Aq89534世界 ラシア連国 【衰弱】
まるで頭の中をグチャグチャにかき混ぜられているかのような感覚がした。
カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン。
強いて言うなら似ているのは踏切の遮断機の下りる音。
実際にはそれを何倍にも不快にしたような、非常に不気味な音が頭に鳴り響いている。
機械に寝そべり、身体を固定され、何の目的の検査かも分からないままに絶えず流れるその音を頭の拘束具から流される。
一見して医療器具にも見えるそれが、とてつもなく恐ろしかった。
「あ、ああああ。」
いったい、何時間が経っただろう。
いったい、何回こういったいくつもの実験を繰り返さなければならないのだろう。
意図せずして、我ながら情けない声が漏れた。
本来の予定では、このAq89534世界の予想滞在猶予期間は約50日。
私がこの世界で目覚めてから、現在で既に60日が経過した。
50日を迎えるまでは、滞在猶予期間が切れるまであと○日だという具体的な見通しを持つことで精神力を保つことができていた。
しかしこういう時に限って大幅にずれる滞在猶予期間に、焦りや不安が生まれるのは仕方のないことだろう。
もしかしたら、このわけの分からない実験設備が私の意識が離れていくのを阻害してしまっているのかもしれない。
もしかしたら、器の不具合等と重ねて重大な干渉事故に巻き込まれてしまっているのかもしれない。
もちろんそんなことは一切なく、あと1日や2日であっさりとこの世界から解放されるのかもしれないが、弱り切った私の頭では悪い方向にしか考えられなかった。
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「流石に、最近は疲れが見えてきたわね。
少しだけ、ゆっくりしたペースで勉強しましょうか。」
「……はい。」
私はこの世界に囚われ続けている限り、きっとこの部屋から出ることはないだろう。
それどころか下手をすれば、死ぬまでここから出られることはないだろう。
なら、今覚えた知識はいつ使うのだろうか。
……いや、きっと使えない。
そもそもここで私に勉強させるのは「ヒトと同じ記憶力・知能があるかどうか」のデータをとるためで、私のためでは決して無いからだ。
そう考えてしまうと、唯一楽しみにしていた学習実験の時間でさえ苦痛を感じるようになってしまってきていた。
「ねえターニャ。」
「どうしたの?」
「私は、この狭い世界から出れないの?」
我ながら本当に馬鹿みたいな質問。
こんなことを聞いても、答えはわかりきっている。
けれど疲れ切った精神状態のせいか、少しだけ期待を持って聞いてみた。
「……そうかもしれないわね。」
私の呟くような質問に対して。
弱々しい微笑みを浮かべてターニャは答えた。
わかってはいた。
あまり悲しくはなかった。
……いや、嘘だ。
本当は、どうしようもないくらいに悲しかった。
それこそ思わず涙がこぼれてしまうくらいに。
「さあ、気持ちを切り替ええましょうか。ちょっと傾向の変わる問題でも解きましょう。
次の問題だけど、こんな公式がでてくるのよ。」
そう言ってターニャはノートに新しい公式を書き始めた。
のではなく。
『他の研究員に聞こえているから口に出しては言えないの。
けれど、アナタは必ず助け出してみせるわ。』
ノートに、そう書いた。
「あら、ゴメンなさい。ちょっとここ間違ってたわ。」
茶目っ気たっぷりにウインクを飛ばすターニャ。
そして文を消し、新たに本当に公式を書く。
まるで何事もなかったかのように問題の解き方を指導し、類題としていくつかの問題を私に提示する。
「どう?理解できそうかしら?」
「……はい。」
私は頷いた。
まだまだ頭の中は混乱していたけれど、返事だけはした。
「あらあら、集中できてないじゃないの。
新しい問題だからこそ、考えるより筆を走らせなきゃダメよ。」
「はい。」
「あなたはできる子よ。ちゃんと分かっているから。」
「はい。」
ターニャは私を拘束し縛り付ける者たちの一員だから、私は心を許しきらずにいた。
けれど弱り切った私に手を差し伸べた彼は、私を救ってくれる人物なのだと言う。
ならば私は心を許そう。
「あら、もうこんな時間。
それじゃあ、今日のお勉強の時間はここまでね。
また次の学習実験の時間を楽しみにしているのよ。」
「はい、わかりました。
……ううん、わかった。
わかったよ、ターニャ。」
「……やっと、敬語。外してくれたわね。」
お願いです。
お願いですからこの人の優しさが、嘘偽りで固められたものでありませんように。
お願いですから、私をこの閉ざされた世界から救い出してくれますように。