怨讐
樹伊は、楢を迎えて宮の雰囲気が落ち着いてホッとしていた。
玉貴は酷い妃ではなかったが、やはり父王が緩いのか礼儀に関してはからきしで、ここへ嫁いで来てからいろいろ教えた事もあり、どうしても他の王の妃達と比べて拙い様子だった。
それでも、樹伊は玉貴を愛らしいと思っていたし、公明の傘下に下った宮の皇女をもらうなど、と臣下に反対されても無理を通して宮へと迎えたぐらい、愛してもいた。
なので、どうにか回りに恥ずかしくないようにと、王である樹伊自ら手取り足取り礼儀や動きなどを教えたのだが、成人してから教わると、余程頑張らないと所作などはかなり難しいのか、なかなかものにならなかった。
それでも辛抱強く教えていたが、子が出来たりでなかなか進まず、結局そのままになってしまっていた。
臣下の不満は輿入れ当初からあったのに、玉貴がそれを覆すような様ではないのでどんどんと酷くなり、ついには子の教育の事が関わって来て、臣下と玉貴の間の確執は、決定的になってしまった。
最初の諍いの時から、樹伊は舅の甲斐に話して、玉貴を何とか教育できるように、そして、子供達の教育ができるように環境を整える手伝いをして欲しいと訴えた。
だが、甲斐は子はのびのびと育てるのが一番幸福だとか言って、手を貸してはくれなかった。
仕方なく樹伊が教師を選定してそれをつけて教えさせるものの、玉貴がそんなに厳しくしなくてもと口を出すので進まない。
だが、上位の宮の王族は、それなりの動きを知らなければ、逆に不幸になってしまうのだ。
上位の中で、陰口を叩かれるだけではなく、臣下も認めてはくれなくなるからだった。
皇子も皇女も気ままに育ち始めて、これはまずいと教育に口を出してみるものの、玉貴も子達も聞く様子は全くなかった。
たった一度、月の宮へと正月に招かれた時には、さすがに恥ずかしいと思ったようで、必死に樹伊に学んで何とか外向きには通じる動きは覚えたぐらいだ。
それも、過ぎ去って時が経つとすっかり忘れてしまった。
樹伊は、困り果ててしまっていた。
そして、臣下の不満を抑えるために、他に妃を考えて、陸の宮へと旭の皇女の麗羅が来ていると聞いた時には、見に行った。
下の子供が生まれたばかりだったので、さすがに臣下は面倒な事になったらと止めたが、樹伊からしたら早く宮の中を落ち着かせたかった。
だが、結局麗羅を見たがピンと来ず、陸がおかしなことに巻き込まれそうになっているのを見て、娶ろうとは思わなかった。
そうしたら、玉貴がそれを気取って騒ぎ出した。
父の甲斐が、妃を一人として幸福にやっているので、樹伊があちこち目移りしていると、怒っているらしかった。
…正直、面倒になって来た。
樹伊は、玉貴を娶る時に反対した、父王に顔向けができなかった。
まだ存命だが離宮で隠居生活をしている樹籐には、とてもではないが今の状況を話す気にはなれない。
だが、臣下は父にわざわざ話したようで、父からは早く正式な筋の妃を見つけて宮を落ち着けよと苦言を呈された。
樹伊は、ほとほと困り果ててしまった。
そこに、楢の話が出たのだ。
楢は、同じ上から二番目の序列の宮で育ったそれは淑やかで美しく、礼儀正しい皇女だった。
それは、立ち居振る舞いからひと目で分かった。
姉の松にそっくりで、上品で美しい。
文のやり取りをしても、品が良いのに控えめな性質がよく現れた、それは美しい文字だった。
何度か会って話しているうちに、楢を正妃として迎えよう、と樹伊は思った。
それが、宮のためであり、そして皇子皇女のためだと思ったからだ。
玉貴の事は、離縁するつもりもなかった。
むしろこうしないと、玉貴が里へと臣下の圧力に負けて帰ることになると思われた。
だが、玉貴は出て行ったのだ。
そして、里の甲斐も立腹していて、子達は帰さないの一点張りだった。
樹伊は、玉貴とその子達のためにと必死に考えたことだったのに、甲斐には何も伝わっていなかったと、もう諦めた方が良いのかと、ほとほと困り果てていたのだ。
だが、楢は期日通りに宮へ入った。
そうすると、楢との生活は大変に穏やかで、全ての嫌な事を忘れてしまえる。
臣下も、楢の機転の利く王妃としての采配には感服していたし、何より品があって、宮へ来てからというもの、礼儀が緩くなって来ていた侍女達の再教育も始まっていた。
楢のお蔭で、僅かな間に居心地が良くなって来ている。
もう、いくら言ってもなしのつぶてでこちらに文句ばかりの玉貴や甲斐の事は忘れて、皇子と皇女は諦めようか、と、樹伊は思い始めていた。
このまま、宮を穏やかに回していくのが王の役目なのだ。
とりあえず玉貴のことは離縁と言わず、あちらが何か言ってくるまで置いておいて、今やっと上位の宮らしくなって来たこの宮を維持して行くしかない、と考えていた。
そんな樹伊の思いなど知らず、甲斐はイライラとしていた。
樹伊は一向に謝る様子はなく、せめて子達を引き取りたいとそればかりだった。
訪ねて来たのは最初の間だけ、最近では使者も来なくなっていた。
どうやら、関の妹の楢が正妃となって入り、そつなく回しているからのようだった。
…宮の地位が何程のものぞ。
甲斐は、憤っていた。
一度公明に呼び出されて中央の宮へ行くと、わざわざ翠明が来ていて話をさせられたが、あちらは子達だけでも返せとそればかりだった。
二人の未来が、変わってしまうからだった。
分かってはいるが、理不尽だと甲斐は思った。
自分が、家族を大切にするあまり、臣下を蔑ろにしていて結局宮の地位を尽く落としてしまった事実は分かっている。
だが、だからこそ今の自分には、もう家族しかないのだ。
それしか残っていないのに、その全てを幸福にしてやりたいと思うのは、間違いなのか。
上位の宮の王には、自分の気持ちなど分からないのだ。
甲斐が、口惜しく思いながら居間で悶々としていると、臣下が入って来て、頭を下げた。
「王。あの、翠明様がいらしております。」
甲斐は、驚いた顔をした。
最近では、こちらから出て行かないとあちらは格が高くて、訪問することも難しくなっていると聞いていたのだ。
それなのに、来たと?
「翠明が?」
臣下は、困惑した顔をした。
「それが、単身であられて。軍神を一人だけお連れになっております。」
こんなに身軽に出て来るなど、普通の事ではない。
甲斐は、慌てて言った。
「これへ。早う呼べ。」
臣下は、頷いた。
「は。」と、振り返って扉を開いて、あ、と声を上げた。「翠明様!」
甲斐がびっくりして見ると、翠明がそこに一人で立っていた。
どうやら、勝手知ったる宮なので、勝手に歩いて来たようだ。
「甲斐。」
甲斐は、急いで言った。
「どうしたのだ、主が出て来るなど。何かあったか。」
翠明は、入って来ながら、頷いた。
「何かあったかと。主の皇女の事ではないか。」
甲斐は、それか、と思ったが、しかしわざわざ翠明が出て来るなど普通ではない。
そもそも、ここは翠明ではなく公明の傘下の宮に成り下がっていて、昔とは違うのだ。
なので、前の時もわざわざ甲斐に話があると、公明に行って中央の宮へ呼び出させたはずなのに。
甲斐は、臣下に手を振って下がれと言って、翠明に言った。
「座れ。」と、自分は正面の椅子へと座った。「なぜに来たのよ。もうここへ気軽に来れぬようになってしもうたと愚痴っておったのではないのか。」
翠明は、椅子にどっかりと座って、ため息をついた。
「その通りよ。ここへ来るのも綾にも内緒にして参った。帰ったら言い訳を探さねばならぬわ。何しろ、こんなことをしたら格がどうのとまた言われるからの。」と、甲斐をじっと見つめた。「だが、本日は友として参った。主にどうしても言うておかねばならぬからの。主、昔ここの宮の格が上から三番目にされておったのを覚えておるよな?それが、定佳や安芸と違って主はなぜに落とされたのよ。」
甲斐は、むっつりと答えた。
「それは…我が、軍を育てたりより、己の妃と子を優先しておったゆえ。」
翠明は、頷いた。
「分かっておるではないか。だが、それも主の生き方ぞ。今は公明に世話されて上手く回っておるし、ここは穏やかで主が幸福ならそれで良いと思うておった。」
甲斐は、慎重に頷いた。
「ならば何ぞ?」
翠明は、言った。
「…主の宮は、そういう生き方を選んだ主に準じて同じ扱いになったが、それでも皆、幸福に暮らして居る。だが、それは同じ考え方、同じ格の間であったらの話なのだ。もし、主の娘が我に嫁ぐとかなっておったらどうなる。今の時点でであるぞ?昔とは違う。」
甲斐は、顔をしかめた。
「それは…主には綾という女が居るゆえ。それと比べられるのでそもそも嫁がせようとは思わぬ。」
翠明は、頷いた。
「なぜに比べられたら否ぞ?同じ皇女ではないのか。」
甲斐は、ムッとした顔をした。
「決まっておろう!あれは鷲の王族の娘ではないか!よう出来た妃なのだと、皆が噂しておるのに我の耳にだって入るわ。そんなものと比べられたら、玉貴だってつらいだろうし。」
翠明は、言った。
「同じぞ。」甲斐は、え、という顔をした。「同じ扱いになるのだ。なぜなら、我も樹伊も同じ格の宮の王なのだからの。現に正月の龍の宮で、妃は皆同列に並べられて、まるで品評会のようであった。そんな場で比べられる立場であるのに、主は己の皇女にしっかり教えてやったのか。恥をかいて、酷い時には無礼と維心殿に斬られるやもしれぬような、そんな危ない立場に立たせておるのに、主はその鎧となる躾はしっかりしたのだろうの。樹伊は、必死に玉貴に教えておるようだったぞ。主はどうか?」
言われて、甲斐は詰まった。
そんな事は、考えてもなかったのだ。
「…鎧と?」
翠明は、頷いた。
「そう、鎧よ。」と、またため息をつくと、椅子の背にもたれ掛かった。「主には分からぬやもしれぬが、皇女の教育がどれだけ大事なのか、今から話そう。」
翠明は、茫然とする甲斐を前に、話し始めた。




