最上階
「今、何したの?」
「いや、何もしてないよ。近づいて、ドアに触れようところで音がしたんだよ。」
恐る恐る開いたドアの中を覗き込む。そこはただ白い壁、床、天井に囲まれた何もない空間に見えた。ドアのちょうど真正面にやはり階下に進む階段につながるだろうドアがある。電灯も窓もないのになぜ明るく見えるのだろう。
部屋の中は少なくとも誰もいないようだ。部屋の中央に布のようなものが落ちている。
「ちょっと、ここ狭いんだから、早く入って、あとちゃんと隠して。その、す、少し見えてるから。」
「見るなよ。」
「見たくて、見てるんじゃないわよ。それより中はどうなってるの。」
「何もないよ。反対側にドアがある。さっき塔の外側を見たら階段が見えたからそこにつながるドアだと思う。あとは布が落ちてる。」
「それを早く言ってよ!」
彼女は俺を押しのけるように中に入ると布を取りに走った。真後ろからもろに見てしまったので、揺れるお尻が丸見えになっていた。
「よかった〜。これで隠せる。」
シーツのような大きさの布で体を覆い、心の底から安堵したような声を上げる。そこを安心したところでこの状況はほとんど変わっていないのだが。
「もう一枚あるから、あなたもこれで隠して。」
少し剣のある言い方をしながら、キッと睨みつつ、こちらに同じ布を差し出してくる。ありがたく受け取り、女と同じように体を覆う。確かに全裸に比べると安心感がすごい。女が安堵した声を上げるのもうなづける。
だが、男の体にシーツを巻きつけるのも、なんだか変な気がしたので一度はずし折りたたんでバスタオルのように下半身に巻きつける。一度はずした瞬間、彼女の方から小さな悲鳴が聞こえたが気にしないようにする。
「ねえ、もう一度聞くけど、本当にあなたが私を連れてきたんじゃないの?」
「違うよ。俺にだってどうなっているのか全くわからないんだから。」
こちらを睨めつけながらも、屋上にいた時よりは警戒心を緩めてくれたように見える。体を隠せたことが大きいのだろう。
「それに襲うつもりで攫ってきたんなら、とっくに襲ってるよ。」
不用意にそんな冗談を口にしてしまった結果、女は体をかき抱き、緩めた警戒心を再度むき出しにする。しまった、そんなこと言うつもりはなかったのに。
「い、いやいや、違うからね、冗談だから。襲わないから、警戒すんなよ。」
「シャレになってないのよ。こんな意味不明な状態で、変な冗談言わないで。」
「すいません。」
ここは素直に謝っておくことにした。
「ねえ、あなた名前は?これからどうするつもり?」
「俺は……。」
俺は……名前?名前はなんだっけ?えっ、ちょっと待って、俺の名前、名前何だっけ、そんな馬鹿な、名前だよ自分の。
思い出せないなんてことあるはずがない、だって自分の名前だぞ。名前?
どうしたの?というような表情で少し首をかしげ、彼女はこちらを見ている。
「君は?人に聞くときは自分から名乗るもんだろ。」
ごまかすように言葉を返す。
「それもそうね、ごめんなさい。私は……。」
そこで彼女の言葉が途切れる。そのまま、困惑したような表情に変わっていく。ええっと、まさかね。そんなはずないよ。いやでも、俺がそうだったんだから、ひょっとして……
「もしかして、名前、思い出せない?」
「うっ、いや、そんなわけないでしょ、ええっと、名前、ええっと……」
「いや、俺もだから、自分の名前がわからないのは。」
「えっ」
ショックを受けたように彼女の動きが止まる。そりゃショックだろう。自分の名前を思い出せないのは。
「なんで、なんで思い出せないの?っていうか、ここに来るまで何をしていたのか、どこにいたのか、何も覚えてないの。何でなの!!」
そういわれてはじめて、俺も自分が今までどこにいたのか、何をしていたのか、何も覚えていないことを自覚する。頭の中が真っ白になった。というより真っ白だったというべきだろうか。ははは……、これはやばいのじゃないだろうか?
いや、今はこれからどうするかを考えよう、過去にとらわれてはいけない。未来志向が重要なのだ。
「俺も思い出せない。な、何でかは全然わからないけど。
とっ、とにかくさ、今はこれからどうするかを考えよう。とりあえず下に向かうとしても、さっき下を覗いた感じだと、地面すら全く見えなくてさ、とりあえずとんでもなく高い場所ってことだけは確かだから、すぐに降り始めないと日が暮れちゃうよ。エレベーターとかもなさそうな気がするしさ、この塔は。」
なるべく暗くならないよう、努めて明るい声でこれからのことを話す。
彼女はしばらくうつむいて考え込んでいたが、ようやく顔を上げ、少し笑顔になりながら、こちらに頷き返してくれた。
先ほどまではこちらに警戒していたため、言葉に少し剣があったが、彼女は切り替えが早く、前向きな性格なようだ。さっきも自分の非を素直に認め謝ってたし。
よかった、ここで喚かれていたら俺もパニックになっていただろう。
部屋の中、踊り場の壁の裏側も覗いてみたが案の定シーツのような布二枚の他には何もなかった。何でシーツが用意されていたのかはわからない。それも二枚……。
二人で入ってきたドアとは反対側のドアに向かい、ドアを開ける。今度はあの間抜けな音もせずに難なくドアが開いた。
もう一度、部屋の中を振り返るとやはり何もなく、屋上につながるドアはいつの間にか閉じられている。ドアが閉まる音もしていなかったが、もしかしたら手を離すと閉まる作りになっているのかもしれない。
ドアの外は、案の定小さな踊り場がありそこから階段が下に向かって続いていた。屋上からの階段とは違い右回りだった。やはり階段はS字状に作られているようだ。
先に降りていると、後ろから「きゃっ」と小さな悲鳴が聞こえたため慌てて後ろを向く。
「振り返らないで!」
振り返るとそよ風にシーツをめくられ、彼女の体が丸見えになっていた。それは胸の膨らみから腰のくびれ、足の付け根の茂みまではっきりと。屋上で見た時よりも遥かに近く、しかも、斜め下からだったのでより扇情的な角度で。
彼女は即座に体を隠し、階段に座り込んでこちらを睨む。階段は狭いので大きな動きはできなかったのだろう。
「見たっ!?」
「いや、見てない、見てないよ。先に行くから、後から来て。」
ごまかしつつ、下の踊り場についた。上の階と造りは全く同じに見える。ドアを開けようとドアノブをつかむも、これまた同じようにビクともしない。
「ねえ、また開かないの。」
そう言いながら彼女が降りてくる。そして、彼女が踊り場に足を踏み入れた瞬間、
ポーン。
上の階のドアでも聞こえた間の抜けた音が再度聞こえ、同じようにガチャとドアがひとりでに開いた。