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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

叩かれるドア

作者: だんごむし

 私は三本目のタバコを灰皿に押し付けながら窓の外に視線を向けた。湿度を含んだ風が窓枠をカタカタと揺らし、その向こうには雲が波打つ灰色の空が広がっている。通りに目を落とせばやはり灰色の石畳に、風から身を守るように首をすくめた人たちが歩いてゆくのが見える。金の縁の眼鏡をはずして片手で顔を覆うと、渇いてしわの刻まれた肌と肌がこすれあう奇妙な感触がした。ため息をついて冷めたコーヒーを一口すする。苦みが眠ろうとする意識を無理やり引き上げていって、口の中には心地の悪い酸味が残っていた。書きかけの原稿と時計を見比べる。まだ時間はあったはずだが、私はこの仕事を早く片付けてしまわないといけないと感じていた。

 万年筆を持ちなおして原稿に向かい「彼は」と続けてみるが上手くいかない。原稿用紙が石でできたそれのようにインクを受け付けないかのようで私は万年筆を原稿から持ち上げてしまう。憂鬱な空の灰色が家の隙間から部屋に入り込んできて、ストーブの燃える音をかき消していた。炎は今や色を失い、部屋の中に積み上げられた蔵書が悪魔か何かの影を作って私にのしかかってくるようだった。それにどうだ、壁にかけられた中折れ帽のくたびれ具合といったら私の比ではない。この部屋の何もかもが私の敵か、もしくは中立の立場をとって私を監視している。それも原稿が仕上がっていないせいだろう。万年筆の尻で机を鳴らしてみるが、そこから言葉が生まれることはない。

 諦めたように先ほど書いた「彼は」という文字を消す。万年筆のペン先は谷のようにぐわと開いて、黒い筋が「彼は」を飲み込む。ここからどう続けるべきだろうか。物語に出てくるその男は今光の射さない地下の倉庫で何者かを待って息をひそめている。「季節は夏」で、外は「死んだように静か」だ。彼は今「地下倉庫の隅で」震える息を必死に押しとどめている。私も同じく何者かを待っていた。もうすぐ編集者が原稿の確認がてら我が家にやってくることを思い出す。この仕事を早く片付けてしまわなければならないと感じていたのはそのためらしかった。どこか他人事のようにぼんやりと考えて、またコーヒーを一口すする。メガネをかけなおして原稿用紙を見つめ、これまで書いた彼の足跡を想像の中でたどった。「恐怖が彼を襲い」身震いしてその場に「ナイフを取り落とした」。万年筆を原稿用紙の横に置いて、彼の足跡を詳しく調べようとするがうまくいかない。割れた爪で文章をなぞれば、それは見えない筋となって文字と文字を数珠つなぎにする。「がらんとした空間に、金属と石が反発する音が響いた」ので、男は驚いてその場から逃げ出そうとさえする。それを何とか「意思の欠片をもって押しとどめ」ると慎重にナイフを拾う。どこか引っかかる表現を見つけ、万年筆を掴んで小さな校正をする。

 薄暗いこの空間で、男は黙って階段を見つめている。じきにそこから彼の宿敵であり恋敵でもある青年が現れるはずだった。男は青年を殺すのだ。原稿を一枚めくってもそこにあるのは陰気な地下倉庫の空気だけで、私は息がつまりそうだった。影の悪魔が私の両肩に手をかけて押しつぶさんとしているかのようにも感じられた。絶望的な気分だった。文字と文字の間には計り知れない時が流れていて、それが男と私の感覚を苛め抜くのだ。私は私を襲うこの感覚から逃れようと身をよじったが、目は原稿から離れてはくれない。仕方がないと口を結んで続きの校正を始めた。

 途端に詩の一文やら昨日就寝前に読んだ本のことなどが頭に流れ込んできて、集中しきれていないことが分かる。ともかく私はこの男の冒険を終わらせてやらなければならない。男は気のよさそうな青年が男を探して地下倉庫の奥へ歩いてくるのを待っている。「足音が壁に反響して必要以上に大きな音を立てる」と、男はナイフを一段と強く握りしめるのだ。青年が近づいてきたら倉庫の隅から猛獣のように飛び出してその首筋にナイフを突き立てるつもりだった。それまでじっと待たねばならない。私は難しい顔をして原稿用紙の行を追う。黒い文字が虫の標本か何かのようにして並んでいるのは言い知れないほど醜悪だ。地下倉庫にも虫はいて、しかし今は「男に遠慮するように」遠くの床を這っている。私は万年筆を取って、男の目的が達成されるよう手助けをしてやるのだ。

 男は青年に躍りかかるとその胸を殴りつけてもみ合いになった。青年の青い瞳が暗がりの中で鈍く光るナイフを捉え、見開かれる。両手を顔の前に突き出して自衛しようとする青年の、白い皮膚をかいくぐって今鈍色のナイフが首筋に迫る。男は青年よりも強く、狡猾で、陰気で、興奮していた。私は男と一緒になってもがく青年を見下ろしている。みぞおちに膝を押し込んで青年を床にくぎ付けにすると、私は「鮮血がほとばしる」のを見た。男の手は妙な感触を覚えている。筋肉と血管と、そして皮膚を一緒くたに引き裂いた時の奇妙な感触だ。それは彼が普段肉を調理するのに似ていたし、アウトドアで木の枝を掃うときの感触にも似ていた。青年は二度三度上体をのけぞらせた後木枯らしのような呼吸音をさせながら死にきれないでいる。私はこの青年を楽にしてやらねばならないだろう。

 インクは今度こそ原稿用紙に染みていくので、私は青年の命が失われる様を克明に描き出すことができた。男は首を刺すが早いか青年から離れ、私と一緒に青年が絶命するさまを眺めている。男はある種の野性的な興奮と一線を越えた恐怖とを一緒に味わって口元を歪めて歯を鳴らしていた。喉はカラカラに乾いていて、一杯の熱いコーヒーがとても恋しい。それさえあればこの悪夢からも目覚められるような気さえした。影が小刻みに揺れて私の背に圧し掛かってくるのにその重さを感じることはできない。

 男は次の行動に移らねばならず、それは私も同様であった。あらかじめ用意してあった黒いビニール袋を引っ張り出してくると、今度は斧を使って青年の首、関節、胴体等を切り刻んでいく。骨と骨が断絶される悲鳴にも似た音がしたところもあれば、いやに柔らかくて刃が上手く通らないようなところもあった。振り乱された茶色の強い金髪は赤く染まっているだろうが、それは男とて同じことだった。喉の乾いた人が腹ばいになって川から直接水を得るのと同じように、男は腹ばいになって内臓の川を丹念に調べている。粘性のある液体が足を滑らそうとするから腹ばいになって安定を得なければいけないのだ。黒いビニール袋の中に青年を詰めてゆけば、血と肉は底に溜まり、ビニール袋はたちまち怪物の胃袋となる。

 夢中だった。男が恐れていたのは警察でもガールフレンドでもなく、今殺した青年だったからだ。私は男が青年を処理できるよう手順を記してやると、男はその通りにかつての友人を解体し肉塊へと変えていく。私と男とは共犯だった。血の滴るビニール袋数個を木の箱に詰めると、男は苦心してそれを地下倉庫から持ち出す。上の階は男の自宅になっており、彼は夜を待って死体をどこかに捨てるつもりだったのだ。箱を地下倉庫の出口に置くと、男は血まみれのまま箱の上に座り込んだ。早く身を清めなければならないし、地下倉庫の掃除もしなければならない。死体を捨てるためのスコップやロープ、地図などはもう車に積んであるはずだった。私はコーヒーを飲み干すと男がシャワーに向かいしつこくて忌々しい「汚れ」を落とすのを待つ。三十分間じっくりとシャワーを浴びた男は服を着替えると夜を待つために窓の外を見た。窓の外はすっかり日が暮れて、家路を急ぐ人々でよりにぎわっている。私はその中に編集者の影を探してみるが見つけることはできなかった。

 食欲のない男は夕飯も摂らずに部屋の中をうろついていて、私はその様子を描きながら苛立ち、万年筆の尻で机をたたく。コーヒーはなく男は小さな物音にも怯えている。やがて外はすっかり暗くなってゆき、私たちは準備のために立ち上がる。すると、突然ドアを打ち鳴らす音が聞こえてきて男をまた怯えさせた。私はドアを開けようと歩きはじめる。男はそれを止めようと走り寄ってくるが間に合わない。私は男を裏切って客人を部屋に迎え入れる──

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