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挨拶

樹佐は、貞士を後ろにしっかりと背筋を伸ばして入って来て、その後ろには大居他臣下がぞろぞろとついて入って来た。

そして、樹伊の前まで来ると、頭を下げた。

樹伊は驚いた。

前までの樹佐なら、跳んで来て膝の上にでも乗って来ただろうからだ。

だが、返礼しながら言った。

「樹佐。よう戻ったの。」

樹佐は、顔を上げた。

「父上には、ご挨拶もなくご無沙汰してしまいました。我は、あちらで不勉強な己を恥じて、書で己で学んでおりました。父上が、常きちんとせねばとおっしゃっていたので。」

樹伊は、そんな樹佐をまじまじと見つめた。

臣下達も、ただただ驚いて見ている。

樹伊は、答えた。

「良い、主にはどうしようもなかったことであるし、あちらで学んで参ったのだな。僅かの間に別の神を見るようぞ。文言など、全て書でか?」

樹佐は、頷く。

「…もう、帰れないかもしれぬと思うて。でも、帰れる時のために、書で父上に何とご挨拶しようか考えました。我は愚かだった。遊んでばかりで。」

樹伊は、首を振った。

「何を言う。我とて主ぐらいの時は遊んでばかりであったわ。だがの、早う始めておいた方が主が楽だと思うて言うておったのよ。そのように急がずでも、主はそのように幼いのにきちんと挨拶ができた。己で考えてな。我より優秀であるぞ、樹佐。」

樹佐は、パアッと顔を明るくした。

「誠に?我は父上のようになれますか。」

樹伊は、笑った。

「主ならなれる。」と、手を差し出した。「これへ。」

樹佐は、少し躊躇った顔をしたが、すぐに寄って来て樹伊に抱き上げられた。

そしてその膝に乗せられると、今気付いたかのように隣りの楢を見た。

「わあ。綺麗なかたですね。」

楢が驚いた顔をして、そしてフフフと笑う。

樹伊が、言った。

「こら。そのように申すのは不躾なのだぞ?」樹佐がバツが悪そうな顔をしたが、樹伊は笑った。「良い。これは、父の正妃として宮に新しく入った楢ぞ。これから、主に礼儀などの教育をしてくれる。つまりは楢は、主の母となるのだ。難しいやも知れぬが、主の母と思うての。」

樹佐は、戸惑いながらも頷く。

楢は、言った。

「樹佐様、楢でございます。お会いできるのを楽しみにしておりました。いきなりに母とは難しいことと思いますゆえ、無理をなさらず名で呼んでくださっても良いのですよ。」

楢からは、おかしな感情など欠片も感じない。

本当に、歓迎してくれているようだった。

「はい。あの、でも父上がそうおっしゃるのなら…母上とお呼び致します。」

楢は、樹佐がとても無理をしているように見えて、みるみる涙ぐんだ。

「まあ…なんと賢しいお子であること。」と、樹佐の手を握った。「では樹佐様、母はお利口な樹佐様のために我の実家より珍しい菓子を取り寄せておきましたの。奥で戴きましょう。」

樹佐は、途端に明るい顔になった。

「わあ!菓子ですか?」と、樹伊を見た。「父上、行って参って良いですか?」

樹伊は、苦笑して頷いた。

「行って参れ。」と、楢を見た。「頼んだぞ。」

そうして樹佐を床に下ろすと、楢は立ち上がって、樹佐の手を握って二人で仲良く出て行った。

それを見送って、大居が言った。

「誠に見違えるほどにしっかりとおなりに。まさかあれほどに幼いのに、あのような口上をお考えになられるとは。」

樹伊は、頷いた。

「哀れであるが、我に捨てられたと思うたのだろうの。こちらを恨んでもおかしくないのに、あれは己が愚かだからと考えたのだ。あのように幼いのに…気を遣わせてしもうたわ。」

大居は、何度も頷いた。

「楢様にもお子様がお好きなかたなので。上手くおやりになると思うと、ホッとした心地でございます。」

樹伊は、言った。

「…あれはやはり賢しい。幼い頃に苦労をしたら、自覚が早まるとは聞いておったがあれがそうよ。いきなり新しい母だと言われてハイとは言えぬと思うたが、立場を理解しておるからああ申すのだ。これからが楽しみぞ。やはりあれを我の跡にと考えたのは間違いではないようよ。」

貞士が、頷いた。

「は。我には前から立ち合いを教わりたいと仰られて時々庭で戯れておりましたが、お迎えに参った時にもすぐに学びたいと仰って。意欲がおありのようで、我も楽しみに思うております。」

樹伊は、頷く。

「とにかく、樹佐は戻った。寧のことは何か申しておったか?甲斐殿は、寧のことには何も触れておらなんだが。」

貞士は、神妙な顔をした。

「いえ…。ですが、奥から微かに泣き声は聴こえておりました。いらっしゃる事は確かなのですが。」

乳母も返すと言われている。

何しろこちらの臣下なので、いつまでも余所に置くわけには行かないのだ。

そこの宮に入れば、そこの宮が世話をするのは当然なので、ちょっと遊びに来たならいざ知らず、長期となるとさすがに甲斐には養い切れない。

今の甲斐には、あまり力がないのだ。

なので引き取ったが、そうなると玉貴は育てられるのだろうか。

寧はそれでなくともよく泣く子で、乳母も交代で見ていた時があったぐらいだ。

つまりは、もっと小さな時は乳母が二人居たのだ。

本来、妃と二人でやるが、玉貴にそれができないからだった。

案じられるが、皇女のことはこちらも様子を聞くぐらいしかできない。

樹伊は、またそれとなく会合の時にでも甲斐に聞いてみようと思っていたのだった。


それから、樹佐は楢に世話をされてそれは楽しげに毎日過ごしていた。

乳母も、こちらがやることがないぐらいにお世話をしてくださるので、大変に助かると樹伊にわざわざ言いに来るぐらいだ。

楢はしょっちゅう樹佐を連れて庭などに出ており、大層可愛がっていた。

そして、その度にどのように歩くのか、皇子とはどう振る舞うべきなのか、それとなく教えているようだった。

お陰で樹佐は楢に懐いて、母上母上と、よく袖を引いて話し掛けている。

楢もそれは楽しそうにしていた。

なさぬ仲の子をあれだけ可愛がれるのだから、己の子ならもっとだろうなと樹伊は思って眺めていた。


一方、玉貴はと言うと、やはり憔悴し切っていた。

見かねて甲斐の妃で玉貴の母である幸貴(こうき)がやって来て、手助けはするものの、やはり幸貴は歳なので、すぐに疲れてしまい、ついには寝込んでしまった。

甲斐は慌てて幸貴を奥へと戻して、玉貴に子供ぐらい己で育てよと叱責した。

とはいえ、これまでして来なかったのだからできるはずもなく、一時的に幸貴の侍女が一人、玉貴の補佐につくように手配し、寝込んだ幸貴の世話には甲斐の侍女も駆り出されて行くことになり、大騒ぎになっていた。

兄の貴理の妃である佳奈(かな)は己の子の子育てで忙しいのでそこまで手が回らない。

何しろ佳奈には、皇子二人に皇女が二人の、合計四人を一人で面倒を見ているのだ。

侍女も手伝っているとはいえ、そう考えると佳奈はかなり頑張っている妃だった。

甲斐は、今さらにそう感じて佳奈を労い、特別に多めに公明から送られた布で着物を幾つか仕立ててやった。

佳奈は戸惑いながらも喜んでいたということだ。

貴理は、その礼を言いに父の居間を訪れていた。

「父上。この度は佳奈に特別な温情を賜りましてありがとうございます。佳奈は驚いておりましたが、今は大変に喜んでおって…奥には全て衣桁に掛けられて並べてあるので、まるで衣装部屋のようであります。眺めていたいと申しまして。」

甲斐は、苦笑した。

「あれには文句も言わず苦労させておるからの。四人もよう育てておるわ。今さらであるが、少しは気晴らしになればと思うて。それにしても飾っておっては役に立たぬではないか。少しは着てみぬとの。」

貴理は、苦笑し返した。

「父上、子達があちこち引っ張るので、着ておったら着物に傷がつくのですよ。ゆえにあれは眺めて喜んでおるのです。そのうちに育ってそんなこともせぬだろうと、佳奈も弁えてそれを待って袖を通すつもりのようです。」

誠にできた妃よ。

甲斐は、思った。

同じ公明傘下の宮から娶ったが、苦労しているのか倹約家で賢く、もったいないほど良い妃だった。

しかもそこそこ美しく、貴理もこちらから選んで婚姻させたのに、気に入って大切にしている。

佳奈はよく立ち働き、不満一つも言わない、良い妃なのだ。

「…主は良い妃を娶ったの。大切にしてやるが良い。」

貴理は、笑った。

「父上が探して来られましたのに。」と、息をついた。「…玉貴でありしょう?あれが難儀しておると。」

甲斐は、仕方なく頷く。

「そうなのだ。甘やかせ過ぎたせいで何も知らぬ上、樹伊のような恵まれた王に嫁いだばかりに誠に何もできぬのだ。」

貴理は、頷いた。

「さもありましょう。佳奈が見かねてあと一人ぐらい何とかするのでこちらでお世話をしましょうかと言うてくれましたが、それでは玉貴の学びにならぬし。これからのためにも、あれは学ばねばなりませぬ。離縁となった今、次は他の傘下の王か、軍神に嫁ぐ事になりましょうし、そうなった時に何もできぬとまた肩身の狭い事に。」

甲斐は、驚いた顔をした。

貴理は、玉貴を外へ出すつもりなのか。

「…主は、あれを他へ嫁がせるつもりなのか?」

貴理は、逆に驚いた顔をした。

「え?まだ三百手前の歳であるのに、外へ嫁がせぬのですか?終生この宮に居って、あれは何をするのです?」

甲斐は、そうかまだ甘かったのだ、と悟った。

甲斐は、玉貴があんな風なので、もう二夫にまみえるのは無理だろうと考えた。

だが、それも甘やかしであった。

確かに貴理が言うように、何もせずここに残る未来はないし、今の玉貴の様子では、何の宮の役にも立っていない。

このままでは、貴理の代になったらまた、玉貴は肩身の狭い思いをしなければならなくなるだろう。

何しろ佳奈があれほどよく働くのだ。

そんなことに、やっと気付いたのだ。

「…確かにの。あれはやはり、今一度しっかりと躾直してどちらかに嫁ぐのが幸福への道。だが…今は寧ぞ。あれがせめて己でいろいろできるまで、それができぬ。」

貴理は、頷いた。

「はい。やはり、樹伊殿にお任せするべきではと思うのですよ。あちらに居た方がしっかりした教育が受けられまするし、何より嫁ぎ先も良い場所が見込まれましょう。こちらではそれも叶わない。子供に子供は育てられませぬから。父上にも、玉貴にそのように申してみてはいかがでしょうか。酷なことではありますが、まずは玉貴自身の身の安定でありますから。何なら佳奈に教えさせても良いですし。あれは誠に何事もよう学んでおって安心して任せられますし。」

甲斐は、頷きながら考えていた。

樹伊からは、寧の様子を訊ねる文が甲斐に時々来ているのだが、ハッキリ現状を伝えられていなかった。

真剣に考えた方が、良いのかも知れなかった。


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