2.グラデーション。貴方にはどんな色が見えている?
「くだらん」
にべもなく。
甲斐龍之介はただ、バッサリと切り捨てた。
「賞が取れないから絵を辞めたい、か。実にくだらん話だな」
唖然。
夕暮れの帰途、龍之介はいつものように石を蹴り転がしながらそう言った。
「くだらんってお前、そんな言い方――」
そもそも龍之介が巻き込んだんじゃないか、と僕は鼻白む。だが、彼の継ぎ句は僕の異論よりもさらに一拍早かった。
「あれだけ用意周到に現れておいて、肝心の悩みはそれだけか。全く年頃の人間はよく分からん」
「……龍之介? なんの話をしているんだ?」
「何と言われても。ただ彼女が、最初からそのつもりでお前の前に現れた可能性……いや、これは違うな」
龍之介は立ち止まる。それはまるで推理小説の探偵のような、どこまでもわざとらしい演技であった。
「そうだな、言うなれば波瑠に相談を持ちかけるためだけに、お前に絵を落としたという可能性について、だ」
「……は?」
「プライドが高い人間のやりそうな事だ。実際、こちらから問うまで悩みの話は出さなかった」
どこまで本気なのか分からず、僕は彼に向けてただ眉を顰める。もっとも彼もそこまで本気では無かったようで、そんな僕をよそにしれっとまた歩き出した。
「なに、そう言っても推理とも呼べん妄想だ。間違っても本人に言うなよ。とはいえ、いずれにせよ飯時に現れたあの際にはほぼ間違いなく波瑠に相談を持ちかけるつもりだったろうがな」
「……え、そうだったのか?」
「露骨なまでにお前の方ばかり見ていたぞ、彼女。あれで彼女がお前に何の目的も持っていなかったというのは流石に無理があるだろう」
龍之介に呆れられては立つ瀬が無い。流石にこの男よりは、僕は空気を読める人間だと思っていたのだが。
「逆に聞くが……波瑠よ、お前はあの時彼女が叫ぶまで、彼女が悩みを抱えていることに気付いていなかったのか?」
「……うん。全く」
答えた瞬間、彼は引いた。
呆れるでも馬鹿にするでもなく、ただ彼はドン引きした。しかしそれは、決して僕が事実に辿り着けていない事が理由ではないらしかった。
「じ、じゃあお前は昼のあの状況で何故相談役を引き受けたのだ。俺にとっては波瑠のサポートのつもりだったが、当の波瑠からしてみればいきなりの話だった訳だろう」
「あぁ、そりゃもうびっくりしたよ。急に無茶振りしやがってとも思ったけど……でも、その時にはようやく、なんか悩んでるんだなって分かったから」
ぱくぱく、金魚のように龍之介の口が動く。それは間違いなくお人好しと言っていたが、僕は気付かない振りをした。
代わりに、少しおどけた口調で返す。
「でもアレだな。さっきくだらんって言われた時は、流石に思わずぶん殴りそうになったぞ」
「そりゃそうだ。お前目線、完全に俺に巻き込まれた構図になっていた訳だからな」
どうやら僕のお人好しは相当彼のツボだったらしい。右手の甲で口元を隠し、彼は肩を小刻みに揺らした。
彼の毒の抜けたような笑いに、僕は少しだけ申し訳なくなる。
「……その、勘違いして悪かったな」
「謝ることは無いだろう。俺もこんな性格だからな、勘違いされる事には慣れている。それに――」
くつくつ笑いのまま彼は拳を握る。背丈に比例して大きな彼の掌は、丸めて尚巨大に見えた。
「その時は禍根の残らぬよう、俺も殴り返すさ。メロスとセリヌンティウスのようにな」
「シチュエーション真逆じゃねえか、それ」
かたや擦れ違い、かたや友情である。否、僕らも友人関係であるのは間違いないのだが。
「それで? 彼女の依頼はどうなったのだ。辞めるのを手伝って欲しいとは、具体的に」
「見守ってくれ、だってさ」
最後のチャンス。
彼女は一週間後に備えたコンクールをそう称した。
そこに出す新しい絵を描き終えるまで、毎日の放課後に付き合って欲しい。それが彼女の依頼だった。
「――オーディエンス、か」
「ん?」
「芸術家に限らず、創作家とは孤独な生き物だからな。アマもプロも皆観客に飢えている」
なるほど、そんなものか。
努力して作り上げた物なら、そりゃあ人に見られたくなるのが道理なのだろう。
「取れるといいな、賞」
「そう願ってるよ」
龍之介が他人を応援するのは珍しい。
だが少なくとも、彼は混じり気なしに彼女の成功を祈っているらしかった。
例のY字路は、もうすぐそこだ。
**
相談役の朝は早い。
……わけでもない。普通の高校生と同じ七時起きである。運動部の人間と比べればむしろ、遅い部類だ。
ロングスリーパー、とでも言うのだろう。龍之介は普段ギリギリまで眠るタイプらしく、それこそ遅刻寸前に駆け込むことも珍しくはない。一方そんなチキンレースに巻き込まれては困るため、僕は僕のペースで登校するようにしている。
故に、朝は一人である。
校門をくぐって校舎に入り、靴箱を開けてから靴を入れ替える。それから――
「おはよう。いい朝だな」
「うぉっ、びっくりした」
ほとんど無心の流れ作業の中、いきなり投げ掛けられた声に俺は飛び跳ねる。
「おはようございます……えっと、先生」
「おい三世院、さては名前忘れたな?」
「……バレました?」
「國里だ、國里。もう五月も半ばなのに担任の名前を忘れるかね、普通」
白衣に身を包んだ小学生サイズのその女教師は、ハーフアップにまとめた黒髪を掻きながら呆れた顔を見せる。俺はその姿を身長差の関係で見下ろしながら、ぺこりと軽く頭を垂れた。
「人の名前、覚えるの苦手なんすよ。國里鈴先生」
「苗字は忘れた癖に下の名前はスルッと出てくるの、正直めっちゃキモイんだけど」
「ひでぇ……」
忘れられた意趣返しなのだろうが、教師にあるまじき問題発言である。もっともいちいち喚き立てる程繊細な神経は当方に持ち合わせていないし、彼女も僕か理解することを見越した上の発言なのだろうが。
「こっちは全校生徒のフルネーム完璧に覚えなきゃ同僚や主任に色々嫌味言われるんだぞ。なのに全く、お前ら生徒ときたら……」
「まぁまぁ。で、先生が生徒の下駄箱になんの用ですか。職員用玄関なら右に進んで二つ目の角を左ですよ」
「知っとるわい。あたしゃ教員五年生だぞ」
小学五年生の間違いではなかろうか。口には出さず、代わりに僕は首を撫でる。
「聞いたぞ、伊藤ちゃんのこと」
「……早いっすね」
「まぁ、頑張ってるのは知ってたからな」
國里先生は白衣を翻し、とことこと僕の前を歩き出す。言外に着いてこいと呼ばれている気がして、僕も慌てて上靴を履いた。
「担任したことは無いんだけどな。職員室でもたまに話題になるくらいには注目されてたのもあって、あたし自身ちょっと興味はあったし」
「へぇ、先生って絵に興味とかあったんですね。ちょっと意外でした」
「ある訳ないじゃん」
何言ってんだおまえ、という表情で彼女は僕を振り返る。いつの間に咥えたのか、その口にはキャンディが挟まっていた。
しかしそれを舐めているとは微塵も感じさせない流暢な喋りで、彼女は続ける。
「あのな、あたしはピカソの上手さも分からんようなドシロートだぞ」
「まぁ、ピカソは俺も分かんないっすけど……ゲルニカとか泣く女とか」
「だろー? あたし小学校の図工で『ピカソみたいな絵』って褒められたけど、未だにあれ皮肉だと思ってるし」
確かに喜びにくい評価である。もっとも、國里先生の絵が酷すぎた結果による苦肉の表現だった可能性は残るが。
「けど、努力してる奴を応援するってだけなら別に絵の知識とか要らんしな。たまに差し入れとかやったりしてたんだよ」
「……いいんですか、それ。そういうのって普通顧問の仕事なんじゃないです?」
僕は言いながら、僕は昨日の閑散とした美術室を思い出す。もしかすると、あまり活動的とはいえない部活だったのだろうか。ならば國里先生の行動理由もある程度推測できるが――
「まぁ、本来ならそうなんだけどなぁ」
カリッ。
音が鳴る。國里先生が飴を齧ったのだと気付くには、少しだけ時間がかかった。
「無いんだと」
「え?」
反射的に聞き返す。が、その主語が何を指しているかは推測など必要ない程に明らかであった。
だけど。それでも僕は、脳の弾き出した予想を信じきれずに國里先生の言葉を待つ。
「――うちに、美術部は無いんだとさ。言われるまで、あたしも知らなかったよ」
それは、僕にとって霹靂であった。
確かに入学以来、美術部という文字を見たことは無い。しかし野球やサッカーならともかく、美術部が無いという事実は違和感こそあったが、逆に言えばただなんとない違和感にしかならなかったのだ。
「……じゃあ、あの子は」
「聞いたら、空き教室借りて入学以来ずっと一人で描いてたらしい。コンクールの応募とかも学校通さず個人でやってたせいで、モノによっては参加出来ないやつもあったって言ってたな」
舐めていた。僕は痛感する。
彼女の、取り憑かれたような熱意を。
そして、そこまでの努力を放棄するという覚悟を。
どうやら僕は少しだけ甘く見ていたらしい。
「だからさ、三世院」
國里鈴は、飄々とした人間である。
軽佻浮薄ともまた違って、文字通り僕らと目線の近い。そういう教師である。
だからこそだろうか。
彼女の真剣な表情は、僕の心にずしりと乗っかった。
「……あの子のこと、よろしくな」
薄々感づいてる方もいそうですが元々僕が俺ガイル二次創作で書こうとしてたネタの焼き直しです。