Aq89534世界 ラシア連国 【事故】
合同任務を終え、同じ研修の身の仲間を得た。
巡った世界の数がついに十を数え、研修の終わりが見えた。
様々な感情が渦巻く中で、しかし任務は待ってくれない。
そして蓋を開けてみれば今回の任務は私の単独任務、それも研修課程の大詰めということだった。
今回は単独任務と言ってもA世界。
さくっと任務を達成して、余った滞在猶予期間で少し頭の中を整理したい。
そんな雑念が悪かったのかもしれないが、そんなことは今さら考えるだけ無駄だった。
私はエージェントIh014。
しかしこの世界において、私に名前は無い。
「おはよう、実験体I。」
私がこの世界で目を覚ました時、私の身体は既に研究対象だった。
それはなぜか。
なぜなら私の背中には羽が生えているからだ。
摩訶不思議な術や法則とは限りなく無縁なAの世界では、背中から羽の生えた人間なんてそれはそれは珍しい。
だから目覚めて既に一か月が経った今の今まで、私はこの研究所から一歩も外に出たことがない。
エージェントの意識が世界線を超える時、その意識が入り込むための器には細心の注意が払われ、限りなく自然な形で現地の世界に溶け込むことができるように配置される。
しかし世界に干渉するという性質上その精度は絶対ではなく、極稀に、今回のような特殊なケースが起こるのだとか。
そう、奇形といった形で器に支障をきたしたり、目を覚ます前から現地人に捕らえられている今回のようなケースである。
事前に可能性の一つとして聞いたことのある話ではあったが、当事者としてはまったくたまったものではない。
私が捕らえられている実験部屋の中。
窓のないこの部屋では、起きてすぐには今が朝なのか夜なのか分からない。
ただ、ガラス張りの向こうにデジタル時計が見えるため、時間は分かる。どうやら今は朝の7時らしい。
ガラガラ、と朝食が運ばれてくる。
ガラス張りのこの部屋の中に入ってくる配給係の研究員は防菌服にヘルメットとフル装備。
こういった扱いを見る限り、私はヒトとしては認められていないのだろう。
ガラスの向こうからの視線を受けながら、別段おいしいとも思えない朝食を食べる。
そして食器を片付けに来た研究員に、ひと言告げられた。
「今日はこの後、昼まで学習実験だ。準備を整えなさい。」
昼までということは約5時間ほど。
今日は学習の時間が多いのが救いか。
「さあ、楽しい楽しいお勉強の時間ですよー。」
飾り気のない全面ガラス張りのいかにもな実験部屋の中に、野太い声とともに白衣を着たオカマが入ってくる。
知能がヒトと同じかどうかの確認なんていう理由らしいけれど、勉強する理由はどうだっていい。
「この時間は数学を中心に教えてイクわよぉ。」
無精ひげを蓄えたこのターニャと名乗る男?と勉強するのは、けっこう楽しかった。
少なくとも機械に何時間も繋がれて観察されているより、実験と称して体を傷つけられるより、ずっと楽しい。
「試しに小学校レベルの問題から確かめていったのに、危なげなく解いてきたからねえ。
二次関数の平方完成で躓くなんて、歳相応なところがあって安心したわ。」
「……今ならちゃんと解けますよ。」
「負けず嫌いなところ、好きよ。
ただ、いつまでも他人行儀で敬語を使うのはいただけないわよねえ。」
「善処します。」
「まぁったく、もう。」
ターニャのことは決して嫌いではない。
絶望的なこの空間において、彼は私にとって癒しとすら言える。
この男は他の研究員と違って私を差別しない。
いつも学習指導係としてこの部屋に入ってくるターニャは、屈託のない笑顔で私に微笑みかけるのだ。
「ここでさっき出したcosθを式に代入するわけね。ここまでは分かる?」
「はい、なんとか分かります。」
彼の人の良さに加え、勉強すること自体が楽しい。
この学習実験の時間は、現状の唯一と言っていいほどの楽しみといっていい。
ただ、それでも彼が私を拘束し縛り付ける一員であるという事実に変わりはなく、私は心を許しきらずにいた。
そして、未だ任務の遂行どころではないこの状況。
せめて滞在猶予期間が終わるまでに実験と称して殺されないことを、私は祈るばかりだった。