Ds12166世界 役職の箱庭 【格上】
――刃が届く前に、一方の影は どぷん と地面に溶ける。
そしてもう一方の影は驚くことに、手に持つ重厚な得物でこちらの攻撃を受け止めた。
まさか、この一撃で仕留められないとは。
動揺が無かったと言えば嘘になる。
けれど既にそんなことには気を割いていられない状況にあった。
僕は即座に闇の霧を……!!
「くっ!」
「あら、よく避けたじゃない。
アタシの溶解液、魔法じゃないからその霧じゃあ防げないわよ?」
すんでのところで、かろうじて転がるように避ける。
額から顔をつたう嫌な汗を拭く余裕すらない。
「ご丁寧に解説をどうも。
余裕じゃないか。」
「ええ。余裕ですもの。
ところでいいの?アタシだけに意識を割いて。」
人里離れた荒野。ぽつりぽつりと大岩が存在することを除けば、視界は良好。
目前には毒々しい緑色をした一匹のスライム。ただし人型で、腹の立つことにアイに似た雰囲気の姿をしている。
そしてもう一匹、さきほどまで視界の隅にいたはずの小鬼はいつの間にか消えていた。
「っぶねえ!」
「おお?よく防いだな、おまえ。」
視界に入らないということは、透明化だなんて反則技を持っていない限り上か下だ。
頭上に振り上げた魔剣が、悲鳴をあげながらも小鬼の金棒の振り下ろしをなんとか受け止めた。
しかしその時には既に溶解液がこちらに向かって飛来している……!
「っ!!!」
間一髪のところで飛び退いたものの、かすった程度にも関わらず漆黒の鎧の脇腹当たりが一部溶けていた。
……まいったな。魔剣ともども必死の思いでなんとか手に入れた、伝説級の鎧なのだけれど。
「おい、スライムてめえ!今オイラを囮に敵もろ共溶かそうとしただろう!?」
「ええ。何度言ってもアタシのことをスライムと呼ぶ不躾な小鬼ですもの。
アーシー様からいただいた名を無視する不届きものなんて、事故で溶けてしまっても仕方ないかなあって。」
「へいへい!わかりましたよスライム・オルタさんよ!」
冷汗を流す僕の前で、まるでコントのような掛け合いを始める二匹。
――僕は、自分の力量を過信しない。
その「はず」だった。
本当にまいったな、こいつら二匹とも格上だ。
「まったく、たかが人質を取るのでさえも一苦労だ。
トップエージェントともあろうものが、我ながら情けない。」
聞こえても聞こえなくてもかまわない、そんなつもりでただの独り言として呟く。
鎧の一部に穴が開いたのはむしろ好都合だった。
鎧の内側に隠していた小さな袋を手に取りながら、次の一手を考える。
「お、どうした。まだ足掻くか?それとも降参か?」
流石に抜け目がなくて嫌になる。
脇腹を押さえるように見せかけて指先を鎧の内側へと腕を伸ばす、その本当に小さな動作でさえ逃すことなく、言い争っていたはずの二匹の眼がしかとこちらを見つめている。
「いや、降参する気は無いよ。ただ、流石に分が悪い。
今日のところはこれくらいで退かせてもらいたいな。」
「あら?逃がすとでも?」
「ああ、逃げさせてもらうさ。」
勢いよく袋を地面に投げつける。
するとあたりは視界を阻むピンク色の煙に包まれた。
これで視力はお互いに使い物にならない。
「おお、煙幕か!?
敵さん、逃げやがるぜ!」
「馬鹿ねえ。逃げたと思わせて、虎視眈々とアタシたちの命を狙ってくるわよ。
警戒なさい。」
「そういうことか!了解!」
ご名答。
だが、次の一手が読み切れるか!?
「先生、行きます!!」
突如として響くアイの声。
否が応にも二匹の意識は声の先へと向いたはず。
そして次の瞬間、ピンクの霧が晴れた。
――ピンクの霧の正体は、児童向け魔法菓子シュガースモッグ。
悪魔印の収納袋にありったけ詰められた、Aa世界でいうところのわたあめに類似するそれは当然食品だ。
だからこそ時間経過ではなく、アイの固有スキル【神速喰い】で一瞬にして晴らすことができる。
一瞬にして一転する視界。
遠方に現れた増援と思しき女性。
奴らの思考が追いつくまでの、一瞬の隙。
もらった!!
口に出すほど愚かではない。心のなかだけでそう叫ぶ。
そしてアイとは反対方向、奴らの死角から小鬼の首めがけて剣を薙ぐ!
「ぐっ……くくくっ、惜しいなあアンタ。
けれど鬼退治とあっちゃあ、ちぃとばかし力が足らねえよぉ。」
「ぐがっ……!!」
何が起こった。
いや、答えは簡単だ、単純に力が足りなかった。
小鬼の首からは確かに血が噴き出ている。
しかし僕の渾身の一振りは小鬼の首を切断するには至らず、小鬼はそのまま金棒のカウンターを放ったというわけか。
今さらながら恐るべき相手だ。
そして悪いことに、視界がぼやけている。
「せ、先生!避けて!!」
アイの悲鳴にも似た叫びを聞いて、攻撃の正体もわからないままふらつく身体に鞭を打つ。
真横に転げるように避けると、僕の元居た場所には毒々しい緑とまるで爛れたような地面が見えた。
危ない。あと少しで死んでいた。
「うおおおおっ……!」
追撃を警戒し、多少の無理は承知の上で自身の身体を奮い立たせる。
大丈夫だ、相手の攻撃が打撃であったこと、そして鎧が優秀なことが相まって、少なくとも多量出血を伴うような致命的なダメージにはなっていない。
何ヶ所かの骨が折れているのか、動くたびに激痛が走るが動かない部位はない!
「まったく、流石に冷や汗かいたわよ。仮にもスライムに汗なんかかかせないでちょうだい。」
「お?なんだ、心配してくれんのか?」
「当たり前でしょ。いくら悪態ついたところで、アタシたち仲間なんだから。」
追撃は、溶解液の一撃だけだった。
それもそのはず、戦闘態勢を整えていたのは何も僕だけではない。
スライム・オルタと呼ばれた彼女の身体は毒だけでなく、軟膏剤の働きでもするのだろうか。
小鬼の首の傷は決して浅くはなかったはずだ。
にもかかわらず、既に小鬼の血は止まっている。
「ははは、勘弁してくれよ……。」
流石にこれは、覚悟を決めた方がよさそうだ。
飛びそうになる意識を精一杯に引き止めながら、久々に、そう感じた。