恐ろしい神
瑞花は、それを戻って来た漸から聞いて、気が遠くなる心地だった。
あの龍王に、誘う気を放っていたと。
それでなくとも見ることさえ憚られると、あれだけ教えていたのに。
瑞花は、漸の着替えを手伝いながら、言った。
「…龍王様は、よう堪えてくださったもの。漸様のお力ですわ。」
確かに維心は、漸の手前我慢してくれたのだろう。
だが、それもそうそう続かない。
何しろあれだけ楽し気に琴を弾いていたのに、最後の方はむっつりと黙り込んで、何やら気を抑え込んでいるような、おかしな様子だったのだ。
志心の慌てようを見ると、前からそんなことがあったらあっさりキレていたのだと思われた。
「…困ったものよ。とりあえず、皆には今一度伯から言い渡させたが、明日の見送りまで大丈夫なのかと案じられる。誠に…全員を思う通りに動かすのはこれほどに難しいものか。」
瑞花は、頭を下げた。
「申し訳ございませぬ。恐らく我が、楽の間は大丈夫などと申して張り詰めた気を抜かせたからこんなことに。やはりお帰りになるまでは、見ぬように徹底するべきでした。」
漸は、首を振った。
「主のせいではない。」と、瑞花の肩を抱いた。「あれだけ常識が違うと申しておいたのに。他の王達にも同じく気を放って誘っておる輩が多かったようぞ。誠に…来客は受けぬようにせねば、面倒が起こりそうだの。」
瑞花も、今の意識のままでは次は難しいかもしれない、と頷いた。
「はい…。皆の命のためにも、やはり完全にあちらの常識を身に付ける前は、ご訪問のお話はお断りになった方がよろしいかもしれませぬ。」
漸は頷いて、厄介なことをしてくれるものだ、と、頭を痛めていた。
しかしとりあえずは、明日帰してしまえば再教育もできるからと、己を言い聞かせて眠りについたのだった。
その深夜、断末魔のような叫びが、シンと静まり返った宮の中に響き渡った。
…何事?!
漸は、寝台から跳ね起きる。
瑞花も、隣りで起き上がった。
「王?!今の声は…?!」
「分かっておる。」漸は、袿を手に奥から出ようと急いだ。「見て参る。主はここで。菊が居れば問題ない。」
菊は、もう入って来て膝をついている。
その手には、刀が握られていた。
瑞花が怯えながらも頷くと、漸は奥を飛び出して声の方角へと急いだ。
…考えたくないが、これは客間の棟から。
漸は、最悪の事態を覚悟しながらそちらへ向かった。
その少し前、義心はあの宮の中の様子では、とち狂った女神が忍んで来てもおかしくはないと思い、自ら夜番をかって出て、維心の控えの間の脇の侍女や侍従が入る場で控えていた。
維心は、できるだけ面倒は避けたいからと、普段他の宮ではしないのだが、小さく自分の部屋の回りに結界を張って、まるで軍神達のように、対策をして眠りについた。
恐らくこれで中まで入ることができる神など居ないだろうが、義心は知っていた。
自分もそうだが、夜忍んで来る女は、その結界を突いて自分が来ているのを知らせ、中へ入らせようとする。
そして、その度に目が覚めて面倒なので、軍神によっては手を触れただけで大怪我をするような、結界を張っている者まで居るほどだった。
ちなみに義心は、そこまでしたくはないので、触れたらしばらく激しく穢れる結界を張っている。
そうなると務めに出る事もできず、他の神にも避けられて、神として面倒な恥ずかしい状態になるので、今では誰も義心の結界を突いたりしない。
維心にそれを進言しても良かったが、ここは別の宮なので、義心は敢えて言わなかった。
ここで自分が控えて、結界に触れる前に阻止しようと思ったのだ。
義心がそこに座ってじっと維心の部屋を守っていると、何やら言い争うような声が聴こえて来た。
聞いていると、誰が先に維心の部屋へと忍ぶのか、争っているようだった。
…誰が先に死にに参るのかと、争っているのだと気付かぬか。
義心は、ため息をついて控えの小部屋から出て、廊下へと出た。
「…主ら。王には近付くでない。」
それなりに美しい、先頭の女が言った。
「あなた様には関係ありませぬ。あの美しい龍王様がお決めになることでは?」
義心は、首を振った。
「何神も近寄らせぬのが我の役目ぞ。王は誰にも会われぬ。疾く去ぬるが良い。」
他の女神も言った。
「我らは危害を加えようと参ったのではありませぬ。分かっておられるでしょう。夜のお役目は、あなた様の役目ではないはずですわ。我らがそれを果たそうというだけです。龍王様が仰るのは、危害を加える者を排除するという事でしょう?」
王に危害を加えることができる神などこの世に居らぬ。
義心は内心思った。
それは、あちらでは知らない神など居なかった。
これらは、龍王が真にどれほど恐ろしいのか分かっていない。
義心は、言った。
「我は主らのために申しておるのよ。死にたくなければ、戻れ。主らの王や王妃は言うておらなんだか。王は大変に短気なお方ぞ。主らなど一瞬で消し飛ぶぞ。今すぐ戻れ。王に気取られぬ間に。」
もうご存知やもしれぬ。
義心は、思ったより面倒な女神達に眉を寄せた。
向こうの女神なら、忍んで来たのを見られても恥ずかし気にするのに、こちらはしっかりと目を見てこうして反論して来るのだ。
このままでは、維心が気取って本当に皆、斬られてしまうかもしれなかった。
しかし、女神の一人が憤ったように義心に言った。
「あなたに戻れと言われる謂れはありませぬ。」と、そんな動きをするとは思わず、油断した義心の目の前で維心の結界に触れた。「我が来たと、知って頂かなくては。」
「止めよ!」
義心は、急いでその女を突き飛ばした。
だが、女は維心の結界に触れて、恐らく気を放ったはずだった。
「まずい事を…!」
義心が思うより早く、いきなり扉が開いたかと思うと、維心が烈火のごとく怒った様子で抜き身の刀を手に立っていた。
「王!」義心は、慌てて言った。「お待ちくださいませ、これらは常識が…!!」
「もう我慢がならぬわ!」維心は、手を振り下ろした。「思い知らせてくれる!」
「ギャアアアアアア!!」
一瞬にして、目の前が真っ赤に染まったのが見えた。
義心には、維心の太刀を防いで女神を庇うことはできない。
本気で斬りに行っているので、自分も無傷ではいられないからだ。
「あああああ!!」
他の女神が、見えない太刀筋にパニックになって逃げようとしたが、あまりにも大きな気の、しかも怒りの気を受けて尻餅をついたまま、動けずに悲鳴を上げた。
だが維心は、その女もあっさりと突き殺した。
「あ…あ…。」
別の女神達も、身動きが取れずにいる。
そこへ、隣りの扉が開いて、炎嘉が飛び出して来た。
「何事ぞ?!」と、状況を見て、急いで維心の前へと飛び出した。「維心!落ち着け、これ以上殺すな!漸の臣下ぞ、だからこれまで我慢したのではないのか!」
維心は、ついぞ見ていなかったほど激昂した様で、怒りの気を湧き上がらせて言った。
「どけ、炎嘉!全部斬って見せしめにしてやるわ!二度と我を見ようとも思わぬほどにの!」
周囲には、最初の一太刀で殺された二人と、次に殺された一人の合計三人が、血の海の中で事切れている。
残念ながら、今更一人二人を殺すのを止めたところで、何事もなかったとはならない様だった。
他の王達も、次々に出て来てその状況に顔を険しくしている。
義心が、言った。
「…王は、よう堪えてくださいました。炎嘉様、我が申しても一歩も退かぬ様子で、これらは王の結界に触れて気を放ったりしたのでございます。」
炎嘉は、頷いた。
「分かっておる。維心にしては堪えた方ぞ。だが、ここは我慢せよ。漸の宮ぞ。既に三人殺したのだからの。残りの二人は、漸に沙汰を任せるのだ。分かったの?維心。落ち着け。維月が聞いたら何と申すと思う。」
維月、と聞いて、維心の目の光がスッと消えた。
そして、血にまみれた刀をスッと義心に差し出した。
「…分かったわ。」
義心は、その刀を急いで受け取った。
いつも、この刀と死体を片付けるのが義心の仕事だった。
最近では、滅多にこんなことがなかったので忘れていたが、昔はしょっちゅうあった事だった。
そこへ、漸がやって来た。
「何事よ。」と、床の血の海の中で転がる、三人の女神を見た。「…斬ったか。」
維心は、漸を睨みつけて言った。
「いくら主の臣下でも、やって良い事と悪い事がある。慣れぬのだろうと我はここまで堪えた。これ以上は、主の監督責任すら問うぞ。本当ならそっちの女も斬りたかったが、炎嘉が止めるのでやめただけ。これで済んだのだから、文句を言うでないぞ。」と、踵を返した。「義心!帰る!」
義心は、この深夜にか、と思ったが、頭を下げた。
「は!」
「こら、待て維心!」
炎嘉は言ったが、維心は帰り支度をしに部屋へと入って扉を閉じた。
取り残された漸は、遥か太古の昔の、維翔が同じように簡単に神を殺していたのを、遠く思い出していた。




