甘え
玉貴は、鬱々と毎日を過ごしていた。
父は、何やら話があるので中央の宮へ行って来ると出掛けたらしい。
玉貴は、自分は散策をする気持ちになれないのに、とため息をついた。
娘の寧はまだ赤子で、それを乳母に世話させながら、皇子の樹伊が宮にある書を見ながら手習いしているのを、眺めていた。
樹佐は、樹伊の血なのだろうが、母親の自分が驚くほど賢い。
あちらの宮に居た頃は、礼儀だなんだと言われるのに面倒そうに庭を駆け回ってばかりだったのに、ここへ戻ってしばらくしてから、急に子供ながら険しい顔をし始めたかと思うと、書を持って来させていろいろ学ぶようになった。
どうして急に、と言うと、父上が常、そのままではならぬと仰っていたから、と答えた。
どうやら樹佐は、あちらの宮にもう、戻れないかもしれないと思い始めているようだった。
最初は頻繁に来ていた樹伊も、何度も玉貴が帰らないと断っていると、最近では全く来なくなった。
どうやら、楢という皇女が宮に入ったようだった。
里へ帰ってまで抗議したのに、玉貴がやったことは功を奏さなかったということだ。
…もう、ダメかもしれない。
玉貴は、そう思って暗く沈んでいた。
そこへ、父の甲斐がやって来た。
玉貴が、もう帰って来たのか、と顔を上げると、甲斐は言った。
「…父が来たらどうするのだ。」
側の机で手習いしていた樹佐は、サッと椅子から飛び降りて頭をぴょこんと下げた。
玉貴は、億劫そうに言った。
「…そんな気持ちになれぬのですわ、お父様。どうやら樹伊様には楢という妃が入られたご様子…。」
甲斐は、ため息をついた。
こういう風に育てたのは我だ。
だが、敢えて心を鬼にして、言った。
「…それではならぬ。」急に声を鋭くしたので、玉貴も樹佐も驚いた顔をする。甲斐は続けた。「主は皇女なのだぞ。父は王。王である父が目の前に来たら、許されぬのに座ったままではならぬのだ。ようそれで龍王妃になど目通りできたの。命があるだけ儲けものであったわ。」
これまで仕方がないと何事も許してくれた父が、急にそんなことを言い出したので、玉貴は戸惑った。
「え…あの、維月様はお優しいかたで、少々のことではお咎めになったりなさいませぬから。王が仰ったようにきちんと話し掛けられるまでは頭を上げませなんだし…。」
「そういうことではない。」甲斐は、首を振った。「我が悪い。主を甘やかせてしもうて、何も知らぬままあちらへ行かせてその後は樹伊に丸投げであった。だがの玉貴、運が良かっただけぞ。過去には龍王妃に無礼を働いたと、龍王妃本神ではなく龍王が激怒して離縁のみならず、宮ごと危機に陥った例もあるのだ。なのに…樹伊には感謝せねばならぬのに。主を守るための最低限は教えてくれておったから、主は助かった。我が悪い。主は、もうここで過ごすが良い。今さら学ぶのも、意識を変えるのも無理であろう。楢のこととて…主が臣下に認められぬから、樹伊が主と子達を守るために娶ったのだ。」
玉貴は、え、と口を押さえた。
「我らを…?どういうことですの?」
甲斐は、答えた。
「主はあちらへ行っても全く学ばず子達の教育もままならぬ状態だったであろう。臣下が不満に思って、反乱寸前であったようぞ。樹佐は跡目と認めぬとハッキリ申し入れて来たのだそうだ。我も、翠明から聞いて詳しく公明殿に話を聞きに参って知ったのだがの。」
玉貴は、下を向いた。
確かに…もっと学べと毎日のように言われて、面倒だったのは確か。
それも、子育てが忙しいとか言って、逃げていたのは確かだ。
臣下の当たりもきつく、簡単には玉貴の着物なども持って来なくなっていた。
侍女達も肩身の狭そうな顔をしており、自分付きの侍女は、あの宮から誰もついて来ず、ここへ戻った時も僅かに皇子皇女の乳母だけがついて来ただけだった。
それらも、一刻も早く帰りたいと日々愚痴っているのは知っていた。
「…子育てに忙しいからですわ。寧が育ったら、また…。」
甲斐は、また首を振った。
「もう遅い。」玉貴がショックを受けた顔をすると、甲斐は続けた。「樹伊はの、主を宮に残して樹佐と寧を楢に教育させ、臣下の不満を抑えて樹佐を跡目にしようと画策しておったのだ。正妃がしっかりしておれば、妃が少々礼儀知らずでも臣下は目をつぶるもの。公の場には正妃が出るので、宮の恥にはならぬからぞ。だが…時が過ぎ、主不在のまま楢が入った。宮ではもう、主は居らぬものとして見ておる。直後に樹伊が来た時に戻っておれば宮に残る事もできたが…今は、もう遅い。ここで、父が面倒を見てやるゆえ。主の兄の貴理も、幸い妹思いの奴なので問題ない。我亡き後も、死ぬまでここで過ごせる。だが…子達のことぞ。」
樹佐が、黙って聞いていた。
険しい顔をしていて、分かっているのかいないのかわからないが、最近ではやたらと書庫から書を持って来させているのだと聞く。
甲斐は、樹佐を見た。
「…聞いておったの。まだ赤子から少し大きくなっただけの主には酷だが、主は決めねばならぬ。ここに残っても皇子の身分はなくなり、伯父の貴理の臣下として仕える事になろう。あちらへ戻れば、皇子としての立場は守れるが、そこからは主次第。主の義母となる楢にも子が生まれるだろうし、その子が主より優秀ならばそちらが跡目に座るやも知れぬ。分かるか?あちらへ行けば、もう母とは会えぬが、努力次第では王座に座れる。こちらに残れば母と共だが臣に下る。それでも軍神として、主の父から継いだその大きな気であるから、筆頭に座る事もできようがの。貴理より気が大きいゆえ…面倒が起きるとも限らぬのが、我には案じられるが。」
樹佐は、小さな幼稚園入園前ぐらいの姿なのに、ハッキリ言った。
「お祖父様、我は愚かでした。」甲斐が驚いていると、樹佐は続けた。「父上は常、学ばねばならぬと我に申しておられたのに。我は、楽しい事ばかりしていて、臣下が何故に我を冷たい目で見るのかも分かっていなかった。今は、わかります。宮の書を読んだから。」
甲斐は、こんなに幼いのにか、と驚いた。
上位の血とはこういう事なのか。
「…そうか。主は父のようになりたいのか?」
樹佐は、頷いた。
「父上の所にもう戻れないかもしれないと思った時、また父上に迎えに来てもらえるように、学ばねばと思いました。我が一生懸命励めば、父上はきっと迎えに来てくださるから。父上は、学ばなかった我をお許しくださるでしょうか?」
甲斐は、涙が浮かんで来た。
こんなに幼いのに、そんなことを思って己で学ぼうと書を読んでいたのか。
「…字は読めたのか?」
樹佐は頷く。
「はい。それは父上がつけてくださった教育の者に最初に教わりましたから。そこだけは文も書けないと思って、あちらでやりました。」
ということは、やはりかなり賢い。
僅かに習っただけで、文字は全て理解できるようになったということだからだ。
「…主だけでも帰せと、ずっと主の父は申しておったのだ。今なら間に合う。帰りたいか。」
樹佐は、パアッと明るい顔を下をした。
「誠に?!我は帰りたい!」
すると、玉貴が慌てて言った。
「そうなるともう、母とは滅多に会えぬようになるのですよ!樹佐、こちらに居ても軍神になれるのです。あなたの世話は、誰がするのですか。」
だが、樹佐は言った。
「乳母が居ります。母上、確かに滅多に会えぬようにはなりますが、母上は何も教えてくださらなかった。いつも頭を撫でてくださるだけで、着替えもいろいろ教えてくれるのは乳母でした。何より我は、父上のようになりたい。だから帰ります。二度と会えぬわけではありませぬ。」
玉貴は、ショックを受けた。
確かに上位の宮では乳母と多くの侍女がつくので、母がやることはほとんどない。
率先して関わらなければ、妃は子育てという事はあまりしないものなのだ。
それでも、礼儀などの躾はこだわるので、妃が厳しく監督するものだが、玉貴にはそれもなかった。
なので、子供部屋に居たら外からはわからないが、本当に玉貴は子供を生んだからと忙しい事はなかったのだ。
樹佐の真っ直ぐな目に見つめられてそんなことを言われて、玉貴はショックで何も言えなかった。
あまりにも正論だったからだ。
樹佐にとって、自分は母というより自分を生んだ女性、という認識で、乳母が世話をしてくれる女性、という風になってしまっているのだとそれで知ったのだ。
甲斐は、頷いた。
「母の事は我が面倒を見る。会いたくなったら来たら良い。妹は…」と、乳母の腕に抱かれて、すやすやと眠る寧を見た。「…困ったの。別に皇女でなくなっても、我の孫として軍神に嫁いでも悪いことにはなるまいが。まだ赤子であるし、あちらへ行けば貴婦人として、王にも嫁ぐこともできようが。ここで育てば主の二の舞。玉貴、どうする。」
玉貴は、慌てて寧を乳母から抱き取ると、ブンブンと首を振った。
「我が!この子は我が育てまする!他のかたに預けるなど…!!」
甲斐は、ため息をついた。
「己の事より、寧の事を考えるのだ。寧は将来、どうしたいと思う?そも、主は子育てなどしておらぬではないか。寧が、こちらの宮で平凡でも幸福にと暮らしたいと考えると思うならそうせよ。だが、乳母は居らぬぞ。主がその子を育てるのだ。乳母は樹伊の臣下ぞ。返さねばならぬ。」
玉貴は、え、と驚いた顔をした。
そうだった…ここでは乳母を新たに宮に入れるほど、豊かな宮ではないのだ。
思えばいつも、母が皆を育ててくれて、侍女達がそれを補佐していた。
昔々はもっと豊かで、乳母も宮に置けたのだが、公明の傘下に下った時から、傘下からの貢ぎ物がなくなり宮にそこまで余裕はないのだ。
「でも…侍女は居りますもの。お母様だって。」
甲斐は、首を振った。
「違う。主が育てるのだ。今の樹佐の話を聞いておもわなんだか。主は誠の母となるのよ。主の母が、いきなり全てが変わっても、問題なく主らを育て上げたようにな。母はもう歳であるぞ?無理をさせることはできぬ。己の子は、己で育てよ。龍王妃ですら己で子達を育てるのだと聞いておるのだぞ。あれだけ乳母も侍女も居る宮でな。いつまでも子供ではならぬ。子を持つとはそういうことぞ。」
玉貴は、涙を浮かべた。
「ですがお父様、寧は未だに夜中に泣く事もあって。我一人では寝る間もありませぬ。」
甲斐は、ため息をついた。
やはり豊かな宮にやるのではなかった。
「…それが子育てぞ。乳母は寝る間も惜しんで世話をしておるのだろう。とにかく、残すなら己で育てよ。ここで過ごせるようにはする。後は、主が世話をするのだ。分かったの。」
玉貴にとっては、つらい決断だった。
何しろ、これまで生めば誰かが世話をしてくれて、自分は見ているだけで良かったし、寝たい時に寝たいだけ寝ていたのだ。
着物も己で着付けた事もなかった。
甲斐は、ため息をついて、樹佐に頷きかけて、一緒にそこを出て行ったのだった。




