6.キュビズム。ちぐはぐ、イビツ、私色。
名探偵、皆を集めてさてと言い。
ミステリには、そんな使い古された川柳がある。
そしてそれは、僕の目前にある光景を表すのにもっとも相応しい言葉であった。
通常、四人の人間が集まった場合は四角を形成するだろう。だが、今日の放課後の美術室は違った。
僕と寺木音、それから呼び出された伊藤。この三人が三角に立ち、その中心には甲斐龍之介が絵と共に立っていた。言うなればYを描くような形状である。
「……なんなのですか、大事な話とは」
奇妙なフォーメーションを見ながら、伊藤は訝しむ。僕や寺木音にはすっかり打ち解けてくれていたように感じていたが、やはり龍之介には苦手意識があるのだろう。目には警戒が宿っていた。
脇の絵を一瞥し、龍之介はそれから伊藤を見る。
「のう、伊藤よ。お前は変わった髪型をしているな。それではさぞ視界が狭いだろう」
「……別に、貴方には関係ないでしょう」
「そうだな。俺には関係ない。俺には、な」
長い前髪を触りながら伊藤が返すと、含みのある言い方をしながら、龍之介は台に立てかけられた絵の天枠へとゆっくり手を置く。
「おい龍之介、勿体ぶらずに早くしてくれ」
芝居がかった態度をもどかしく思った僕が言うと、寺木音もそうだそうだと乗っかる。あの後すぐにチャイムが鳴ってしまったせいで、龍之介の奇行の理由は僕達にも分かっていないのだ。
やいのやいのと僕達二人が囃し立てると、龍之介はうざったそうに手を振った。
「そう急くな。そうだな、まず伊藤よ」
「なんでしょう」
「お前は今から俺が許可するまで喋るな。いいか、何があってもだ」
「っ……」
キツイ物言いでの命令に、伊藤は明らかに苛ついた様子を見せる。しかし反発しても仕方ないと諦めたのか、彼女は頷いて静観の姿勢を見せた。
「それじゃあ、次はお前達だ」
龍之介は僕達に絵を掲げる。片手で掴むその持ち方はお世辞にも丁寧とは言えず、伊藤はそれを心配そうに見守っていた。
龍之介は、静かに問う。
それは昼間の時とは対象的な、冷静な声音であった。
「……この花の名前はなんだ?」
質問の内容は、一瞬で理解する。
けれど意味が分からなかった。何故、今更それを問うのか。それを問うた結果、一体何になるのか。
微塵も分からなかったけれど、だからこそ僕はすぐさま答える。
「何って、ラベンダーだろ」
「――⁉」
瞬間、伊藤が強張る。
彼女が何かを言おうとしたのを、龍之介は僕達から目線を逸らすことなく手で制した。
「ラベンダーか。何故そう思う?」
「なんでって……」
「そりゃあ、色がまんまじゃないですか。この色で細長い花と言ったらどう見てもラベンダーですよ」
答えたのは寺木音だ。彼女が同調したことで、僕は少し安心する。
「あぁ、そうだな。形はさておきどう見てもこの色はラベンダーだ」
「……」
龍之介がそれに乗ると、伊藤の顔色は蒼白のものに変わる。元々の色白さも相まり、彼女からはともすればその場に倒れてしまいそうな危うさが感じられた。
「だがな、不正解だ」
「はぁ?」
「いいか。そもそもラベンダーに球根はない」
言われて、僕は凍りつく。
初夏のくせに、背筋には何か冷たいものが通っていた。
「この花はムスカリだ。そうだろう?」
彼女はただ縦に首を振る。本当は声を出そうとしたのだろうが、彼女の口は震えるのみで音を発することはなかった。
「……ムスカリ」
「四月頃が旬の花だ。見てくれこそはラベンダーに似ているが、ラベンダーとは違い葡萄をひっくり返したような花を付ける。寺木音、スマホで見てみろ」
僕の復唱に、龍之介は解説を入れつつ寺木音に指示を飛ばす。受けた彼女は、戸惑いながらもポケットから端末を取り出し、素早い手付きで検索エンジンを起動させた。
「ムスカリ……これが」
「確かに、絵の花の形はこれです。ラベンダーじゃない」
寺木音はラベンダーとムスカリの画像を表示する。見比べてみると、その違いは一目瞭然であった。
「い、いや。でも待ってくれ」
僕は手を挙げ、龍之介の注目を呼ぶ。この疑念だけは、どうしてもぶつけたかったのだ。
「このムスカリって花、ラベンダーとは全然色が別じゃないか。確かに青というか紫系統の色ではあるけど、明るさが全く違う。形はそうかもしれないが、絵の花の色はやっぱりラベンダー色だぞ」
「あぁ、そうだ。確かに一見似てこそいるが、ムスカリとラベンダーは形も違えば色も違う。仮に正しくムスカリの色で彩色されていれば、いくらムスカリを知らんお前達でもラベンダーと誤解することはなかったはずだ。しかし現実に描かれたのは、形はムスカリでも色はラベンダーという奇妙な花」
その質問を待っていた、と言わんばかりに龍之介は語る。それから龍之介は、掲げていた絵を台に戻した。
「ところで人は物を見分ける際、色で判断しがちらしいな。トイレの性別もマークより赤青で見分けるだろう? その結果この花の種類を、俺も含めた皆ラベンダーだと誤解してしまった。もっともその誤解がなければ、今回の推理には至れなかった訳だが」
言いながら、龍之介はどこからか例の紙を取り出す。くしゃくしゃになってしまったそれには、やや形の崩れた赤い「あお」の文字が依然として残っていた。
「……さて、ここで疑問が湧き上がってくるはずだ。一体何故、伊藤は色を間違えたんだろうな? 毎年庭に植えているくらいには実物をよく見ているはずなのに」
疑問と言いながら、龍之介は答えを確信した口調で伊藤に近付く。一方の伊藤は、もはや放心といった様子で微動だにしなかった。
「そもそも、俺は不思議だったのだ。いくらハーフとはいえ黒髪でさして背も高くない人間が、なぜ幼少期『排斥の対象』になり得たのか」
「……」
「これがその答えだ――すまんな、伊藤」
突如、彼は許しを乞うた。
そして。
そして、彼は伊藤の長い前髪を、その手で払い上げたのである。
「――あっ」
短く、悲鳴が上がる。それが伊藤によるものなのか、それとも寺木音によるものなのかは分からなかった。
分かる余裕もなく、僕は目の前の光景に吸い込まれる。
「蒼、目……」
奥に潜んだ、その目には。
サファイアの如き青が爛々と宿っていた。
「やめっ……」
消え入りそうな声で、彼女は目を覆い隠す。その仕草で僕は、彼女が不便を通してまでその髪型にしている理由をようやく理解した。
「子供から見れば珍しいものだったろうな。珍しくて、異質だ。イジメに発展するのも容易に想像がつく」
伊藤は屈み、怯えるように体を震わせる。
明らかにトラウマを刺激されたであろうその反応に、僕は龍之介の腕を掴んで静止させた。
「おい。お前いきなり何を」
「海外のホテルは、暗いだろう」
「はぁ⁉」
表情一つ変えることなく、龍之介は僕に言う。思わず大声を出すと、伊藤は恐怖の表情でまた体を縮こまらせた。
「或いは洋画でもいい。海外の名画でもそうだ。総じて色合いが暗いだろう」
「……」
「あれには理由がある。蒼目の人間はな、俺達黒目の人間よりも物が明るく見えるのだ」
ひゅ、と喉から息が漏れる。龍之介の言葉に驚いたのか、伊藤も目を見開いて屈んだ姿勢のまま彼を見上げた。
「彼女にとって、ムスカリの色はラベンダーだった。色が違ったのはそれが理由だ」
「そんな……」
「ムスカリだけではないさ。空も海も、何もかもが俺達の景色とは違って見えている。大まかな色分けは同じでも、細かい部分で俺達とは違う色遣いになるだろうな」
数奇な、皮肉な偶然を嘆くように。
龍之介はただ、呟いた。
「審査員には、なんとなく違和感のある絵に見えていたはずだ。部活動ではなく個人参加ということで、地区の何も知らん年寄りが見るようなコンクールにしか出していなかったのなら尚更な」
「そんな……」
バラバラだった、全てのピースが急速に埋まってゆくのを感じる。けれど、点と点が繋がったその先には、ただの虚無しか残っていなかった。
彼女を襲う衝撃に、僕までもが言葉を失う。
けれどその衝撃の余韻すら許さずに、龍之介は僕へと鋭い目で語り掛けた。
「波瑠」
「……なん、だよ」
僕の肩にまで顔を寄せ、龍之介はぽつり言う。その声は僕すらも聞き落としてしまいそうなほどに小さく、だけど、とても力強いものであった。
「しっかりしろ。ここからは、お前達の仕事だろうが」
ちなみに僕は色覚異常だったりします。