教育の始まり
そんなわけで、結局漸はその日から、しばらく伯や貫達臣下と共に、月の宮に滞在することになった。
偶数序列の軍神達は、先に返礼品を持って宮へと帰って行ったが、漸は残って宮の貴賓室に泊まり、毎日そこへ出張して来る教師の松について、こちらの事を学ぶことになった。
蒼は、これはあくまでもお互いに知り合うための手段であって、こちらの習慣に染まれと言っているのではないことを、皆にしっかりと話した。
これから交流するにあたり、どうあってもこのままでは軋轢が生じるので、それが少しでも緩和されるように、お互いに学ぼうという事になったのだ。
なので、蒼は時間が空いたら、漸と松の講義に同席して、漸の宮ではどうなのか、価値観の違いがどこにあるのかを、共に学んだ。
そして、それを裕馬に語って聞かせ、きちんとまとめさせて冊子を作らせた。
あちらはあちらで、受け継がれて来た礼儀や習慣、それに歴史があって、それをこちらが理解して、その上で教えるのが重要だと考えたからだ。
蒼の指示で作られた、犬神の宮読本礼儀版、習慣版、歴史版は教師達にしっかり配られて、全員が集まってそれを学び、理解を深めようとした。
月の宮は、なので犬神の宮の一番の理解者となったのだ。
今日も、漸は教科書を前に、松と話していた。
いつもは同席していた蒼も、今日はどうしても外せない会合があると言って、来ていなかった。
漸は、ため息をついた。
「…もう、そろそろ分かって参ったかもしれぬ。こちらはあまり、お互いの姿を凝視したりしてはならぬのだの。あちらはでは、そういうことを咎めたり無いゆえ…まあ、確かにこちらの婚姻制度とやらの縛りがあったら、相手に己の妃というものをそんな風に見られたらイライラするやもしれぬ。気を付けねば。」
松は、袖で口を押えて微笑んだ。
「我もそちらの習慣を学んで知っておるので、漸様がいろいろ仰るのを理解できるようになって参りました。全て基本的な習慣を理解してしまえば、後はその視点に立って見てみれば理解できるものだと思います。漸様も、その域に達しられたということでしょうか。」
漸は、神妙な顔で頷く。
「その通りよな。今さらに間違っているとは思わないので変えようとは考えておらぬが、それでもお互いの価値観だけは知っておかねば面倒な事になる。そんな事で、仲違いなどしたくないからの。」
松は、頷いて答えた。
「はい。ですが漸様は大変に励まれたので、もうお教えすることはありませぬわ。もう、何度も宮に様子を見に戻る必要がありませぬから、良かったですわね。後は臣下の皆様のご様子でしょうか。」
漸は、頷いた。
「思うた通り、伯と貫はいち早く終わって宮へと先に戻っておるし、残りの者達ももう終わりそうだと裕馬に聞いておる。我はそれを待って、それらと帰ろうかの。」と、松を見た。「それにしても、主は王族であったと聞いておるのに。なぜにここに?」
松は、ふと黙った。
これまでも、漸は何度か松の素性を聞こうとしたことがあったのだが、蒼が同席していたので、その度に上手くはぐらかしてくれて、話さずに済んだ。
だが、今は蒼は居ない。
松は、己の王ではないが、最上位の宮として神世に認められた宮の王である漸に、答えないわけにはいかないと、覚悟をした。
漸は、松の顔色を見て気取ったのか、続けた。
「…言いたくなければ言わずで良い。ここには事情がある神が多いと蒼が言うておったしの。主は王の娘でありながらそれほど大きな気でもないし、他のこちらの女神達と同じで誰かに守ってもらわねば生きては行けぬのであるよな?父王が主を手放しておるのも、なので我には理解できぬのだが…何か重い理由であるなら、深くは聞かぬ。」
松は、漸が分からないながらも理解しようとしているのを見て、ため息をついて首を振った。
そして、言った。
「漸様には、我に夫が居らぬのに子が居るのをご存知でありますわね。」
漸は、頷いた。
「知っておる。だが、我らの方では普通での。そもそも夫という概念が無いゆえ。」
松は、そうだろうな、と頷いた。
「はい。ですが、そちらと違う所は、我は望んで相手との子を身籠ったのではありませぬ。」漸が驚いていると、松は気が進まないながら続けた。「漸様が仰るように、我らはか弱いので。外へフラフラと出て参った我は、はぐれの神に囚われてしまいましたの。その折暴行を受けて、父の軍神がすぐに見つけて相手を斬り捨ててくれましたが既に身籠っておりました。父は我を恥じとして、我と子を奥に隠して幽閉状態でありました。それを、蒼様がこちらへ引き取ろうと助け出してくださいましたの。なので、我は皇女として育ちましたが、こちらで臣下としてお仕えしておるのですわ。」
漸は、ふーんと聞いていた。
「恥か。何が恥なのか分からぬのだが、主の父は娘を守れなんだのは己のせいであるのに、恥とか申すのか。主も、己が弱いゆえ甘んじておったと?子が哀れではないか。」
確かにその通りだが、松は言った。
「ゆえ、月に向かって申しました。我は良いのですが、子が育って参るのに監禁されたままでは哀れであるからと。幸い、十六夜様が聞いておってくださって、蒼様がこちらへ引き取ると、父に申し出てくれましたの。なので今は、子を養うために蒼様にお仕えしてこうして務めておりまする。」
漸は、頷いた。
「そうか。まあ我からしたら、主の父が愚かと思う。大した事でもないのに恥とか申すのにもの。主は大変にできた女神ではないか。こんなに優雅に動ける女は、我が宮の侍女の中にも居らぬし、我の母違いの姉妹達も、主を前にすると皆ガサツに思う。こちらの王族の女とは、か弱いが確かに守る価値のある品のある者が多いのかの。」
松は、顔を赤くした。
そんな風に思って、こちらを見ているとは思ってもいなかったのだ。
「まあ…我など…もっと上位の皇女達ならば、それは美しく淑やかでありますわ。」
漸は、それでも首を振った。
「いいや。維心や炎嘉の宮にも行ったし、こちらの宮でもたくさんの女を見たが、主は際立って美しいし動きがそれは品の良い様ぞ。言葉も心地良いものを選ぶ。こちらの価値観は習ったし理解しておるが、我の考えは変わらぬ。主が誰の子を産んでおったとしても、主自身の価値は主自身が体現して参るそれぞ。誰を通わせたとか、そんなもので変わるものではない。と、我は思う。もっと自信を持って良いと思うぞ。」
松は、漸が大真面目な顔でそんなことを言うので、それこそ耳まで真っ赤になって、うつむいた。
「あの…我などに、そのように仰ってくださって嬉しい限りでありますが、我は父の下に戻りたいとは思うておりませぬし…今は、子を育てて幸福でありますので。蒼様は我を恥じなどとおっしゃったこともありませぬから、あの方にお仕えして満足でありまする。」
漸は、頷いた。
「蒼か…。主は、蒼のような男を通わせたいと思うか?」
松は、え、と仰天したが、慌てて言った。
「なりませぬわ、漸様。そのような事を安易に訊ねてしもうては。失礼を言われてしまいまする。」
漸は、また頷く。
「分かっておる。だが、聞いておきたいと思うたから敢えて申したのよ。」
松は、眉を寄せた。
「聞いておきたいのですか?…では、申しますが本来はお答えすることはないので、そこはお外では弁えてくださいませね。」松は、念を押して、漸は生徒なのだからと己に言い聞かせて続けた。「まず、我は蒼様にそのような気持ちを持つ事はありませぬ。王であられるのですし、蒼様は安易に妃を娶らないお方。助けてくださったからと、その優しさを好意と勘違いする女神を何人も見ておりますが、皆相手にもされておりませんでした。我は、ご尊敬致しておりますが、そのような気持ちを持ってはおりませぬ。」
漸は、イライラしたように言った。
「それは知っておる。我が聞いておるのは、蒼のような男が好みなのかということぞ。」
松は、どうしてイライラしておるのかしら、と思ったが、なだめるためにも答えた。
「どうでしょうか。まだ誰かをお慕いしたこともありませぬから、分かりませぬ。もし誰かを慕わしいと思う時がありましたら、そのかたが我の好みなのだろうと分かるのでしょうけれど。」
漸は、求めていた答えだったのか、ふんふんと頷いた。
「そうか。」
松は、顔をしかめた。
漸が何を考えているのか、本当に分からないのだ。
そこへ、蒼が急いだ様子で入って来た。
「松、一人にして悪かったの。」と、漸を見た。「漸、松を困らせておらぬか?主、時々困った質問をするゆえ。」
漸は、蒼を睨むように見た。
「だから常、割り込むのか。我だって弁えておるわ。だが、分かっておっても聞きたいことはある。だから聞くだけぞ。」
まだ歳若い顔に見えるが、漸は駄々っ子のようだ。
蒼は、言った。
「主、今生幾つなのよ。まるで子供のようぞ?」
漸は、言った。
「とっくに成人しておる。260ぞ。」
松が、え、という顔をした。
「まあ。もっとお年上かと思うておりました。王であられるから思慮深い所もおありなのですもの。それは、こちらの常識とかには疎くていらっしゃいましたけれど。まさか我と同じお歳であったとは。」
漸は、松を見た。
「誠か。主も同じ?」
松は、頷く。
「はい。」
同い年でこの様子か。
漸は思っていたが、蒼は言った。
「こら。松の事など良いだろうが、学びは終わったのか?もう本日には終わりそうだと松から聞いておったが、分かったのだろうの。」
漸は、頷いた。
「分かった。もう理解したぞ。」
蒼は、ため息をついた。
「だったらそれに則して振る舞うようにせねば。確かにここでは誰も咎めぬが、外では普段からそのように振る舞うようにしておかねば、ポロッと面倒なことを言うてしもうたりしてそれが大問題になるのだぞ。親しき仲にもと申すし、普段から気を付けよ。維心様は維月に関わるとおひとが変わるから大騒ぎになるぞ。分かったの。」
漸は、ため息をついて頷いた。
「分かった。あやつが怒ったら宮が無くなる。昔から、あれが囲っておる女には誰も手を出さなんだ。問題ない。」
分かっているならいいけど。
蒼は思ったが、漸はじっと松を見ていて、困惑していた。
何しろ、そんな事は一言も言わないが、漸が松を気に入っているような気がするのだ。
あくまで蒼の勘であって、漸はそんな素振りも見せないし、松に忍ぼうとか、そんなことも全く無いのだが、何しろよく松を見ている。
松に一度聞いてみると、どうやら漸の宮の女とは、気の色から動きも言葉も全く違うらしく、それが珍しいと言っていたそうだ。
珍しいからとずっと見ているなんて、まるで子供だと思いながら、蒼はそれでも漸の教育がやっと終わったのだと、ホッとしたのだった。




