遅刻
結局、漸の文を携えた月の宮の侍従が戻って行くのを返事は蝦夷へと再三念を押してから見送って、やっと漸は宮を出発した。
もう、とっくに皆は到着しているだろうが、そんな事はどうでも良かった。
文句を言われたら、やる事があったからだと適当に言えばいいだけなのだ。
本当なら、松とずっとこうして文を取り交わしていたかった。
だが、それが許されるとも思ってはいなかったので、仕方なく気が進まないながらも、蝦夷へと向かったのだ。
炎嘉に教えてもらった旭の離宮は、大自然の中にポツンと建つ瀟洒な宮だった。
上空からそれを見下ろした、貫が言った。
「王。蝦夷の地には何度か来ておりますが、あれは何だと思うておりましたところ。旭様の別宮でありましたのですな。」
漸は、輿から下を見下ろして、その宮を眺めて頷いた。
「誠に珍しいものばかりよ。皆はもう到着しておるだろうな。」
貫は、頷く。
「は。たくさんの大きな気を感じまするゆえ、恐らくは皆様お揃いかと。」と、暗い顔をした。「…礼儀を学んだばかりでありますのに、夜明けには出るのがこちらの常識であると伺って。このように遅れて、王はどのように申し開きなさるのでしょうか。」
漸は、しかし全く気にしていないように、手を振った。
「何を言うておるのよ。これは遊びぞ。公式の場であるならいざ知らず、少々遅れても誰も何も言わぬわ。どうせ、皆が一度に着いたら降りるのに待たされるのではないのか。遅れて来るぐらいがちょうど良いのだ。」
そんなものなのだろうか。
貫は思いながら、出て来た旭の軍神の案内に従って、輿をゆっくりと到着口へと降ろして行ったのだった。
維心達は、旭に案内されてこじんまりとした居心地の良い部屋へと案内されていた。
そこは、畳の間になっており、月の宮と同じように、皆が一列に並んで庭を眺められるように、大きな窓が着いている。
ぐるりと半円を描いているテーブルは、どうやら蒼から教えを受けて作ったものらしかった。
これが、皆の顔を見ながら話せるので一番良い形なのかもしれなかった。
窓を向いている半円のテーブルの前には、また畳が敷いてあって、月の宮の広間と同じように、そこで楽などを楽しむのにもってこいだ。
席へと案内されながら、炎嘉が言った。
「また見覚えのある設えであるな。蒼に聞いたのか?」
旭が、頷いた。
「どうしたら良いのか分からぬし、二年前皆がこちらへ来ると聞いた直後に蒼殿に聞いて、同じように作らせたものなのだ。それなのに、なかなか来ぬから畳が日焼けしてしもうて。今年また入れ替えたのよ。」
確かに二年も放置していたらそうなるかもしれない。
窓が大きく開いているし、昼間は日が差し込んで来るだろうからだ。
しかし、そのお蔭で新しい畳のイグサの匂いが心地よかった。
「世話を掛けたの、旭よ。それで、露天風呂も整備したとか聞いたが。」
旭は、自分も席へと座りながら、頷いた。
「大きく設え直した。ここらの湯は白く濁っておって人も好むのだ。湯の中が見えぬので、女も浴衣を着ずに風呂に入れるので女神達も好んで入る。また夜にでも案内しようぞ。」
維月は、それを聞いてワクワクとした。
あちらとは違って、神世に来てから濁った湯に入るのは、昔十六夜と北海道まで旅行に来た時以来だ。
維心と共に並んで座りながら、維月は言った。
「楽しみですわね、王。旭様の離宮は大変に美しいですわ。」
維心は、維月を見て微笑んだ。
「気に入ったか。確かにの。我も領地内の古い宮を建て直させようかの。木造の物が最近、かなり朽ちて来ておるし、思い切って補修ではなく石で建て直しでも良いかと思うておるのだが。」
確かに多くの離宮が木造で、中には建て直しているものもあるが、古い物もたくさんある。
木造の宮は木造のまま建て直すのだが、維心はどうやら石で全く違うものにしようとしているらしかった。
「…確かに。ですが、木造は木造で建て直したほうがよろしいのでは?石造りの宮は多くありますが、木造はそれでなくとも数が減っておりますし。また違った趣で楽しめるのにと思うてしまいます。」
維心は、笑った。
「主がそう申すならば木造で建て直すか。形だけは新しいものを考えさせよう。楽しみであるな。」
維月は、微笑んだ。
「はい、王。」
綾が、それをじっと物欲しげに見ている。
翠明が、慌てて言った。
「主も離宮に行きたいか?建て直させるか。良いぞ、どこの離宮が良い。」
綾は、パッと明るい顔になった。
「海辺の日当たりの良い場所に建っておる離宮を。あそこは柑橘の木々が囲んでおって我は好きですの。」
翠明は、顔をしかめた。
「なに海辺の?あれは潮風に晒されてもう駄目だと放置しておるやつではないか。」
綾は、頬を膨らませた。
「ですから今度は石で。あの場所が好きだと申しておるのに、王はいつも朽ちておるから無理だと申されるではありませぬか。建て直して維月様をご案内したいのですわ。」
また石を切り出して来なければならぬ。
翠明は面倒だと思ったが、仕方なく頷いた。
「主がそう申すなら仕方がないの。帰ったら設計させるわ。」
軽々しく言うのではなかった。
翠明は思ったが、後の祭りだった。
炎嘉が、笑った。
「面倒を押し付けられよって。石はあるのか?大掛かりになるぞ、翠明よ。」
翠明は、ため息をついた。
「山が在るゆえ問題ないが、切り出させねばならぬわ。まあ、あの宮は朽ちて来ておって体裁も悪かったし、良い機会であるわ。」
どこも妃の言いなりだ。
焔が、言った。
「時に樹伊よ、主の妃は初めて見るの。関の妹であろう?」
樹伊は、頷いた。
「そう、楢ぞ。」と、楢を見た。「樹佐の面倒もよう見てくれるし、誠に助かっておるのだ。楢、あれは焔ぞ。」
楢は、頭を下げた。
「楢でございます。」
確かに松にそっくりぞ。
皆が思ったが、口には出さなかった。
維月は、維心を見上げた。
「王、久方ぶりに皆様にお会いしたので茶など飲みたいと思うのですが、旭様にはお部屋をお貸し頂けますでしょうか。」
楢にも、皆に馴染んでもらいたい。
維月がそう思っているのを気取った維心は、頷いた。
「そうであるな。宮から菓子を持って来ておるのだろう?皆に振る舞ってやるが良い。」と、旭を見た。「旭、部屋はないか?これらを移動させてやりたいのだが。」
旭は、分かっていると頷いた。
「あるぞ。蒼殿から聞いて準備させてあるのだ。」と、側の侍女に頷き掛けた。「案内してくれ。」
侍女は、頭を下げた。
維月は、立ち上がった。
「では、皆様。お部屋をお貸し頂けるということですし、茶会でも。場を変えましょう。」
綾が、嬉々として立ち上がった。
「はい、維月様。」
妃達は、皆それに倣って立ち上がる。
そもそも龍王妃である維月が誘っているのに、行かないという選択肢はなかった。
楢も、黙って立ち上がり、樹伊が心配そうにそれを見上げた。
「…楽しんで来るが良いぞ。女同士話も弾むであろう。」
実際は、恐らく新参者の楢はかなり気を遣うだろうから、寛げるとは思っていない。
だが、樹伊の妃としてこれはこれからも避けられないことだった。
楢は、樹伊の気遣いを感じて扇で隠した顔の目だけで微笑んだ。
「はい、王よ。」
そうして、案内の侍女について先に歩いて行く維月に従って、皆が王の序列順に退出して行くのに最後尾まで待って、楢はそこを出て行ったのだった。




