弥生と千佳に笑顔を
●弥生と千佳に笑顔を 68話●
麻王が自身の左手を縫い針で細く細かく瘢痕組織ができないように縫っている。
揺れる毎に血がタクシーのシーツに敷いたビニールシートに滴り落ちる。
千佳がタオルを下に持っているが血が溢れそうになる。
その後、タクシー内で麻王はまるで死んだように眠っている。弥生と千佳は名古屋から渡された救急処置箱から消毒や包帯を巻いている。
しばらくして麻王が起きると、
「運転手さん、シーツの血の汚れは警視庁に請求しておいてください。」
あんな事があったのに麻王は驚く程に呆気らかんと話す。
「どうしてそんな平然としていられるの? 一時間以上も殴られたんだよ。」
呆然としていた千佳が思わず尋ねる。
「どうしてか……自分に価値はないと思っているからかな…」
麻王の言葉に千佳は涙が溢れる。
弥生も涙が止まらない。
千佳と弥生が中央に座っている麻王を抱きしめると、
「いや、痛いんだけどな?」
千佳は、
「もう消毒もしたんだから痛くないでしょ!」
弥生と千佳は笑いながら麻王の右手と左手を優しくつかむ。
「裁判官には慣れても医師には慣れないな。」
麻王が再び眠ると弥生と千佳も疲れ切って麻王の傍で眠る。日付は変わって午前5時になっている。
麻王は弥生と千佳を起こすと弥生は、
「うん、…………麻王………麻王君の電話の声聞こえていたよ…妹さんや文音にしていたんだね。お父様たちの事も有難うございました。」
「弥生のお父さんの龍一郎さん千佳のお父さんの正三さんが新睦月財閥を復活させてくれるよ。」
千佳は、
「……今はもう大財閥でもないし……ただの会社の社長だよ?」
弥生は、
「………私たちはお母さんも早くに逃げていないしお父さんたち二人で大丈夫かな?」
麻王はタクシーの外の朝焼けを見ると、
「親の顔も知らず、毎日が生きるか死ぬかの生活をしていた俺からしたら二人が羨ましいけどな…。」
麻王の言葉に弥生も千佳も下を向く。
「いいこともあるんだけどな。」
千佳は、
「……なに…」
「こう言う時に”ああ、こんな下もあるんだ”って思えたら決して自分は不幸じゃないと思えるんじゃないか。」
「……うん、すごく楽になった…」
「弥生~!」
「そういう境遇が哀しいこととわかったのは妹がお腹を空かしている時だった。だから笑えばいい。苦しい時ほど余裕の笑みを見せればいい。大切なモノがあるからそう思えるんだ。これ以上の下はないんだってな。」
千佳は、
「うん、そうやって這いつくばればいつか時が癒してくれるもんね。」
「そういうこと。」
弥生と千佳の二人が愛している男性は比較にならない世界で生きて来き、今も弥生と千佳の二人を大切にしてくれている。弥生と千佳にはそれが嬉しくて仕方ない。
麻王は、
「そろそろ二人に渡した航空券を確認しろよ。」
千佳は、
「え?…うん。」
弥生は、
「……ハーバード大学の合格証明書?」
千佳は、
「……Chika Fukamori……何で私たちの名前?」
弥生は、
「それと通帳に当座の生活分のお金が振り込まれている…………どういうことなの、麻王君?」
「弥生と千佳が白桜を去っても卒業まであと少し。俺が拠点を置いているのがボストン。だから以前にハーバード大学に弥生と千佳、二人の推薦状と成績を送っておいた。」
「……いつ?」
弥生と千佳は驚きながら聞く。
「文音の事で弥生と知り合った時に千佳は永遠のライバルだって言っていただろ?本当は三月の二人の卒業式の日に合格証を渡して驚かすつもりだったんだけどな。」
麻王の言葉に驚く二人。
「ま、時期が時期だから弥生も千佳も補欠合格な。」
「エッセイは?」
「俺と青空が書いた。」
「SATは?」
「……………。」
麻王はSATに関しては沈黙した後に、
「理事長の推薦状もそうだけど、青空の推薦状がなかったら無理だった。あいつは俺の申し出に快く書いてくれた。それだけは忘れるなよ。」
弥生と千佳は合格証明書とフリーチケット、通帳を大切に握ったまま頷く。
「ねぇ、SATは?」
千佳が繰り返し聞く。麻王はSATに関しては反応しない。
少し考えると千佳は、
「……自称、田中猛にお礼を行っておいてくれる、麻王?」
「ああ。」
弥生は、
「え、どういうこと?私と千佳の二人分だよ?」
千佳はクスッと笑うと、
「田中猛はね~天才と思っていた私たちが恥ずかしくなるほどの天才イカサマ師だよ?」
「何よ、それ~!」
新宿新南口
麻王は、
「本当は今年の秋学期から入学だったけど連絡しておいたから。春学期なら一月下旬から授業始まっているよ。ハーバード大学の中間テストが三月の初旬。二人の下宿先は確保してあるから。」
麻王はボストン行きの直行便の時間を確認すると弥生と千佳を空港行きのバスに乗せようとする。
血で汚れた麻王に弥生と千佳の二人は抱きつく。
弥生は、
「……文音の事、頼める、麻王君?……ううん、麻王、愛してる…」
「ああ、わかっているよ。」
空港行きのバスの窓から
クスッと笑うと弥生は、
「麻王の素っ気なさも照れ隠しって分かったしね!」
「キャラが千佳とダブっているぞ?」
「何よ、それ!私の方が弥生より断然、綺麗なんだからね!」
「二人なら5年で卒業できるかもな。才能より努力。それがアメリカの大学。千佳、アメリカなら弁護士の方が儲かるぞ。」
「ううん、なるなら日本で弁護士になってお父さんを支える。」
「そうか。じゃあな。」
バスのドアが閉まると素っ気なく歩いて行く真っ赤なワイシャツ姿の麻王は警察官に職務質問をされている。それまで涙が溢れ止まらなかった弥生と千佳は麻王を見るとクスクス笑い始める…でもやっぱり涙が溢れてしまう。
麻王は振り返りリムジンバスの弥生と千佳を見ると、
「頑張れよ、後輩…いや、生徒か?後、上座とかこだわる女に男はできないぞ~!」
麻王は振り返りそう言うと走って逃げて行くと警察官二名が麻王を追いかけて行く。
クスクスと千佳は、
「面倒だから逃げた!もう、ウケるよ~!昨日の喫茶店の一言だ…やっぱりわかっていた~!嫌な女だったなぁ…」
「え、それよりも…………後輩ってどういう事?……もう麻王って頭が回転し過ぎ!絶対いい女になって来るからね、麻王~!」
弥生がバスの窓から手を振る。
千佳もクスクス笑いながら、
「合格証明書に下宿先を書くな~。愛しているよ~!絶対私の夫になってもらうからね、麻王~!」
千佳が笑顔で宣言する。
「私よ、千佳!」
発車したバスから外を見ると千佳は、
「何よ、弥生!…あ、まだ麻王が私たちと同じ方向の歩道を逃げている~!愛してるよ~麻王~!」
手を振って遠くなっていく麻王に弥生は、
「ありがとう~!絶対に、絶―対にいい女になって帰って来るから~!……直角に曲がった!…本当に優しいね、麻王は…」
「もう、絶対に笑わせに来てるし……きっと麻王を思い出して泣いちゃうけど…ありがとう、麻王…」




