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マージナル・ピープル  作者: 篠崎京一郎
Case0.温厚篤実
1/8

Dear.struggle

 苦悩とは青春の季語である。


 知を知り、識を知り、恋を知る過程で、人はその胸に苦悩を抱える。余程の能天気でもない限り、悩みとは成長の糧として平等に訪れるものだ。


 そんな悩みと共に成長し、子供の殻を脱ぎ捨て大人へ変わろうとする彼らのことを、かつて発達心理学者エリク・H・エリクソンはこう名付けた。



 どちらにも属さぬ、中間の存在。

 すなわち――境界人(マージナル・マン)と。



 **



「――聞いてくれてありがとう、またね『相談役』!」

「あぁ、お疲れ様」

 一声と共に、制服の少女は駆ける。

 僕は遠くなってゆく背中を見ながら、どちらへ向けたものかも分からない(ねぎら)いの言葉を吐いた。


 ふと、窓へ視線を移す。

 初夏の柔らかい気温の中、桜は緑混じりの姿を堂々と茂らせている。その威風たる様や、なるほど学びの園にはこれ以上なく相応しい。


「……終わったのか、波瑠(はる)

「ん、今丁度な」

 ほうとその勇姿に見惚(みと)れていると、バリトンの効いた低音が背後から耳に飛び込んで来た。


「いつもいつもご苦労なことだな。給料も出んのに放課後時間いっぱい、教室ひとつ使っての愚痴聴き係とは。お前は一体前世でどんな罪を犯したんだ」

「なに、好きでやってる事だよ」

「あぁ、(まさ)しく物好きだ。変人とも言う」

 くつくつと特徴的に笑う彼の名は、甲斐龍之介(かいりゅうのすけ)と言う。僕の数少ない友人であり、芥川みたいな名前の癖して漱石狂を自称する稀代の変人である。


「それ、お前だけには言われたくねぇな。放課後になるや否や毎日図書室の同じ一席に居座って、漱石の『草枕』を下校時刻まで延々繰り返し読み続けるなんて変人どころか狂気の沙汰だ。前にも一年が怯えていたぞ、そのうち怪談にでもなるんじゃないか」

「放っておけ、じき慣れる。それに俺は草枕を読んでいる訳では無い。草枕に惹かれているのだ」

「どうだか。案外枕草子と入れ替えても気づかなかったりして」

「阿呆、そんな訳あるか。暗誦だって出来るのだぞ」

 乱暴なようで、その実心地よくすらある軽口。

 それを互いに交わしながら、僕は凝り固まった背を伸ばすためぐいと伸びをして廊下を歩き出す。

 バラバラの足音は、赤く染まった鉄筋コンクリートによく響いていた。



 次に龍之介が言葉を放ったのは、靴箱に辿り着いた時であった。



「――のう波瑠」

「なんだ?」

「『相談役』を辞めるつもりは無いのか」

「ははっ……『相談役』なぁ。いつの間にか随分と、立派な名前がついたもんだよな」

 何百回と繰り返した動作をまた一度行いながら、僕はぽつり呟く。


 僕は。

 三世院(さんぜいん)波瑠は、有ヶ峰高校二年にして生徒の『お悩み相談役』である。

 その役職の誕生に具体的なきっかけがあった訳では無い。ただ多分、他人よりちょっと話しやすくて、他人よりちょっと聞き上手だっただけなのだろう。それ以上でも、それ以下でもないと思う。


 とにかく、いつの間にか僕は保健室の先生的存在になっていた。


「……ま、今のところ辞めるつもりは無いな。そもそも辞め方とかよく分からんし、それにさっきも言ったが好きでやってる事だから」

「筋金入りのお人好しだな、波瑠は」

 僕の言葉に、靴箱の向こうから声が跳ね返ってくる。表情は見えないが、歪んだ笑みを浮かべているのがありありと伝わってくる声だ。


「昔から善人は早死すると言うが、棺桶には何が欲しい?」

「うっせ」

 ととん、と爪先を床に叩きながら歩き出すと、ぴったり同時のタイミングで向かいから龍之介が現れる。だが意外にも、その表情はとても真剣なものであった。


「まぁ、冗談はさておき……波瑠、確かに頼られることが悪いことだとは言わん。だが俺の目に連日愚痴を聴かされて疲弊した親友の姿が見える以上、俺としても苦言を呈さないわけにはいかなくてな」

 彼は目を(すが)めつつ、懇々と諭すようにそう言う。元より睨むような切れ長の細目であるが故に、その顔はどこか怒っているようにすら感じられた。


「もう一度訊く。辞める気は無いのか?」

「……そんなに、今の俺は疲れて見えるのか?」

「いや全く? 今のはただの出任せにすぎん、お前が相談役を始めて以降俺は一人で図書室へ行く羽目になったからな。あわよくば戻ってこないかと期待して言ってみただけのことだ」

 思いがけぬ真面目な言葉に気圧(けお)され俺が顔に手を遣ると、龍之介は口角を上げてさらりと言う。


 僕は拍子抜けした。

 全く、詐欺師にでも向いていそうな舌である。


 騙された悔しさか恥ずかしさか、かぁっと体温が上がるのを感じる。僕はそれを悟られたくなくて、憮然とした表情で肩の鞄を掛け直した。

 それから龍之介を先導するようにして、校舎の外へ一歩踏み出す。


「ったく、真面目に聞いて損した。ほらもう行くぞ――」

「波瑠!!」

 龍之介の怒声が耳朶(じだ)を打った瞬間、視界を影が()ぎる。

 それは固まった俺の前を、瞬く間に通り過ぎた。


 ()()()()()


 直後、破砕音。

 思わず目を瞑ったせいで、それの正体が何かは分からない。だが後に続いたカラカラという音で、少なくとも落ちてきたのが最悪の物体では無いことを確信した。


 恐る恐る、目を開ける。






 それは、花畑だった。





 美麗と形容して尚足りない程に美しい、花畑を描いたカンバスであった。

 雨上がりなのだろうか。絵の中心では背を向けたセーラー服に身を包むボブカットの少女が虹を見上げており、彼女の握る手の中と、その周囲には濡れたラベンダーが整然と咲き誇っている。


 まるで、そこにあった雨の匂いや風の音までそのまま切り取ってきたような。それ程までに美しい、見事な絵であった。


「――うわっ!?」

「どうした、波瑠」

 何となく絵の落下元を辿り校舎を見上げた刹那、僕は素っ頓狂な声を上げる。が、その瞬間それは引っ込んでしまい、後には絵と変わらぬ空の青と校舎のくすんだ白が残るのみとなった。


「誰か居たのか?」

「……あぁ、たぶん落とし主かな。女の子が二階に」

 僕は落とした鞄を拾いつつ、彼女の見せた表情を思い浮かべる。

 その間に龍之介は僕の隣に並び、タダでさえ鋭い目を更に鋭くしながら二階を見上げた。


「見えんな」

「その子のことなら、もう引っ込んじまったぞ」

「そうか。まんまと逃げられたわけだな」

「逃げたっていうか……あの様子じゃ、事故っぽかったけどな」

 全身が強ばり、一方で口は力が入らないかのように戦慄(わなな)いていた。あれはどう見ても驚愕の感情だろう。


 だが龍之介は不満そうだ。こちらは対照的に怒っている様子で腕を組む。


「事故なら良い問題でもないだろう。謝罪くらいあって(しか)るべきと思うが……二階と言ったな。行くか?」

「いいよめんどくさい。怪我もしてないし」

「つくづくお前と言うやつは……」

 お人好しだな、とまたお決まりの形容が僕に投げられる。僕はそれに答えること無く、代わりに一瞥だけを龍之介へ与えて校門に足を踏み出した。



 ……さて、皐月の帰途ともなると中々に日が延びてくるものだ。山の端にはまだ、太陽の赤が僅かに帯びて見える。


 僕と龍之介と、その足元から伸びる長い影。四つの姿は夕暮れの中、律動的に揺れていた。


 文字通り降ってきた事件により、互いの間には妙に会話を遠慮する空気があった。だがやはりと言うべきか、それを打ち破ったのもまた龍之介だ。


「……話を戻すが、波瑠」

「おう。そもそも何の話だったか忘れたけど」

「『相談役』についてだ」

 あぁ、そんな話だっただろうか。


「先程の出任せは、何も全てが出任せという訳では無い。自分に向けられたものではなくとも、毎日愚痴という名の悪口雑言を聞き続けるのはやはり、心労が絶えぬものと思うが」

 彼は語りながら、おもむろに足元の石ころを蹴る。それは側溝まで勢いよく転がったが、穴の手前ギリギリで急激に失速しなんとか落下を免れた。


「確かに、聞いてて気持ちいいもんじゃ無いな」

「なら――」

「だけどな、龍之介。愚痴ってのは聞き流すもんだ」

「聞き流す?」

 龍之介は(いぶか)しむ。その歪んだ眉に薄い笑いを返しながら俺は続けた。


「愚痴聴きつっても、適当に相槌打ってるだけなんだよ。相談者の九割は吐き出すこと自体が目的だからな。勿論真面目な相談だったらちゃんと答えるけど」

 相談という名だが、そのほとんどに俺の回答は求められていない。

 彼ら彼女らが求めているのは悩みへの「同情」であり、決して「解決策」ではない。辛い、悲しいと嘆く人間が真に求めている言葉は「こうすればマシ」ではない。「辛かったね」である。


 だから極論、相談役は三種の相槌だけで出来る。

「分かる」「大変だな」「そうだよな」


 たったこれだけで充分なのだ。


 それをかいつまんで説明すると、龍之介はくつくつと面白そうに笑った。


「スピードラーニングみたいだな、ネガティブな語彙力だけはやたらと豊富になりそうだ」

「ははっ、確かに卑罵語の知識は増えたな。知ってるか? アバズレって阿婆擦れって書くから、女にしか使えないらしいぞ」

「それは豆知識よりもむしろ、今時アバズレを暴言に使う高校生の存在に驚いたが……」

 言うと、龍之介は困惑する。確かに彼の様な奇特な喋り方の人間ならともかく、まさか僕もギャルの口からアバズレという単語が出るとは思わなかった。


「まぁなんだ、もし僕が相談の受けすぎで心を病んじまったらさ、その時はお前が相談役になってくれよ」

「相談役の相談役か。悪いが俺は同調など器用なマネは出来んぞ、思ったことを率直に述べるまでだ」

「ははっ、考え得る限り最高なまでの最悪の対応だな。それでこそ甲斐龍之介って感じだ」

「そうだろうそうだろう。そんなカウンセリングを受けたくなければ、せいぜい己の心を病まんことだな」

 素直でない、鋭利で優しい言い回しに思わず頬が緩む。

 果たしてこれが彼なりの激励だと、どれほどの人間が気付けようか。もしも噂の対象が僕ではなく龍之介だったら、相談役なんてシステムは三日で消失していたに違いないだろう。


 Y字路に差し掛かり、そこで僕達の律動は一時止まる。


「……っと、じゃあ僕こっちだから」

「明日も頑張りたまえ、相談役」

「ああ」

 日はようやく沈もうとしている。

 僕達の陰は、もう家々のものと境目がわからなくなってしまっていた。



 空を見上げると、目尻に一滴の雫が垂れる。


 どうやら、一雨来そうだ。

 壊れたカンバスのことをふと思い返しながら、僕は少しだけ早足になった。

一応4つくらいエピソード用意してたんですが、うち3つは他の世界観で書きたくなったのでこのエピソード以降の更新予定がありません。ごめんね。

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