柵
焔は、あれだけ娶るのだと燃え上がっていた心も何やら穏やかに凪いでしまい、拍子抜けしながら控えの間へと歩いていた。
冷静に考えると、確かに龍を娶るなど普通では考えられない。
阿木を送る途中、志心に行き合ったが、その時阿木は顔を赤くして挨拶もぎこちなく、何やら志心にはまともに顔も上げられずにいた。
…志心が好みなのか。
焔は、その時そう、思った。
阿木の様子に志心は何かを感じたのか苦笑して、すぐに離れて行ったが、阿木はその背を潤んだ瞳で見送っていた。
あれを見せられたら、どうにも冷静にならずにはいられない。
阿木は、恐らくああいった落ち着いた性質の男が好ましいのだろう。
だとしたら、自分など真逆なので、とても阿木の心の琴線に触れるとは思えない。
そもそもが、王として仰ぐのは維心、想うのは志心となれば、苦労して娶った自分はどうなのだろう。
それで、手元に置いて己は満足なのだろうか。
焔は、急にそんな風に憑き物が落ちたように考えるようになって、自然険しい顔になっていた。
すると、控えの間の扉が開いて、炎嘉が顔を覗かせた。
「焔。飲まぬか?箔炎と、今志心も来たぞ。維心を呼ぼうかと話しておったところよ。」
焔は、顔を上げた。
「…ああ。そうだの、飲むか。」
炎嘉は、苦笑して言った。
「何を難しい顔を。阿木と会えると飛び出して行ったのではないのか。」
中では、志心と箔炎が座ってこちらを見ている。
焔は、そこへズカズカと入って行って椅子の一つに座ると、はあーっと大袈裟にため息をついた。
「…あれは、我の妃ではない。それを実感したのよ。」
箔炎が、はあ?と顔をしかめた。
「だから言うたではないか。短絡的に娶る娶ると言うが、あれは主の亡くした妃ではないのだからと。見た目ばかりではの。」
炎嘉が、椅子に座りながら言った。
「まあ、まだ娶ったわけではないし。維心のこともあるゆえ、あれは龍だし我らは反対だったのだ。気持ちが変わったなら良いではないか。して?思うたより控えめではなかったとか?」
焔は、またため息をついた。
「…いいや。あやつは完璧に淑やかな女であったわ。だが…何か違う。そも、やはり龍であるから…どこまで行ってもあやつの王は維心。それに気付いただけよ。」
龍は龍王の管轄なので、娶ったところでそれは変わらない。
今さらながらに焔がそれに気付いたのを知って、志心は苦笑した。
「わかっておっただろうに。まあ、良い。我も主らに先ほど行き合った時に、どうもやめておいた方が良いのではと思うたのよ。」
焔は、むっつりと志心を見た。
「…あやつが主を熱っぽく見ておったからか?」
炎嘉と箔炎が驚いた顔をする。
志心は、困ったように答えた。
「なんぞ、気付いておったか。我は嫌になるほど女からあのような目で見られるからの。こやつもかと急いで離れたのだ。」
炎嘉は、呆れたように言った。
「まあ、普通の女ならば志心のようなやつの方が良く見えるわな。何しろこやつは美しいし穏やかなふりをしておって品が良いからの。」
志心は、少しむっつりととした顔をした。
「ふりとはなんぞ。とはいえ、確かにの。我は達観して見ておるだけで、内心を表に出さぬだけであるのにな。騙されるやつが多いのよ。突き詰めて考えると、焔のような裏表のないやつの方が扱いやすいというのにな。」
焔は、酒を自分でつぎながら言った。
「まあ、よう考えたら我があのように振る舞っておったのも、女が寄って来るのが鬱陶しいからであった。ああしておけば、誰も寄って来ぬからな。好き勝手しておった方が楽だしの。礼儀くらい知っておるし、きちんとしようと思えばできる。だが、とかく品良く振る舞うと面倒があちらからやって来る。ゆえにもう、どうでも良いのだ。」
炎嘉が、言った。
「ならば主、あれを娶らぬのか?」
焔は、頷いた。
「やめておく。維心に面倒を抱え込ませてまで娶る価値はないと判断した。リスクに見合わぬ婚姻ぞ。何やら目が覚めた心地よ。あれが志心の背を見送る様を見て、スーッと何かが消えた気がしての。何を必死になっておったのかと思うわ。」
箔炎が、何度も頷いた。
「懸命な判断ぞ。そうよ、見た目だけで選んでは後に面倒になる。良かったではないか、また離縁とかならずで。」
確かにそうだ。
炎嘉は、ホッとしたように頷いた。
「ならば維心を呼ぼうぞ。あやつにも早う気を楽にしてやらねば。」
焔は、バツが悪そうな顔をした。
「あやつもまた、騒がせよってからにとか申すのだろうの。どうせ言われるのだから、早う呼べ。」
そうして、炎嘉は侍女を呼んで、維心の対に伝えに行かせたのだった。
維心は、フッとため息をついた。
阿木が無事に戻って来たので、維月は阿木から話を聞いていてここには居ない。
だが、そこへ侍女が、炎嘉が飲みに来ないかと呼んでいると聞いたのだ。
…別に行っても良いが、維月が何と申すかの。
維心は、チラと隣りの部屋の方へと視線をやった。
すると、維月がそこからスッと入って来て、頭を下げた。
「維心様。炎嘉様からのお遣いが参ったと侍女が知らせて来て。」
維心は、侍女が知らせたかとホッとして頷いた。
「何やら飲みたいとか申す。行って参ろうかと思うておるが、阿木はどうであるか?」
維月は、頷いた。
「特に問題もなく。焔様には、見ておったので知っておりますが、阿木に己の気持ちを話したようでありましたが、阿木が龍であって嫁いでも終生維心様を王と仕えるのだという事実を話した時に、空気が変わったようだと申しておりました。私もそのように見えましたし…特にそれからは何も申す事もなく、こちらへ阿木を返して来られたので、焔様のご心情はお聞きしたい気持ちでありますわ。」
維心は、頷いた。
「ならば、焔も居るようであるし行って参るわ。遅くなるようなら主は先に休んでおって良いぞ。一度飲み出したら、あやつらはなかなか帰してくれぬからの。」
維月は、苦笑した。
「まだ日が暮れたばかりですので、ご案じなさいますな。明日からのこともありますし、皆様も早くお休みになるのではありませぬか?維心様には、私の事はお心おきなく。」
維心は、立ち上がって言った。
「我が早う戻って参りたいのだ。」と、維月を抱き寄せた。「主も他のもの達の事ばかりを考えず、我らのことも考えて欲しいものよ。」
維月は、フフを笑った。
「まあ。私はこれほどに維心様を愛しておりますし、維心様も私を愛してくださっておるのですから何の問題があるのでしょうか。」と、維心の頬を両手の手の平で包んだ。「それとも、あまりにも傍に居り過ぎて、見飽きてしまわれましたか?」
維心は、クックと笑って維月に軽く口づけた。
「そんなはずはあるまいが。千年近くも共に来て、まだ足りぬと思うのに。」
維月は、維心の頬に口づけた。
「行っていらっしゃいませ。私はこちらでお待ちしておりますわ。どこにも参りませぬから。」
維心は頷いて、そうしてもっと維月とこうしていたいという気持ちを抑えて、名残惜しい心地で自分の対を出て炎嘉の控えの間へと向かったのだった。
その道中、維心は前から歩いて来る、漸と行き会った。
あちらは、松の手を取って回廊を向こう側から歩いて来ていて、維心はどうしたものかと内心焦った…なぜなら、自分が避けるのは身分柄おかしいし、あちらが避けてくれたらいいが漸がそんなことを思い付くかと言えば、これまで宮を閉じていたのだからそんな気は利かないと思われたからだ。
別に、他の王が女と歩いている横を通り過ぎるぐらいは良かった。
だが、維心は変に序列最上位の第一位の王なので、ほいほい下位の女神に近くで顔を晒して話すという行為自体ができない。
それを知っているので、他の王ならば道を変えて別の方向へ行ったり、どうしても避けられない場合は連れている女神に頭を下げさせて顔を伏せさせ、会釈だけで維心が横を通り過ぎるのを待つのだが、漸にそれを期待できるとは思えない。
どうしたものかと思いながらも、足を止めるわけにも行かずに歩いていると、遠く見えている二人が、一瞬立ち止まった。
どうやら、維心に気付いたようだった。
耳を澄ませていると、松が漸に急いで龍王に対する対応の事を早口に説明していた。漸が不思議そうな顔をしたが、どうやら松が教師である意識が残っているので、素直に聞くことにしたようだ。
維心が、期待を込めて歩いて行くと、松は深々と頭を下げて維心が通り過ぎるのを待っており、漸はいつもなら軽く声を掛けて来ただろうが、そんな事もなくあっさりと会釈して、維心が通り過ぎるまで黙っていた。
維心は、つくづく松は優秀な女神だとホッとしながら、炎嘉の控えの間へと向けて、足を速めたのだった。




