準備
「え?」維月は、王の居間で椅子に座っている、維心を振り返って言った。「犬神の宮へでございますか?」
維月は、持って来ていた菓子の準備をしているところだった。
維心は、維月が茶の準備をしているので、椅子に座ってそれを待っていたのだ。
「昨日、炎嘉と話をしての。それで、書状を遣わせたのだ。そろそろ、序列を確定させて行かねばならぬと思うてな。」
維月は、少し眉を寄せた。
…それはそうだが昨日は婚姻の日だったのに、そんな書状が来たならもしかして、祝いどころではなかったのではないだろうか。
「…昨日は、婚姻であったと聞いておりますのに。あちらは、大慌てであったのではありませぬか?数日、お待ちになればよろしかったのではないかと…。」
批判的ではなかったが、わざわざその日を選んだのをどこか少し、諫めているようには聴こえた。
維心は、確かにそうだったかと思ったが、言った。
「だが…あちらも長く蒼の所で励んでおって、それなりになっておると聞いておるし、今更騒いだところでと思うがの。瑞花が居るのだから、細かい采配などはあれがするだろう。上から二番目の宮の皇女であったのだから、それぐらいの事は弁えておるはずであるしな。そこまで案じる事でもない。」
そうは言うが、婚礼に水を差されたのは確かだろうと維月は思った。
とはいえ、漸はあの素直な性質なので、婚姻が三日とか、そんなことも知らないしこちらを恨む気持ちもないだろうと、維月は頷いた。
「…はい。」と、盆を手に維心に歩み寄った。「ですが、これからはお気をつけくださいませ。宮の一大事が重なると、臣下が疲弊してしまいますわ。漸様はこちらの事をあまりご存知ないので、特にわだかまりなどないでしょうけれど、案じられますので。」
維心は、確かにその通りなので早く会話を終わらせたくて、茶碗を手にした。
「わかった。ところで、今日は何ぞ?煎餅か?」
維月は、維心の気持ちを感じ取って苦笑した。
「いえ、これはクッキーと申す物で。どうぞお召し上がりくださいませ。」
維心は、頷いてさっさと一つ手に取って口にする。
維月はそれを見ながら、果たして今、犬神の宮はどうなっているだろうと案じていたのだった。
瑞花は、視線の問題が解決した後、よく考えたら来客を迎える宮の設えや、動きはどうなっているのだろうと伯に聞いた。
すると、宮には来客用の部屋すらない事が判明した。
よく考えたら、宮を閉じていたのだから、外からの来客などないのだ。
「まあ。」瑞花は焦った。「ならば王にご相談を。来客用の棟を作る必要がございます。その上で、貴賓室という最上位の王がお泊まりになる場も設えねばならないのです。急がねば、こちらには仕切り布や調度の良い物はどれぐらいありますか。」
伯は、瑞花が焦っているのが伝わって、こちらも焦る気持ちで答えた。
「はい、物資は蔵の方に。最上の物は、王しかお使いにならぬので、あまり在庫を揃えぬ形なので…二百ずつほどしかないのですが。」
え、二百?!
瑞花は、驚いた。
最上の物をそこまで貯蔵している宮は珍しい。
それこそ龍の宮ぐらいだろうと思われた。
月の宮でも、内で作っているものは、王の消費に合わせているのでせいぜい五十ずつほどだった。
そう考えると、もしかしたら犬神の宮は、思っていた以上に豊かなのかも知れない。
「良かったこと、充分ですわ。」瑞花は、ホッとして言った。「とにかくは、来客用の棟について王にご相談を。それから、そちらを設えて、王の皆様や、臣下の方々のご滞在する場を整え、そちらへご案内する動きも試してみておかねばなりませぬ。そちらの方が急がれるわ。さあ、王にご連絡をして。」
伯は、頭を下げた。
「は!御前失礼致します。」
伯は、急いで駆け出して行った。
瑞花は、ここまであれこれ始めから準備しないといけないとは、本当に何も知らない宮なのだと、これからの事に少し、不安になったのだった。
漸は、貫を相手にしばし立ち合いなどして、少しでも当日無様にならないようにと訓練場に立っていた。
そこへ、伯が転がるようにやって来た。
「お、王!急ぎお戻りくださいませ。」
漸は、振り返って眉を上げた。
「どうした。瑞花では足りぬのか?」
伯は、首を振った。
「侍女達に関しましては瑞花様からお教え戴いて、視線の動かし方については完璧だとのこと。それより、お客様をお迎えするのに、お部屋が必要なのでございます。王から、どちらかの棟を来客用の物に設え直すご許可が必要なのです。」
漸は、それを聞いて失念していた、と思った。
どこの宮へ出掛けても、泊まる時には来客用の部屋へと通されるのだ。
もちろん、ここにはそんなものはない。
「…そうであったわ。来客用の部屋か。」と、刀を貫に渡した。「あれらを泊めねばならぬのよ。宴などで夕刻を過ぎたら帰すのは礼儀がなっておらぬと言われるらしい。すぐに戻る。」
部屋は余るほどあるが、どこをどうしたら良いのか瑞に聞かねば。
漸は、つくづく瑞花が居なければどうなっていたのかと、瑞花を娶ることにした自分を褒めてやりたい心地だった。
とにかく急ごうと、漸は伯と共に奥へと戻って行ったのだった。
犬神の宮は、中央に奥宮を抱えて丸く円を描くように、様々な対が連なる円形の大きな平たい宮だ。
つまりは、小さな棟の集合体であり、それぞれが回廊で繋がっていて、一つの宮を成している。
一番外側には、ドーナツ型に三階建ての建物が囲んでいるのだが、そこが砦の役割をしていて、軍神達が住まう宿舎もそこにある。
そこから内側が、外宮の棟三列、そしてその内に内宮二列、そして奥宮という構成になっている。
見取り図を見せられて、瑞花は言った。
「…それでしたら、貴賓室はこの内宮の列の一棟、こちらの大広間に程近い棟を使って設えましょう。」瑞花は、そこを指差した。「他、一般のお客様には外宮のこちらとこちらの棟にお部屋を。会合などを受け持つことになられたら、多くの王が訪れます。上位の王だけをお泊めするご準備では、それができぬので只今三位の志心様の宮には劣ると見なされる可能性がございます。」
漸は、頷いた。
「ならばそうしようぞ。」と、伯を見た。「ここを使っておる者は他に部屋を与えるか、いっそ増築しても良いしな。」
伯は、首を振った。
「あちこち空き部屋が散見されますのに、良い機会でありまする。きちんとまとめて臣下の執務室などを振り分けまする。これまで王がどこでも良いと仰るので、皆好きな部屋を使っておりましたから。」
漸は、頷いた。
「ならばそれで。中は知っておるぞ。我は他の宮に何度も停まっておるからな。付いてきた軍神控えは、貫がよく知っておろう。あやつもあちこち我について参るから、外の宮の作りには詳しいはずよ。あちらは貫に任せよう。」
伯は、頷いた。
「は。では、あちらも軍神達の部屋を整理する必要がありますな。何しろあちらは広いので、誠に好き勝手使っておりますゆえ。」
回りを囲んで三階建てだからだ。
外宮も内宮も、高くて二階なので、確かに軍神の建物は広いだろう。
「まあ、職人もあちらに部屋を持っておるからの。この際だから整理して、序列順に綺麗にまとめるように申せ。誠に…瑞がおらなんだら今頃どうなっておったかとハラハラするわ。この様子では、水無月の会合直前まで待ってもらわねばならぬな。」
瑞は、それに何度も頷いた。
「はい。まだ、侍従達にも当日の宮の動きを教えねばなりませぬし、試演しておく必要もございます。恐らく手ぶらでは来られないので、返礼品のご準備もしなければなりませぬ。持って来られた厨子の置き場や、その後どのようにご案内するのかしっかり教えておかねば。やることは山積みでございますわ。」
そんなに大変なのか。
漸は、何も考えずにあちこち訪問していた事を悔いた。
思えばどの宮でも、当然のように臣下が綺麗に動いて皆を誘導し、漸も、待たされたりすることもなく、円滑に案内されていた。
だが、それも全て王や王妃が指示をしていて、臣下達もわきまえていたからなのだ。
「…誠に安易に考えておったわ。」漸は、ため息をついた。「水無月の会合は7日。5日か6日辺りにしてもらえるように申す。ほんにもう…なんと面倒なのだ、外というのは。」
伯が、神妙な顔をした。
「お戻りになると決め、臣下も新しい世界に希望と期待を持って励んでおりまする。王におかれましても、ここは踏ん張っていただかぬことには。」
外に出なければ、瑞に出会うこともなかった。
漸は頷いて、とにかく一つ一つ、こなして行く事を指示したのだった。




