学び
それから、何事もなく過ぎて行った。
義心は、雷嘉を育てるために、できるだけ側に居て、面倒を見るようにしていた。
雷嘉は物覚えの良い神で、犬の頃に蓄えていた知識と併せてそれはよく理解力してくれた。
あちらの文字は理解していたが、こちらの文字は触れる機会がなかったので全く分からず、なので訓練場などでの立ち合いの合間に、義心が読み書きを教えていた。
それも、なかなかに進んで来て、今では書を見ながら神世の歴史なども教える事ができるようになっていた。
今日は非番の義心は、雷嘉に歴史を教えて書庫の前にある書見の間に居た。
「…本当に、こんなことが起こっておったとは。」雷嘉は、書から目を上げて、言った。「誠に何も知らずに生きておったのだと思います。」
義心は、苦笑した。
「人でも知らぬことであるしな。大陸ではそれでなくともいろいろあった。主らは嫌な空気に怯えたり、逃げたりしかできぬ立場であったし。とはいえ今は、もしそのような事がまたあった時には、皆を守る役目を担う。震えて隠れておるわけには行かぬのだ。」
雷嘉は、頷く。
「ヴィランの事は覚えておりまする。我がまだほんの子犬の時に、イゴール様の結界内に来たのですよ。犬には優しい神で、よう遊んでくれたのを憶えておりまする。我はこれで、犬であるのにニ百年以上生きておりますので。」
そういえば、雷嘉の歳を知らなかった。
義心は、言った。
「そういえば主は正確には幾つなのだ。聞いてなかったの。」
雷嘉は、首を振った。
「よく覚えておりませぬ。何しろあの頃はまだただの犬でありまして。兄弟達はほんの二十年ほどで次々に逝き、我だけこのような長生きでありました。その頃の飼い主であったイヴァン様はその間に亡くなり、イシード様の事は赤子の時から知っております。我が群れのリーダーであったのも、長く生きてものを知っておるから。どういうわけか我だけが、老いもせず長生きでありました。」
つまり雷嘉は、生まれつきその素質を持っていたのだ。
眷属として生まれたのかもしれないが、それを知らずに教育も付けず、他の犬と共に育てられていたのかもしれない。
もちろん、本人がそれを知る由もない。
「…主には恐らく、生まれつき素質があったのだ。殊の外賢い個体だと、イシードが言うておったがそれも道理。早くに眷属としてイゴール様が主を教育しておれば、もっと早くにいろいろ認識できておったのやも知れぬの。とにかくは、主は神となったのだし、他の同族は籠っておって知らせる術もない。主はここで我ら龍と共に世のために励むよりないの。」
雷嘉は、それにはすぐに頷いた。
「我はこちらで我が神と、我が神の王にお仕えして生きると決めております。同じ種族と言われても…我に浮かぶのは、北の犬達しか居らず。何の面識もない同族に、仕える事は想像もできませぬ。」
だろうな。
義心は、思った。
長年宮を閉じていて、維心ですら顔を見たこともないという犬神の一族を、いきなり敬えと言われても、雷嘉も困るだろう。
「…古の神であるしな。我らも多くは知らぬでおる。主がそのように思うのも道理だろうて。良い、今は知識を蓄えて神としてこの地を守る事に尽力すれば良いのだ。我らも手を貸そうぞ。主はあれらを捕らえるのに力を貸してくれた。我らが返す番であるから。」
雷嘉は、神妙な顔をした。
「は…たったあれだけの事なのに、過ぎた事かと思いまするが、感謝致します。これからもお役に立つ事ができましたら何なりと。」
主でなければならぬのよ。
義心は、思った。
これからはもう、気を遮断する膜も何の意味もないものになる。
雷嘉が居れば、逃げ仰せるわけがないからだ。
とはいえ、まだ仙術というのは侮れぬ。
臭いまでもを遮断する膜が出て来ないことを、義心は祈ったのだった。
その後、甲冑に着替えてから雷嘉を連れて、訓練場へと赴いた。
非番の軍神達が訓練に勤しむ中、一人の軍神が嬉しそうに寄って来た。
「来たか雷嘉!待っておったぞ、一勝負しようぞ。」
義心は、それが最近雷嘉と仲の良い下位の軍神の、辰だと知った。
雷嘉は、苦笑した。
「すまぬな、しばし待たぬか。本日は、義心様が共に来てくださっておるので。」
辰は、義心に気付いて慌てて膝をついた。
「義心殿。申し訳ありませぬ。」
義心は、苦笑して首を振った。
「良い、主は雷嘉と同じ頃にここへ入ったものな、辰。ならば本日はまとめて見てやろうぞ。」と、刀を抜いた。「さ、参れ。共にで良いぞ。悪い所を見てやろう。」
辰は、顔を赤くした。
義心に見てもらえるなど、滅多にないのだ。
「わ、我のようなものが、その、畏れ多くてございます!」
上官の目もあるだろう。
思えばこの辰は、侍従の息子なのだが生まれつき力が強く、軍神にもなれると一度試験を受けて見たら殊の外賢く力があったので、軍に入ることを許された変わり種だ。
雷嘉と同じで軍神家系で親から幼い頃に教育されていたわけでもなく、何も知らずにここへ来たので、肩身も狭かったはずだ。
そこへ、雷嘉が来て、雷嘉には義心という師匠が居るのでそこまでではないが、辰にはそれがない。
それでも雷嘉と居ることで、いろいろ基本的なことを教わることができたので、恐らく仲良くなったのだろう。
序列は、なのでまだついていなかった。
それでも、上官達を差し置いて、義心に指南してもらうとなると、後で妬みが怖いのではないか。
何しろ、もうすぐ長月の序列再編の時期がやって来るのだ。
皆、己の技術を上げようと、必死な時期なので、ピリピリしているのだ。
義心は、苦笑した。
「ならば主は見ておるがよい。」と、雷嘉を見た。「雷嘉が技術を上げたら主は雷嘉から教わることもできようしの。」
辰は、ホッとしたように頭を下げた。
「は!」
見るだけでもかなりの勉強になるはず。
義心は、そう思いながら雷嘉の稽古をつけたのだった。
一通り今日の指南を終えて、義心は雷嘉と辰が立ち合うのを見ていた。
こうして見ると、辰はそこそこ優秀だ。
何より頭が良いのが、その立ち合いを見ていて分かった。
今は考えて動いているが、余裕がなくなれば考えより先に体が動くようになる。
だが、辰は考えても間に合うように上手く距離を取り、そして頭の回転が速いのでその僅かな時間で立ち回れた。
…実戦ではああは行かぬが、それでも始めには充分な動き。
義心は、思って見ていた。
すると、帝羽が来て言った。
「非番なのに甲冑を着て何をしておるのだ?」と、視線の先を見た。「お、辰か。確かにあやつは出世頭になるのではと我も思うてみておるのだ。」
義心は、チラと帝羽を見た。
「主もか?侍従の息子とは思えぬ動きよな。あれはそこそこになる。今から力を入れて育てたら将にもなれるのではないかの。」
帝羽は、頷いて顔をしかめた。
「見てやりたいが他がの。後から来た軍神家系でもない神に追い抜かれるのは屈辱のようで、他は必死なのだ。我が少しでも世話をしようものならあやつが後で酷い嫌味を言われる。咎めるが常に見ておるわけでもないからの。ここは己で励んでそこそこ地位を上げるしかない。雷嘉が居て良かったのだ。あれはそんなことなど何も知らぬし、回りに何の忖度もなく何を言われても気にしない上に意味が分からぬと来ておる。何を言うても我が神我が神で、主の言うこと以外はあまり重要ではない様ぞ。なので一人で居たので、辰にとっては良い相手であったのだ。」
義心は、苦笑して答えた。
「そうか。あれは神になったばかりであるしな。家系云々分からぬからちょうど良かったのよ。辰は侍従の子というて、その侍従は奥宮を任されるほど頭の良い神で。もしかしたら内政に関わる位置に序列が上がるやもと言われておるぐらいなのだ。そのうちに何も言われぬようになろう。文官に睨まれると、王とお話する機会もある立場になるわけであるから、下位の軍神にはきついからな。まあ、つまらぬ意地を張るより、己が励めということぞ。」
義心の言葉に帝羽が頷いていると、上から明蓮が慌てふためいたように飛んで降りて来た。
「居ったのか、義心!ちょうど良かった、非番なのは分かっておるが、結界外に来てくれぬか!知らぬ神が書状を持って来ておるのだ!」
知らぬ神?
「…どういうことぞ?」
明蓮は、答えた。
「とにかく来てくれ!」
義心は眉を寄せて浮き上がった。
そして、帝羽に見送られながら、明蓮について結界外へと向かったのだった。




