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第六話 温泉と保養(後編)

◇◇◇◇


 そして浴場である。

 露天なそこは、さながら巨大な大理石のプールであった。

 女神の像が担ぐ甕から、温泉が滔々と流れていた。

 まさに贅の限りを尽くした、絢爛豪華な作りと言えた。


 ちなみに、天気は雲一つない快晴である。

 空の青に石の白が映えて、初夏の季節に合致していた。


「待て待て! そんなに急ぐなよ!」

「何をモタモタしているのです?」


 ジーンがサラに連れられて、更衣室を後にする。


「どうでもいいから、前を隠せ! 前を!」


 サラから顔を背けながら、怒鳴るジーン。


 そんなジーンの指摘は、サラの格好である。

 あろうことか、サラは素っ裸であった。

 浴場であるから当然なものの、男を前にすることではない。


「何を今更。私の裸なんて、何度も見ているでしょうに……」

「せめてナオミくらいの慎みを持て!」


 サラの言い分に、ジーンがナオミを指さした。


「アハハ……」


 乾いた笑いでナオミが答えた。

 特大のバスタオルで、ナオミは体を隠している。

 その顔はジーンを意識して、紅潮していた。


「貴女も何を遠慮しているのです」


 言って、サラがナオミに詰め寄った。


「ほら、そんな物外しなさい」

「え? あ、ちょっと! めてくださ~い!」


 サラが引ん剝こうとして、涙目なナオミである。

 幸いにも体格に物を言わせて、ナオミは抵抗に成功した。


「いい加減にしろ、このバカ女!」


 ジーンが言って、サラを持ち上げた。

 もっとも、状況が状況なせいで、両脇で抱える格好である。


「まったく、貴方たちときたら……」


 ジーンに下ろしてもらうや否や、サラが毒づいた。


「私たちは、これから家族になるかもしれないのですよ? しょうもないことで、恥ずかしがってどうするのです?」

「いや、それは流石におかしい」


 サラの問いかけに、ジーンが目を背けたまま否定した。


「『親しき中にも礼儀あり』だぜ。せめて恥じらいくらいは持っておけよなー。これ、夫婦円満の秘訣だと思うぞ」

「ふむ、なるほど……」


 ジーンが諭し、サラが納得する。


「貴方の言う事にも、一理あるかもしれません」

「だろ?」

「ええ。何せ、私には母親という物がいませんから」

「え? ああっ!」


 サラの答えに、ジーンが焦った。

 

 サラには母親がいない。

 幼少期に死別したサラは、物心がつくまでは使用人に育てられた。

 その後、父親の再婚に伴い継母は出来たものの、サラはその継母の手によって殺されかけたのである。

 

「……すまん。嫌なことを思い出させちまった」


 頭を下げるジーン。


「いいえ。別に、恨み節をぶつけたつもりはありません」


 サラが続ける。


「ただ、円満な夫婦像というイメージが湧かなかったものですから。盲点だった――それだけの話ですよ」

「……そうか」

「ええ。貴方も、たまにはいいことを言う」

「俺はいつでも、正論しか言っていないと思うんだが?」

「あの~」


 二人の会話を遮って、ナオミが言った。



◇◇◇◇


「これって、そのまま入っていいんですか?」


 浴槽を指さすナオミである。


「いいえ。まずはかけ湯をしませんと。出来れば体をちゃんと洗ってからですね。こっちへ来なさい。

「あ、はい」


 サラが言って、ナオミを壁際まで引っ張った。


「俺は向こうで洗ってくるからな!」


 ジーンも続いて、その場を後にした。


 果たして、浴場の壁際は鏡張りの洗い場になっている。

 人の背よりも高い位置には、湯が流れっぱなしの蛇口があった。


「これって、どういう仕組みなんですか?」


 蛇口を指して、ナオミが聞いた。

 何せ、浴槽より高い場所から、流れ落ちる湯である。

 違和感を禁じ得ないナオミであった。


「お! そこに気が付くとは、中々鋭いですね」


 嬉しそうに、サラが答えた。


「この近くには川が流れているのです。ああ、もちろん、温泉ではなく普通の川ですよ。そこで水車を使った動力ポンプを動かして、高い位置までお湯を汲み上げているという寸法です」

「す、凄いですね」


 サラの解説に、聞き入るナオミである。


「ええ、まったく見事な仕組みです。何よりも、人件費がかからなくて済みますから……って、おお! オリーブ石鹸があるではないですか! いやはや、さすが高級店は違いますね!」


 ナオミを置いて、興奮冷めやらぬサラであった。



「はぁ~……、生き返りますね」


 湯に浸かって、サラが独り言ちた。


「何か、お肌がスベスベします」


 サラと同じく湯に浸かって、ナオミが自分の腕を擦った。


「そういう泉質なのですよ」


 仰向けに浮かんで、サラが言った。


「言ったでしょう? 薬効があるらしいと。ちなみに効能は、肩こり・腰痛・便秘・冷え性・切り傷・擦過傷と、何でもござれです」

「何か節操ないような……」


 サラの答えに、首を傾げるナオミ。


「ちなみにですが、飲めたりもします」

「え! マジかよ?」


 続けたサラに、ジーンが喰い付いた。


 そんなジーンが、両手で湯を掬った直後である。


「基本は湧き水ですから当然でしょう。もっとも、浴槽の湯は少々汚いので、お腹を壊しますよ」

「ブハァッ!」


 サラの忠告に、むせるジーン。

 すんでのところで、飲まずに済んだジーンであった。


「それを先に言え!」


 怒れるジーン。


「不特定多数が入っているのですよ? ちょっと考えれば分かるでしょうに。ところで――」


 呆れながら、サラが続ける。


「貴方、何故そんなところにいるのです?」

「うっ!」


 サラの疑問に、詰まるジーンである。

 

 それもそのはずで、ジーンはサラたちから離れて温泉に入っていた。

 その距離、およそ5メートルである。


「仕方ねーだろ。お前ら裸なんだから」

「さっきから不思議に思っていたんですが、貴方、女の裸が珍しい人種でもないでしょうに」

「ううっ!」

「……ひょっとして、素人童貞?」

「そ、それは違う!」


 サラに答えてから、「しまった!」と後悔するジーン。


「また誘導尋問か!」

「いや、貴方が自爆しただけでしょう」

「あの~、素人童貞って何ですか?」


 3人がガヤガヤ騒ぎ出した、丁度その時である。


「はいはい。失礼しますよ~」


 扉がガラリと開いて、人が入って来た。



◇◇◇◇


 果たして、入って来たのは掃除人の女である。

 白いエプロンにバンダナの女は、年若く20台に見えた。


 女は手にブラシを持ちながら、浴場へと入ってくる。


「すみませんねぇ、お客さん。排水溝の掃除が残っておりまして。どうぞ気になさらず、おくつろぎのほどを――」


 女が言いながら、言葉に詰まった。


「ああ、ご苦労さん……って、ああっ! お前は!」

「貴様ら、私の家で何をしている!」


 ジーンが顔を驚き、女が怒鳴った。


「家? ここが?」

「そうだ!」

「え、何? お前、風呂に住んでるの?」

「違う!」


 ジーンの疑問に怒りながら、女がバンダナを外した。

 長い金髪が飛び出した。

 女の正体は、アンナ・シュバルツワルトである。


「ここの運営は、私の実家がやっているのだ!」

「へぇ、凄いじゃん! お前のうちって、平民なのに金持ちだったんだな!」

「ぬぅ、一々ムカつくヤツだ」

「褒めてるんだけど?」

「うるさい! まったく、珍客が来たとは聞いていたが、よりにもよって、こんなヤツと鉢合わせるとは……」

「それよりもお前、憲兵の仕事はどうしたの?」


 アンナの愚痴に、暖簾に腕押しのジーンである。


「き、貴様のせいで謹慎を食らったのだ! それで、こうやってバイトをしている」

「俺のせいって、あの決闘騒ぎのことか?」

「そうだ!」

「いや、完全に自業自得だろ」

「うっさい! 破廉恥極まりない輩に言われたくないわ!」

「破廉恥って、何が?」

「朝っぱらから、二人も女を侍らしているではないか!」

「ああ、こいつらは、えーっと……、俺の婚約者候補? みたいな?」

「は?」

「だーかーらー」


 目を点にするアンナに向かって、ジーンが続けた。


「お前も知ってるだろ? うちの嫁選びの試合。あれに出るんだよ」

「……」


 ジーンが言うも、黙り込むアンナである。


「どうした?」


 訝るジーン。


「……それ、私も出るのだが」

「は?」


 アンナの返答に、今度はジーンが目を点にした。


「見ていないのか? ちゃんと肖像画を送ったはずだが?」


 額に青筋を浮かべながら、アンナが聞く。


「あー、そう言えばそんなのあったような気が……。いやでも、顔が全然違うから、てっきり同姓同名かと思ったんだよなー。え? それよりも何? お前、俺のこと好きだったの?」

「――っ!」


 ジーンの反応に、アンナの顔色が変わった。

 赤くなったり、青くなったり、仕舞いにはドス黒く染まるアンナの顔である。


「だ、誰がお前のことなどっ!」


 猛り狂って、アンナが続ける。


「お父ちゃ……じゃない! ち、父上が勝手に決めたのだ! 親の手前、出るだけ出て早々に負けてやるつもりだったが、こうまでコケにされては引き下がれん! おい! そこの女たち!」


 サラとナオミに向かって、ブラシを突き出すアンナである。


「……」

「ひっ!」


 サラが鬱陶しそうに眉を顰め、ナオミが身を縮こませた。


「どちらかは分からんが、私と当たったら覚悟しておけ!」


 捨て台詞を残し、アンナが「ふんっ!」と浴場を出て行った。


「……あいつは一体何がしたいんだ?」


 アンナの背中を見送って、ジーンが呟いた。


「さあ? でもまあ、一つだけ言えるのは――」


 サラが続ける。


「貴方が、彼女を怒らせる天才だということです」


 それだけを言って、口元まで湯に浸かり、ブクブクと泡を立てたサラである。


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