が歩いて来るのが見えた。
…大変。龍王様とは身分が違い過ぎる。
松は、思わず立ち止まる。
すると、漸がこちらを見た。
「なんぞ。どうした?」
松は、ハッとした。
もしかしたら、漸は知らないのかも知れない。
なので、小声でどんどん近付いて来る維心を気にしながら、急いで言った。
「漸様、我は龍王様とはお許しなく対面することができない身分なのでございます。侍女のお役目の時ならいざ知らず、今はこのようにお役目を離れておる時。我は頭を下げて顔を伏せますので、漸様には龍王様に話し掛けたりなさらず、会釈だけをなさってお見送りくださいませ。他の最上位の王ならば良いのですが、龍王様だけはそのように取り決めがありますの。その昔から、龍王様には女神を殊の外遠ざけていらしたのでできた決まりなのだと聞いておりまする。」
漸は、驚いた。
「誠か。なんとの。知らぬで話し掛けるところだったわ。とにかく主の言うように。」
漸様が素直なかたで良かった。
松は思い、もうそこまで迫った維心に慌てて深く頭を下げた。
漸も、維心が通り過ぎるのに、軽く会釈をして維心もそれに会釈を返しているのが空気で分かる。
そのまま、思った通り維心は黙って通り過ぎて行った。
その背にホッと肩の力を抜いた松は、頭を上げた。
漸は、維心を見送りながら言った。
「…まだまだ知らぬことばかりぞ。とはいえこれは、維心の我が儘のようなものではあるが。」
松は、苦笑した。
「そのような。最上位の中の最上位の龍王様には、他の王とは違ったご対応が求められるだけでありますわ。その都度覚えて参られたらよろしいかと。」
漸は、じっと考えていたが、いきなり松の両手を握りしめると、言った。
「…決めた。」
松は、今ので何を決めたのだろうと驚いた顔をした。
「え、何を?」
漸は、答えた。
「主を娶る、つまりはこちらの婚姻制度というものを、我が受け入れることをぞ!」松が仰天したように目を見開くと、漸は構わず続けた。「松、我は主を娶りたい。我が知らぬ事を、我の側で正して行けるのは、主しか居らぬではないか。主の言うことならば、我は聞こうと思えるし、生涯主には助けてもらえる。そして、我はその労いとして主を世話するのだ。それでどうよ?」
松は、それでどうだと言われても、つまりは自分は、漸の妃となるという事だろうか、と戸惑った。
「それは…婚姻というものを知らぬで来られた漸様が、我と婚姻をと?」
漸は、頷いた。
「確かに、不安になるやもしれぬ。だが、知らぬ事は主が教えてくれたら良いのよ。知らぬのだから、婚姻の事に関しては主の言うようにしよう。維心達に聞いて、妃の部屋の事などどうしたら良いのかも学ぶ。ゆえ、我の宮へ来て欲しいのだ。」
松は、あの時に諦めたと思っていた漸が、まだ自分を娶りたいと思って悩んでいてくれたのかと驚いた。
そして、どうしたら良いのかと悩んだ…何しろ、漸は最上位の王となった、自分が皇女であっても敷居の高い神だ。
それを、ただの他の宮の臣下の女でしかない自分が、妃と収まっても良いだろうか。
「…漸様…」松は、困ったように漸を見上げた。「我は、己の身分の事もありますし、しばしお返事をお待ちいただけないでしょうか。我の王である、蒼様にご相談したいのですわ。息子の比呂のこともございます。我が嫁ぐとなると、比呂の身の振り方も考えねばならないですわ。あの子は、こちらに馴染んでおって、こちらに友も居て穏やかにやっておりますの。ですから、また新しい場所へと連れて参るのも憚られるし…今少し、お時間を。」
漸は、ここで断られてはと言った。
「そこは、仮に比呂がここに留まりたいと申すのなら我から蒼に頼むし、我の宮に参るのなら軍神として仕えるように計らおうぞ。主自身は、どうか?我に嫁いでくれるのか。」
松は、返事を急ぐ漸に目を白黒させながらも答えた。
「それは…漸様は紳士的であられてこちらの意向を聞いてくださるかたでありますし、我などで良いのならとは思いますが…何しろ、我は宮を追放された身なのですわ。あまりにも身分が違い過ぎまする。しばらくお待ちくださいませ。婚姻ともなると、縁が切れておるとはいえ父も、只今の王である兄も関わって参ります。最上位の王であられる漸様の妃となるのなら、隠しておるわけにもいかぬこと。どうあっても目につく事になるからですわ。どうかお待ちを。」
漸は、またいろいろ面倒なのだなと顔をしかめた。
婚姻自体を受け入れる事にはしたものの、それが真実どんなものなのか、その親族などの関わりも知らねばならないのだ。
だが、漸は決めたのだ。
なので、頷いた。
「分かった。ならば我も他の王たちに詳しく聞いて参る。主も、いろいろどうにかなるなら我に嫁ぐのだな?」
松は、ここまで言ってくれるのなら、本気で何とかしようとしているのだと、遂に頷いた。
「…はい。我の身一つならばそのように。ですが、解決せねばならぬ問題が多うございます。皆が納得する形になるのが、神世に戻られたばかりの犬神様達の御為にもなるかと。急いではならぬかと。」
やはり松は賢い。
漸は、その答えに満足して頷いた。
「必ず、良いように計らおう。外の事は我が。主は内の、己の子との話し合いを済ませるがよい。では、戻ろうぞ。」
え、庭は?
松は思ったが、漸は一刻も早く話を通したいらしい。
松は仕方なく、今来た道を戻って、屋敷へ向けて宮を出て歩き出したのだった。




