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生命の咆哮  作者: 橘麒麟
海の眼
1/1

海底の乙女

初めは必要のないことだった。けれど必要になってしまった。

真っ白な網目の壁が彼女の目に迫っている。真っ白な部屋。音はなく、声もなく、ただ透明な蜘蛛の巣のような言葉が彼女の視界に映り、漂っている。

「君は一体誰なんだ」

蜘蛛の巣の網目は問いかけた。

「格好のいいことが、一番いいんだ」

彼女は答えた。それ以上言葉の網目は問いかけなかった。


アミメの家は水色の池の水滴だった。


ほとりと雨が落ちれば、ポトンと跳ねる水滴の中にアミメは生きている。暖かい場所だった。机があり、箪笥があり、ベッドがあり、もちろん絨毯もあって、アミメは自分の家の中で不自由なんて考えたことはなかった。

彼女は朝なので。起き上がって、ウィスキーを飲んだ。そうしなければならない。それが水滴の中の法則なのだ。

「コンサータ!」

彼女は叫んだ。世界中のネズミが身震いした。地下鉄の不思議な箱が震えて、蓋を開けようとした。少年はそれを見つめて立ち尽くしていた。


アトランティス。

彼女は水色の艶やかな支柱をみて、右下に視線を逸らした。彼女の名前はアミメ。目の前にいる、金色の王冠を持って、真緑の銛を持った人間がコンサータというアトランティスの王様。


アミメは跪いて、大理石に大きな部屋の冷たい床に額と手足をつけた。辺りではサンゴ礁がアトランティスの水質を喜び、薄緑色の触手を宮殿の外郭に沿って這わせている。宮殿の輪郭に合わせてサンゴ礁の胞子や職種はエロースによって蠢き、アミメに届くことはない。まるで宮殿の形は全てサンゴ礁の生命活動が作り上げているようだ。ひとつの針ぼったい触手がしかし、一人の人間を毒牙で刺して殺した。アミメは洗っていない髪のタンパク質の香りを嗅いだことでそれを知った。


アミメの太ももは徐々に、徐々に大理石によって熱を奪われていった。もちろん彼女の心もそうだった。アミメの海に浸かっている体はたくさんの熱を奪われて、太陽の光を思い出すことがなかった。

コンサータ王はくしゃみをした。そして鼻水を海水で吹いて、海流を生み出し、魚たちの鱗を撫でた。彼はガンと銛の柄で海底を叩き、アミメの目を睨んだ。彼は大きな声でこう言った。

「お前は罪を犯した。お前が生きていることが罪だ。生きていてはならない」

「それはなぜですか?」

「なぜか。お前がなぜかと聞くからだ。もしくはお前が今を生きているような人間に私は思えるからだ」

「なぜですか。私は罪を犯した覚えなどない」

「それが罪なのだ」

「覚えがないということが?」

「その通りだ愛しの娘であるアミメよ。覚えていないということ以外罪になり得ない。それは自分の罪悪感に向き合えば自ずと分かることだ。だからお前はアトランティスから出ていかなければならない」

コンサータ王はガンと海底を叩いた。アミメは髪を洗っていない人間なんて死んでしまえと思った。コンサータ王は髪を洗っているのだが。


罪人としてアミメは問いただされているものの、アミメに罪を犯した覚えはないし、ただ強いているなら王の海中熟成酒を売り飛ばしていたことか。アミメはウォータープルーフのスマートフォンを持っていたから、地上の人間に珍しい酒を売ることは難しくなかった。


それにアミメはコンサータ王が言っていることに異論はなかった。ただアミメを悩ませているのは、なぜ自分が死ぬのではなく追放されるのかということだ。

アミメは刹那のうちに考えることなく、以下のことを頭の中で処理した。


ー自分は死んでしまった方がいいわ。だって生きていることというのは、朝起きて、化粧をして、外に出て人に挨拶をし、笑顔を作って、悲しい人に優しさをかけて、云々。という矛盾したことばかりなんですもの。死というものが最も確実なものだわ、だってその先に何も存在しないんですもの。宗教というものは、死というものを罪にしちゃうんだから、そんなことってないわ。厳正に人々を縛りつけようとする、世の中にあって最も醜い悪手よ。人間らしさを否定して、宗教というものは何が楽しいのかしら。


「異論はあるか?」

「ありません」

アミメは王に礼を言って、王宮を出た。


誰もアミメのことを見ようとはしなかった。壺の中の蛸も頭上を優雅に泳ぐ抹香鯨の群れも。海の生物なのだからしょうがない。けれど、アミメにはそれがとてつもなく寂しいことのように今日は思えた。全ての生物が相手を必要とするのに、相手を必要としたことがないという事実と同じように。


アミメは海鷂魚のお爺さんに、抹香鯨には方言があると聞いたことがある。彼らは海の中に響き渡る一定の振動というものを解釈する。海鷂魚のお爺さんは続けて言っていた。

「アミメ。お前は美しい人魚だ。地上の生物には人魚姫という物語があると聞く。信じなさい、私はお前より長く生きているのだから。お前は美しい人魚だ。なぜならお前は若い。泡になる可能性も、恋人と結ばれる可能性も現在に内包されている。それより何より、お前は世界の振動を聞く力がある」


ーなのになぜ私は悪い人間として今生きているのかしら


アミメは一瞬海鷂魚のお爺さんを憎んだ。

アミメは静かな場所に行きたくって、王宮の前の商店街を抜け、石造りの鳥居を抜けて、虹色のサンゴが囲む何もない砂床の上に立った。静かだった。ざわざわと幾らかの鮫がワカメや水流の流れに体をこすらせて、泳いでいる音がする。周りで多くのサメが回遊している。そのことが王女としてのアミメをひどく落ち着かせた。だって鮫たちは人を殺したことがあるのだ。地上の人を。食らっていたことがあるし、もちろん海の生物をよく食べる。母の胎内で兄弟を食い殺すし、その記憶は今でも残っているのだろうから。アミメは鮫を美しい生物だと思っていて、小娘である頃からよく鮫のお父さんや、妹、弟がいる場所に遊びに行っていた。そしてアミメは彼ら、彼女らのことを最も美しい生物だと思う。

「あ」

アミメが鮫たちを見たいと思って、若干の罪悪感を感じながらも珊瑚礁に紛れてこっそり覗いた時、アミメはスマートフォンを落とした。スマートフォンからジョー・ボナマッサのThe Valley Runs Lowが流れた。静かなブルースが真っ透明な海水の中に響いていく。鮫たちは神々しいほどの群体で泳ぐ鮪たちを踊るように食らっていく。アミメは自分の体を抱きしめた。彼女は17歳だった。やがて赤い血が古いイソジンのうがい液がコップの中に滴っていくように、海の中に滴っていく。その光景は地震を予感させる縦長の雲が中学生の野球を見ている、恋する乙女の目に映るようだった。アミメは己の金色の髪を撫でて、アザミサンゴに目線を落とした。やがて一匹の小さな鮫がアミメに一匹の鮪を持ってきた。アミメはその小さな鮫の鼻を優しく撫でて、お辞儀をした。鮫は去っていった。アミメは鮫たちがするのと同じように、鮪を食った。出た血を顔に塗りたくって、スマートフォンを拾った。アミメの心はもう決まっていた。決めるということは、決めた時初めて決まるのだ。


ー鮫の国へ行って、私は地上の国へ鮫ほどの凶暴さを持って出ていく。そしてアトランティスの億万の民を時間というものから消し去ってしまう。私のことも、もちろん。キリストが十字架にかけられた時のように。


鮫の国 人々の死骸 墓の中の人魚 ブルックナーの霊廟


アミメはゆっくり泳いで、鮫の国へ向かった。ワカメの森を抜けて、カミナリサザエを時々とって食べ、鮫の国へ向かった。アミメの金色の髪は時折暗礁に引っかかって、引き抜かれた。アミメはそんなことを気にしなかった。憂鬱な感情がアミメを襲わないことが、アミメにとっては辛いことだった。それでもアミメは泳ぎ続けた。


アミメはやがて鮫の国にたどり着いた。それは長い道のりだった。海のあぶくが、サンゴの棘が、全ての青いものがアミメの肌を切り刻んだ。彼女の真っ青な顔は血の赤に染まって、金色の髪は水流によって乱れていた。


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