帰還
玉貴が泣きながら侍女に教わって寧を着替えさせると、寧はケロッと泣き止んだ。
どうやら、着物が乱れて来て帯の端が内に入り込み、それが擦れて泣いていたようだった。
…我でもわかるのに。
甲斐は、眉を寄せた。
玉貴はよれよれになりながら、どうにか泣き止んだ寧を子供用の可動式の寝台に下ろして、椅子に崩れた。
甲斐は、言った。
「此度はそんなために来たのではない。」甲斐は、言った。「樹伊がこちらの申し出の通り、樹佐を引き取ると言うて来た。我から主の事は引き取ると申し入れたので、正式に離縁の手続きをする事に同意しておる。早速本日迎えが来るので、連れて帰らせるつもりよ。」
玉貴は、甲斐にすがるような目で言った。
「お父様、あちらに帰る事はできぬでしょうか。もう、他に妃がなど申しませぬ。我には寧の世話などできませぬ…あちらへ帰れば、乳母がやってくれるはずですし、我はあちらで我慢致します。」
甲斐は、ため息をついて首を振った。
「だからもう遅いのよ。己が不出来なのは、努力次第でなんとでもなったのに、主はそれをしなかった。あちらへ帰れば、楢という妃はかなりできる妃であるようだし、比べられてこれまで通りとは行かぬぞ。何事も正妃が優先される世の中であるし、主に控えめになどできぬのか。つらい思いをするのは目に見えておるのに、我は主にそんな思いまでさせたくはない。主をきちんと育てなかったのは我の責。のびのびとは聞こえが良いが、好き放題やって許されるのは下位の中だけなのだ。上位は豊かであるからこそ、制約も多いもの。あの宮に居たかったら、励まねばならなかったのよ。今では…取り返しがつかぬ。」
玉貴は、涙を流した。
寧の世話はできそうにない。何しろ辛すぎるのだ。
まさか子育てが、ここまで辛いとは思わなかった。
夜中に泣き声が聞こえても、乳母は何をやっていると腹を立てていた自分が愚かだったと思えた。
そう、やっと分かったのだ。
「…我には無理です…お母様を、お呼びいただけませぬか。お母様にお手伝い頂いて…。」
甲斐は、またため息をついた。
「確かに母も手伝いはする。だが、育てるのは主ぞ。母だって、近年体が弱って公の場に出て来ぬようになっておるのに、今更に赤子の世話などで命を縮めるつもりか。あくまでも、育てるのは主なのだ。自覚をせぬか。主は寧の母なのだぞ?名ばかりではならぬ。しっかりと名実共に母として、寧を育て上げるのだ。そうすることで、主も成長できるだろう。」
玉貴は、泣き崩れた。
どうにも、娘が抜けない。
甲斐は、困ったように考え込んだ。
寧は、この母に育てられたら逆にしっかりと己で何とかして生きねばという子に育つような気もするが、しかしそれで良いのだろうか。
逆にまともに育たたない可能性もあるのだ。
「…どうしても己で育てられぬと申すのなら、樹伊に返すが良い。そうしたら、恐らく楢が育ててくれるだろう。あちらの宮なら乳母もつくしの。しかし、己で育てると申したのだから、出来る限りはやってみよ。玉貴よ、このままでは主は、一生そのままであるぞ。父も母も、もうそろそろ黄泉も近くなって来ておるのに。兄には兄の妃が居るし、ここは主にとり、何もせずとも生きて行ける場ではなくなる。いくら兄が妹思いでも、公務ぐらいはこなす妹でなければしっかり見てはくれぬぞ。大きな宮のように、何事にも不足のない場所ではないのだからの。主は、己の足で立てるようにせねばならぬ。もう子供ではないのだ。」
もっと早くに、こう言って諭しておくべきだった。
甲斐は悔いたが何もかももう遅い。
だが、玉貴はここから己を省みて考えねばならぬのだ。
寧は、入れられた寝台の上に座って、甲斐を見てまだ、涙の筋が残る顔で微笑んだ。
甲斐は、そんな寧の頬を己の袖でごしごしと拭いてやり、こんなことすら気が付かないような母親に、これから寧が育てられて果たして幸福なのかと、困っていたのだった。
樹伊からの使者は、すぐに到着してあちらの筆頭軍神の貞士だった。
貞士は、甲斐に深々と頭を下げると、言った。
「我が王樹伊様の命により、樹佐様をお迎えに上がりました。」
樹佐が、甲斐の後ろから嬉しそうに跳ねて出て来た。
「貞士!主が我を迎えに来てくれたのか?」
貞士は、思わず顔をほころばせると、言った。
「はい、樹佐様。王がお待ちであります。宮へお戻りに。」
樹佐は、頷いて言った。
「また主に立ち合いを教わらねば。ここでは危ないと言われて木刀すら持たせてくれぬのだ。」
確かにまだ赤子から少し大きくなっただけだしな。
甲斐は思ったが、どうやら貞士は違うようで、膝をついて頷いた。
「ならば戻ればまた、お相手致しましょう。ですが、まずは父王にご挨拶を。よろしいですか?」
樹佐は、頷いた。
「分かっておる。我は学んでおるのだ。」
貞士は、少し驚いた顔をしたが、微笑んで頷いた。
「は。樹佐様は大変に優秀なかたですので。」
樹佐は、嬉しそうに貞士を見る。
どうやら、臣下の中でも貞士は樹佐を可愛がっていた方だったようだ。
だからこそ、樹伊は貞士を迎えに来させたし、そうして筆頭軍神が迎えに行くことで、臣下を黙らせようとしているのだろうと思われた。
「では、樹佐様、輿へお進みくださいませ。」と、甲斐を見た。「甲斐様、王が長い間面倒を見てくださり申し訳ないとの事、あちらに感謝の品をお預かりしてお持ち致しました。」
甲斐は、そちらを見た。
大きな厨子が数個、並んでいる所を見ると、玉貴を離縁することでこれを最後に、何か品をと送ってくれたのだろうと思われた。
甲斐は、頷く。
「またこちらから礼を申しておく。孫をよろしく頼む。」
貞士は頭を下げると、樹佐を抱き上げて輿へと乗せた。
樹佐は、あ、という顔をして、入り口で振り返って言った。
「お祖父様!ありがとうございました、またお話したいです。」
甲斐は、苦笑した。
「良い。また参れ。」
樹佐は微笑んで、そうして輿の中へと消えて行った。
「ご出発!」
貞士が叫び、そうしてその樹佐一人には大きすぎる輿は、樹佐とその乳母、そして寧の乳母の三人だけを乗せて、空へと飛び立って行ったのだった。
樹伊は、じっと樹佐が戻るのを待っていた。
あれから、臣下達は一斉に静かになり、陰口すら叩くのを聞くことは無くなった。
どうやら、大居に叱責したのを皆が伝え聞いて、恐れているらしかった。
あの後、やはり父の樹藤に話しに行ったようだが、父には当然だと突っぱねられたらしい。
むしろ、樹伊がやっと王らしくなったと喜んでいたらしかった。
居間で楢を横にじっと黙っていると、楢が言った。
「誠に楽しみでありますこと。」と、微笑んで言った。「樹佐様とは、仲良くして行きたいと思うておりますの。兄に子が居るので、宮でもよう遊び相手をしておったのです。あれらが恋しい時がありましたが、樹佐様がお戻りになられたらどれほどに楽しいことでしょう。」
確かに、まだ婚姻関係になっていない頃、あちらの宮へと何度も足を運んでは楢と交流していたが、その折にも、不意に回廊の端から子達が飛び出して来て、楢の着物の裾に飛びついて来て、遊びに誘って来たことが何度もあった。
すぐに兄の妃の侍女がそれを見咎めて頭を下げ、急いで連れて戻っていたが、あの様子では子になつかれているのだから相当相手になっていたと思われる。
樹伊は、そんな楢に苦笑した。
「主は…。こちらは、母の違う子を主に押し付けると案じておったのに。その様子ではあれが戻ったら我など二の次になりそうだの。何やら、菓子やら着物やらを準備させておるそうではないか。」
楢は、フフフと袖で口を押えて笑うと、樹伊を見た。
「まあ。務めを疎かに致しませぬわ。王が一番にお仕えするかたなのは弁えておりますから。でも、樹佐様はとても王に似ていらっしゃるお可愛らしい皇子だと聞いておりますわ。誠に楽しみでなりませぬの。」
楢は、本当に父王に守られて箱入りで育ったのだな。
樹伊は、そんな楢を見て、そう思った。
思えば、姉の松があんなことになったのもあって、父の渡も楢だけはと必死に守ったのだろう。
恐らく己を傷つける存在が居るなど、思いもしないのだろう。
後宮争いなどには、絶対に巻き込みたくない様子の皇女だった。
…これで良かったのかもしれない。
樹伊は、思った。
玉貴も、こんな楢を前にどうしたら良いのか難しいだろうし、楢も玉貴に恨まれてはどうしたら良いのか分からなかっただろう。
そんな中で、樹佐が貞士に連れられて、居間へと入って来たのだった。




