心
漸は、夜明けに目覚めて、準備を始めた。
臣下の挨拶はさっさと済ませ、出発しようと思ったが、ふと思い立って文を書いた。
月の宮の松にだった。
あれから、漸としては否という女神になど関わるつもりはなかったが、どうしても気になって仕方がなかった。
松は、これまでの女とは全く違っていた。
漸に寄ってくる女は多かったが、漸は誰にも興味はなかった。
だが、そういう衝動の捌け口として、見目の良い女が目に付いたら、フラッと関係を持つことはあった。
何しろ、漸が近寄って行って言い寄って来ない女などこの宮には居なかったからだ。
とはいえ、一時の衝動で相手をしただけで、一夜過ごしたらもう飽きた。
話す必要すら感じなかった。
そんな女達の中で子を宿した時は、それを漸が世話して次の王の候補として手元で育ててはいた。
女達もその後は、さっさと次の男を探してそちらと良い仲になっていたりするので、漸はそんなものだと思っていたし、特に気にも留めなかった。
それが、松は違った。
最初から、なんと淑やかな女だろうと好感は持っていた。
だが、教師という役目の女にそれ以上は求めないでいようと、淡々と接していた。
それでももし松が言い寄って来たら、応じようと考えていた。
何しろ松の動きは品があり、話し方もおっとりと、言葉も美しい。
か弱いとはいえそこそこの気を持っていて、それは恐らく皇女だからだろうと思われた。
…こんな女ならば、世話をしても良いかもしれぬ。
漸は、いつしかそう思うようになった。
話せば話すほどに、松は頭も良くこちらを気遣う言葉を掛けてくれて、何事も出過ぎる事がなく心地良い。
遂には、特に用もないのにわざわざ会う口実まで作って月の宮へと通ったが、松はその控えめな性質からか、言い寄って来ることはなかった。
どうあっても松に己の子を産んでもらいたい、と漸は思い詰めるまでになっていた。
そして、堪らずこちらから言い寄る事にしたのだ。
だが、松は一筋縄では行かなかった。
婚姻という取り決めがないのなら、漸と情を交わすことはできない、とハッキリ断られたのだ。
断られるなど経験がなかった漸は、どうしたら良いのか分からず、その場を去った。
これまでなら、そんな女など放って置くところだった。
だが、漸の心には松が深く食い込んでいて、今さら思い切ろうと思っても、そうする度に胸が何やら痛くなり、とても諦められなかった。
…いっそ、あちらでは合法なのだから略奪に向かおうか。
漸はそこまで思い詰めたが、しかし生まれてこの方そんな乱暴な事は悪だとして生きて来た漸には、どうしてもそんなことはできなかった。
なので悶々としたまま正月を迎えてしまったのだ。
…文など書いても、否と返事も来ないやも知れぬ。
漸は思ったが、しかし正月の挨拶を理由になら、おかしくないかも知れない。
漸は、そう思って精一杯疎ましく思われないように文言を考えて、庭の花を添えて松へと文を送ったのだった。
松は、蒼が飛び立った月の宮で、比呂と共におっとりと自分の屋敷で正月を過ごしていた。
比呂は、それでも訓練場へ行きたいようで、正月から他の小さな軍神予備軍達は、訓練場に集まって、嘉翔に特別に相手をしてもらえるのだと朝からごねている。
松は、仕方なく比呂を連れて、コロシアムへと向かった。
月の結界の中では保護者など要らないのだが、それでも母親なのだから比呂の事は心配だった。
到着すると、比呂が言っていた通りにもう、多くの子供達が集まっていて、それでももう、幼い姿ではなく少年に成長した者達ばかりだった。
比呂も、立派に育って来ていたので、それらの方へとさっさと飛んで行ってしまい、松には帰っていて良い、とまで言って、もうこちらを見向きもしない。
母親が共だと恥ずかしい歳になったのか、と思うと松は寂しい心地だったが、それも成長だと自分は学校の執務室の方へと向かう事にした。
何しろ、年末の長い休みの間、一度もそちらへ足を踏み入れていなかったからだ。
比呂たちが嘉翔に相手をされて木刀を打ち合う音が聴こえて来る中、松は学校へと向かった。
すると、長い廊下のところで、裕馬がちょうど部屋から出て来たところで、松に気付いて、言った。
「松?なんだ、今日は誰も来てないぞ?休みの時はしっかり休めばいいのに。」
松は、苦笑した。
「いえ、比呂がどうしてもコロシアムで鍛錬をと申すので連れて参ったのですが、もう帰れと申すので。そろそろ難しい年ごろになりましたのかしら。」
裕馬は、ハハと笑った。
「男は格好つけたがるからな。いつまでも母親がついて来てたら皆の手前恥ずかしいんだろう。いつの時代もそうだよ。オレだってそうだった。」と、ため息をついた。「そうだ、文が来てたぞ。正月の挨拶みたいだったから、まとめて執務室の机の上に置いておいた。ちょうど良かったかもしれない。」
松は、驚いた顔をした。
「え、我にですの?楢かしら。」
そういえば、楢は毎年、松が月の宮に落ち着いたと聞いてから、正月の挨拶はくれる。
だが、樹伊に嫁いだと聞いたので、それも無くなるかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
裕馬は、頷いた。
「多分な。軍神達が来た文をあっちこっちに配って回ってるから、松の所にも持って来たんだ。屋敷まで持って行けば良かったんだけど、年賀状だから急がないかと思って。」
松は、頷いた。
「はい。暇を持て余しておりましたので、確認致しますわ。ありがとうございます。」
裕馬は、頷いて廊下を歩いて去って行った。
松は、自分の執務室へと入って、その机の上を確認することにした。
机の上には、裕馬が言ったように文が入っているだろう、文箱が二つ、置いてあった。
楢からの文は常に花などの茎に結んであったものだが、今回は王妃になったのもあって、正式に文箱に入れて送って来たのだろうと思われた。
だが、もう一つは誰だろう?
松は、思いながら文箱を開いて、見た。
すると、一つは楢からで、美しい頚連が共に入っていて、どうやら正月の装いにと気を遣ってくれたようだった。
文の内容は正月の挨拶で、松は頬を弛めた。
楢とは、宮を出てから一度も会っていないが、こうして文だけは取り交わしている。
樹伊の宮で、どうやらうまくやっているようだった。
もう片方は誰からかと開いて見ると、美しい花に埋もれて、これまた美しい和紙を使って、実直な様が伝わって来る見慣れた筆致の、文が入っていた。
…漸様?
松は、急いで中を開いた。
漸は、昨年の松の犬神へと貢献の労いと、今年の滞りない務めを願って、また静かに語らえたらと願う、と書いて来ていた。
…あんな風にお断りをしたのに。
松は、漸の誠実さに胸を痛めた。
これが、こちらの王の事ならば、己などで良いなら嫁ぐ未来もあったと思う。
何しろ、漸は他の王達のように強引な様もなく、こちらを気遣う慕わしい性質の王だったからだ。
だが、婚姻という形を取らない常識の中で生きて来た漸とは、結局は未来永劫傍に居る事も敵わない。
いつか捨てられる未来を思うと、どうしても踏み切れることでは無かった。
…こうして、少し離れて友として文を取り交わしたりするだけで良い。
松は、そう思った。
そして、こちらには急いで返事を書かなければと、すぐにその場で筆を取って、友として漸へと返事をしたためたのだった。




