返事
漸は、松からの返事を待っても、正月の挨拶などにすぐに返事が来るとは思えなかったのだが、それでも待っていた。
恐らく旭の宮では皆が揃っているだろうが、それでも宮を出る気にはなれない。
軍神達は王がいつまで経っても出発しようとしないので焦れて来ていたが、そんな事はどうでも良かった。
とにかくは、松の返事が来ると、信じたいと思っていたのだ。
こんな心のまま蝦夷へと向かっても、あちらで気もそぞろになってしまうだろうと思われた。
なので、貫が急かして来ても、居間を動こうとしなかった。
すると、そこへ月の宮の使者が来たのを結界に気取り、漸は慌てて到着口へと走って行った。
貫が、隣りの出発口の方でホッとした顔をした。
「王!やっとお出ましでしょうか。」
漸は、しかしそんな貫には目もくれずに月の宮から来た侍従を見た。
「文か?主、月の宮の侍従よな。」
相手は、驚いた顔をして、頭を下げた。
「は。月の宮の文使いの役の侍従でございます。松殿より漸様への、御文のお返事をお持ち致しました。」
漸は、何度も頷いた。
「良い、これへ。」
侍従は、頷いて文箱を差し出した。
漸は、文箱を引っ手繰るように受け取ると、その場で開いて中を確認した。
中には、小さな箱に入った刀の柄に着ける根付けと、文が入っていた。
文には、挨拶が遅れた非礼への詫びと、花の礼に己が宮で教わって作ったという根付けを贈る、と書いてあった。
その文字に、漸は体がさざ波のように震えるのを感じた。
ああ…松の文字だと思うだけで、震えが来る。
漸は、己の反応に戸惑った。
こんな事は初めてだ。松が焚き染めていた香の香りもまるで松がそこに居るような気がして、その文を手放す心地にもならなかった。
小さな箱から根付けを取り出すと、それは光に透けてキラキラと光った。
紫色と白い真珠が交互についており、金属には細かい細工がしてあった。
漸は、迷いなく自分の刀の柄にそれをその場で付けると、戸惑っている侍従に言った。
「しばし待て。返事を書く。」
相手は、正月の挨拶の返礼なのに?と驚いた顔をしたが、黙って頭を下げる。
貫が、言った。
「王、いくら何でももうお出にならないと、皆様をお待たせ致します。お返事は、あちらで書いてお出しになったらどうでしょうか。」
漸は、貫を睨んだ。
「うるさい。すぐに書くゆえ、早く出たかったら墨と紙を持て!」
貫は、漸が言い出したら聞かないのは知っていたので、慌てて傍に控える伯を見た。
伯は急いで侍女に頷き掛けて、侍女は奥へと大急ぎで引っ込んで行った。
…松が焚き染めている、香だけでも手に入れたい。
漸は、それを文に書こう、と思っていた。
一方、その頃旭の離宮には皆が次々に到着していた。
覚、加栄、英の他はほぼ同時に到着したのだが、そうなったら一番最初に降りるのは維心だ。
維心は、待つという事をしなくても良い神とされていて、何でも優先されるからだった。
そんなわけで、同時に着いているにも関わらず、炎嘉達は維心の行列が降り切るまで上空で待たされることになった。
とはいえ、炎嘉は維心の次なのでまだ良い方で、そこから後となるとかなり待たねばならないので、ハッキリ言って、面倒だった。
「序列が面倒だのう。」焔が、同じく待っている志心に言った。「主は次だろう。」
志心は、炎嘉が降りて行くのを見ながら頷く。
「そうよ。仕方がないぞ、主は宮を閉じて引っ込んでおったのだからの。それが嫌なら遅れてくれば良いのだ。」と、下を見ながら続けた。「…お。だが、月の宮の軍神達はもう下に居るゆえ、蒼は一足先に着いておるようであるな。さては己の遊戯の道具が多くて、それを下ろすことを考えたのやもの。」
焔は、ぷうとむくれた。
「我も先に来ておいたら良かったわ。維心が共だと常、待たされるゆえなあ。本日は皆居るから我は最上位の中でも下っ端であるから、待つのが長い。」
志心が、苦笑しながら己の番が来て降りて行く。
箔炎が、寄って来て言った。
「こら焔。主はまだ良いのだぞ、我の後であろうが。駿やら樹伊やら高彰やらを見よ、最上位なのに。翠明たちは二番目だしもっと後であるぞ?ポッと帰って来たのにその序列なのだから、文句を言うでないわ。」
焔は、むっつりと箔炎を見た。
「主だってしばらく宮を閉じておったくせに。」と、ハッと回りを見た。「そう言えば、漸は?」
箔炎も、そうだった、と思ったのか、あちこち見た。
「…下にも居らぬな。まだ来ておらぬのではないか?」
焔は、後ろを見た。
「…まだ気配が無いぞ。あやつ、もしや迷うておるとかではないよの。共に来てやれば良かったか。旭の離宮の場所が分かるのか、あれに。」
箔炎は、うーんと眉を寄せた。
「どうであろうの。炎嘉が知らせておいたと申しておったから、知っておると思うぞ?別に今来ても降りられぬのだから、ゆっくり来れば良いのよ。」と、下を見た。「お、我ぞ。ではの、次であるのだから文句を言うでない。」
箔炎は、そう言い置いて下へと降りて行った。
焔は、そうは言われても漸が気になって、後ろばかりを見ていたのだった。
下では、維心と炎嘉がもう、輿から降りて出迎えてくれている旭と、もう到着していた蒼、覚、加栄、英と向き合っていた。
背後では、志心が輿から出て来ようとしているところだ。
それぞれの軍神達は、王達の荷物をせっせと運んで、旭の軍神に案内されて先に控えの間の方へと向かっている。
旭への礼の品は脇のそれ専用の場所へと積み上げられていて、結構な数になっていた。
まだまだ降りて来るのに、恐らくあの場所では間に合わなくなりそうだった。
「また大層に持って来てもろうて有難いのだがの、そんなに要らぬのに。」
旭が言う。
炎嘉が答えた。
「あのな、我らの宮の面子というのがあるわ。世話になるのに手ぶらで来られると思うか。文句を言うなら維心に言え、維心に!こやつが持って来すぎなのだ!」
維心が言った。
「何を言う。我が指示したのではないわ。臣下が勝手に詰めるゆえ、それを持って参っただけぞ。あれぐらい、すぐになくなるわ。消耗品ばかりぞ。どうせ酒だってここに居る間に主らが全部飲むのだろうが。」
それはそうだ。
旭も炎嘉も、それには頷いた。
そもそも、龍の宮の酒があったら、他の酒など皆、手を付けないからだ。
それだけ、質に雲泥の差があった。
蒼が、言った。
「まあまあ。オレも持って来たのはタオルなんですけど、あれは膨らむんで見た目ほど中身は入ってないんですよね。厨子が幅を利かせていて申し訳ない感じで。」
それには、旭が首を振った。
「主の宮の物は良いのだ!タオルだけは、どこでも手に入らぬからどれほど有難いか。これで雑巾のようになったタオルを使わずで済むと思うとホッとしておる。」
そんなになってるのか。
蒼は、気の毒になって言った。
「タオルぐらい、いつでも遣いを寄越してくれたら譲るゆえ言って欲しい。雑巾など、哀れに思うではないか。」
旭は、むっつりと言った。
「遠いのだ、主の所まで。だがこれからは、会合に行く時には絶対に帰る前に主の所へ寄ることにする。」
北海道だもんなあ。
蒼は思いながら、頷いた。
志心が、寄って来て言った。
「維心は荷物が多いの。大量の荷物を控室へと運んで行ったがあれは何ぞ?日に何度着替えるつもりよ。」
維心は、答えた。
「あれは遊戯のための道具とか何とか、維月が臣下に詰めさせた物なのだ。マーダーミステリーという奴らしい。」
志心は、眉を寄せた。
「何だそれは?」
また説明か、と維月が思っていると、炎嘉が言った。
「皆が集まった時に説明してくれるわ。何度も説明しておったらこれらも疲れるだろうが。」と、上を見上げた。「というか、漸は?あやつ、まだ来ぬな。」
維心も、上を見上げた。
「…確かにの。」と、首を傾げて、遠くを見る顔をした。「…ん?まだ宮を出ておらぬ。」
旭が、仰天した顔をした。
「え、そんな遠くまで見えると?」
炎嘉が、鬱陶しそうに言った。
「維心の結界があっちにあるのに見えぬはずもないだろうが。こやつは己の宮に居って北の大陸の気配を読むこともできるのだ。それだけの気を持っておる。」と、維心を見た。「漸の気配が宮にあるか?」
維心は、遠くを見たまま頷いた。
「ある。だが、一所に集まっておるような気配がするゆえ、出ようとはしておるのではないかの。」
炎嘉は、はあ?と呆れたように言った。
「何ぞ、ではあれはまだ一時間ほどは来ぬな。すっ飛ばして来たら別だが、おっとり飛んで来るだろう。全く、こういう集まりには夜明けには宮を出るものだと教えておいたら良かったわ。」
「教えたわ。」維心は言った。「恐らく、遊びであるから良いと思うておるのだろう。良いではないか、どうせ降りるのに時が掛かるのだから。」
やっと箔炎が輿から降りて来て、空からは焔の輿が降りて来ているところだった。
まだまだ、全員が降りるまで、時は掛かりそうだった。




