3.デカルコマニー。将来の夢と、将来像と。
僕は色々と準備していた。
何気ない雑談から、これ程までに絵に打ち込んだ彼女への賞賛から、國里先生の言葉から。
やっぱり辞めるべきじゃない、なんていう引き留め文句へ、説得へと繋げられるよう。
たくさん、これでもかと言うほどに会話を用意していた。
にも、関わらず。
「デカルコマニーって、知っていますか」
彼女の言葉は、僕の用意していたパターンそのどれにも当てはまらなかった。
放課後の空き教室。
否『美術室』にて、扉を開けだと同時に彼女は僕にそう問うた。
「……コマンタレブー?」
「マンマミーヤ、それはフランス語の挨拶です。もっともデカルコマニーもフランス語ですが――」
「あの、マンマミーヤはイタリア語だけど」
「……」
思わず言うと、珍しく饒舌になろうとしていた伊藤の頬にかぁっと朱が差す。
その目は相変わらず髪に隠れて見えないが、恥じているのは容易に想像できた。
拗ねてしまったのか、彼女は無言で背を向ける。
その先に立て掛けられた、真っ白なカンバスはこれから彩りが始められるらしかった。
「……デカルコマニーというのは、絵画技法のひとつです」
続けるんだ、というツッコミはしない。代わりに手近な木椅子に座ることで、彼女に耳を傾けていることを表した。
「絵の具をつけた紙と紙を折って、線対称の絵を作る技法。小学校の頃、一度くらいやったことはありませんか?」
「あー、やったような。ちょうちょとか作るやつだよね」
説明しながら、彼女は手際よく準備を始めた。手伝おうかと思い一瞬腰を浮かしたが、それと同時に彼女はペンケース片手に僕を見た。
彼女の髪越しに視線が絡んだ気がし、僕は座ったまま動けなくなる。
「私は子供の頃、人生はデカルコマニーのようなものだと思っていました」
「……」
話の流れイマイチ掴めずに、僕は曖昧な表情になる。けれど伊藤はそんな僕に続けて語った。
「話は変わりますが。波瑠さんは子供の頃、どんな将来の夢を持っていました?」
「ええと。漫画家と、パイロット」
「ふふ……随分と極端な二択ですね」
面白かったらしい。彼女は少しだけ口角を上げた。
「まぁ、なんていうか。何にでもなれるって思ってたからさ」
「それは、今も?」
「まさか。夢見たからといって、そう簡単に叶うもんじゃない。中学の頃にはどっちも諦めちゃったよ」
なんとなく、彼女の言わんとする輪郭が見え始める。
答えると、やはりと言うべきかそれは彼女の求めていたものだったらしい。伊藤はやや満足気に、口元をふわりと緩めた。
「おっしゃる通りです。人生はデカルコマニーなんかじゃなかった」
だけどどうだろう。
そうやって言う癖に、その満足気な笑顔はどこまでも。
「将来の夢が、将来の自分ではないのです」
どこまでも、寂しそうに見えた。
**
伊藤沙亜菜は描く。
しかし、それはpaintでは無くdrawに過ぎない。
日本語なら下描き、と呼ぶのだろう。微かな音と共に細い右手が走らせる鉛筆の線は西日に陰り、彼女の背後に座る僕にはもはや識別不可能であった。故に僕はただ、不規則に揺れる彼女のボブカットをぼうっと眺めるのみである。
「……コンクールには、何の絵を?」
「もう一度あの絵を描こうかと。アイデア自体は気に入ってますから」
手は止まらず、声だけが帰ってくる。
痛々しく傷付き、乱雑に彼女の対角線に位置する隅に打ち捨てられた『あの絵』を僕は一瞥して、ため息を吐いた。
そのため息と共に、僕は本来の目的を思い出す。
思い出して、口を開き。
そして、やっぱり閉じることにした。
創作者は観客を求めている。
甲斐龍之介はそう言った。
ならば、今は野暮というものだろう。
引き留めるのは、全てが終わった後でも遅くはない。
**
有ヶ峰高校の図書室に、甲斐龍之介以外の人間は殆ど立ち入らない。
いや、立ち入れないのである。
まぁ、確かに強面の大男が毎日毎日定位置を陣取って読書している様というのはそれだけで気を遣う光景である。物音ひとつ立てるだけで睨まれるとあっては尚のことだ。
無論当の本人は、目付きが悪いだけで睨んでいるつもりなど微塵も無いらしいのだが、しかし一度図書室を訪れた女子が龍之介にビビり倒して泣き出した事例も存在するらしい。なんというか、互いに気の毒な話である。
何にせよ有ヶ峰高校の放課後の図書室は、ほぼ毎日同じ光景である。
……今日を除いては。
「お願いしますってば!!!!」
図書室の扉を開けるや否や、発音全てに濁点が付いて居そうな程にやかましい声が飛び込んできた。
「邪魔だと言っとるだろうが!! 帰れ!!!!」
続いて、部屋が揺れる程に大きな龍之介の怒声。先程まで居た美術室とはテンションの高低差で耳鳴りがしそうである。
「うっせ……龍之介、どうした? なんだか随分と賑やかだけど」
「――っ!?」
「あ、ししょーーーーー!!!!!」
開けた扉から顔を出した瞬間、二者は二様の反応をする。龍之介は驚愕の表情で手に持っていた本を積み上げた山に突っ込みつつ、俺に向かって帰れのハンドサイン。
一方で彼に詰め寄っていたらしかった、小柄なハーフアップの少女は、僕を見るやいきなり全速力で駆け寄ってきた。
「逃げろ、波瑠!」
「に、逃げろって――ごへぇ!」
彼女は止まらない。トップスピードのまま鳩尾を的確に捉え、僕をくの字に折れ曲がらせる。
「会いたかったです、ししょー!」
「……龍之介、なにコレ」
ロクに掃除もされていない、埃だらけの床に大の字になりつつ僕は龍之介に問うた。だが龍之介は逃げ損ねた僕を見捨てたようで、本の山から草枕を取り出しつつ嘆くように言った。
「見ての通りだ」
「わかんねぇよ!!」
今度は僕が吠える番だ。がっちり腰から下を少女に押さえ込まれてしまっている関係上、自由になっている腕だけをバタバタ動かして龍之介に抗議の意を示す。
彼はそれを忌々しげに横目で見ながら、大きなため息を吐いた。
「……波瑠。何故、よりによって今日図書室に来てしまったのだ」
「何故って……伊藤さんがもう帰っていいって言ったから、下校時刻には早いけどもう帰ろうと思って迎えに来たんだよ」
僕は時計を見る。まだ最終下校時刻には30分以上残っていた。
「帰って良いだと? たった一日でもう完成したのか、随分な速筆家だな」
「速筆なのは確かだが流石に終わったわけじゃない。今日は下描きだけで、彩色は今からだと時間が少なすぎるから明日に回すらしい……ってそうじゃねぇよ、頼むから説明してくれよ」
気にしないようには努めていたが、異性に密着されているこの状況は色々とまずい。拘束された足を動かして振りほどこうと格闘していると、少女は顔だけ上げて僕を見た。
「本物だ……!」
「龍之介、最近は俺の偽物が出回ってるのか?」
「お人好しの偽物となると偽善者か? それなら日本中に転がっているが」
ダメだ。どうやら龍之介は傍観を決め込むつもりらしい。
いっそこのまま下校時刻まで寝てやろうか。自棄になってそんな思考をしていると、そこで少女はようやく僕を解放した。それから三歩下がって正座になり、深々と頭を下げる。
そうして放たれた元気な声は、放課後の人もまばらになった校舎の中に響き渡った。
「寺木音小春、あなたに惚れました! 弟子にしてください!!!!」
テラキオンって解禁されたら強いとか聞いてたのに全然見ないですよね。やっぱり入手方法が過去作限定なのがダメなんでしょうか。