6 勇者、逃げる
「ーーーエリーザ!!」
咄嗟も咄嗟、それ以外を叫ぶ余裕などない。
全身をしならせ、足で大地を掴んで疾走する。
紛うことなき本気の走りだが、それでも勇者時代のそれとは比べようもない。列車と赤子ほどの差がある。
「くそッ!」
それでも距離を半分ほど詰めたところで、しかしエリーザの脳天へ剣は下ろされた。
微かに見えた剣の持ち主が、こちらへ馬鹿にしたように笑いかけた気がした。
「ッーーー舐めってんじゃ、ねぇーーーーーーッ!!」
俺のーーー勇者の目の前で、そんな人殺しさせっかよ!
背に担いでいた木剣を抜刀。
逆手に握り、そのまま投擲した。
技量の問題もあって綺麗に真っ直ぐとはいかないが、そいつの横っ腹に当たり、僅かによろめく。しかし、剣は止まらずエリーザを狙い続ける。
「シーーーッ!」
僅かのタイムラグで、俺はエリーザの元へ辿り着く。勢い殺さぬままエリーザの腰を抱き、巻き込むように直進する。
七歳児の体でここまでの特攻、もちろん無茶であることは変わらない。さっきだって、短距離ながら大人も目を見張る速度を出して脚は悲鳴どころか阿鼻叫喚だ。
それでも動けるのは日頃の鍛錬であり、精神が萎えないのも俺が元勇者であることに他ならない。
年季が違う。
密度が違う。
たかだか一度死んだくらいで、そう簡単に衰えない。
「ーーーッ!?」
「ッラァ!!」
驚く気配が、背後の人物から発せられる。
俺がこの距離を追い詰め、あろうことか襲撃を躱したことに驚いているようだ。
しかし、前述した通り俺は七歳児。大の大人と力比べなんてしたら一瞬で詰むし、それは追いかけっことなった今の状況でも変わらない。
だから、ここは地の利を利用する。
「ッ……行くぞ!」
「キャッ……!?」
このままでは追いつかれ、斬られる。
それは分かりきっていただけに、背中を晒したまま無防備に一直線を走ったりしない。エリーザの手を強く引きながら、入り組んだ路地裏へと入った。
右へ左へ、どちらを何度曲がったかも分からん。
これで向こうは俺らの位置が掴めない。が、俺らも結果迷子だ。
どうせ色々と言われるんだろうが、今は許せよエリーザ。
「っ……は、っはぁ……!」
見えた出口から路地裏を抜ければ、そこには疎らでも人がいた。
露店の真似事をしてる者、小競り合いをしてる者、よく分からないモノを高笑いしながらナイフで滅多刺しにしている者。
どれも、これも、この街の日常で、エリーザには見せたくなかった光景だ。
故に、それとなく誘導していたのだが、今となっては否応無い。
「悪いな、通るぜーーーッ!」
すれ違いざま、男の腰に佩いたナイフを掠め取り、露店に出ている商品を蹴り飛ばす。積み上がった商品が崩れ、即席のバリケードとなった。
背後から怒号が聞こえるが、知ったことではない。
どうせどれもこれも他からかっぱらってきたものだろ? 因果応報って奴だよ。
「おい、エリーザ。大丈夫か?」
ふと、エリーザがここまでなんの反応もないことに気づく。振り返れば足や手に擦り傷を作り、俺の声に返す余裕もないのか頻りに呼吸を繰り返していた。
……俺はまだマシな方だが、流石に女子供のエリーザはそうもいかないか。
「こっちだ」
再び曲がり角を曲がり、放置されたクズ箱に身を隠す。ようやく一息つける状況で、エリーザは辛そうに胸を抑えていた。
あぁ、ツラいだろうな。
直線にして大体1キロ近く走ったか。今までこんな距離走ったこともないだろう。俺も足が怠くてしょうがない。
「っはぁ、はぁ、はぁ……な、なんな、はぁ、の、あれ?」
「ふぅ……や、分からん」
息も絶えだえなエリーザの問いにも、ついぞんざいな返答になる。
何処ぞの暗殺者か、はたまた女子供を殺すのが趣味の変態か。俺はどちらかというと後者を推している。
「わぁ、分かんないってぇ……っ」
「分からねぇもんは分からねぇんだ。しょうがねぇだろ」
あの時は考える間も惜しい中で、選択もすることはできなかった。
自然に体が動いた。
結果、それが逃走だったというだけであり、無意識でそう動いてしまったというだけのこと。
しかし、その選択があの状況におけるおよそ最善だったのかもしれない。
エリーザは殺させない。
これは絶対である。なんだかんだ言っても同じ孤児院で育った仲だ。見捨てる選択肢など端から頭にない。
それが俺の、元勇者としての僅かに残る矜恃だ。
「……これから、どうするの?」
まだ完全に落ち着いてはいないだろう。心臓の痛みに胸を抑えつつ、エリーザは悲痛な面持ちを向けていた。
それは予感、だろうか。
これから何が起きるか。無意識にそれを感じ取っているのだろう。
「……とりあえず、逃げなきゃな」
だから、何の気負いもなく言った。殊更問題ではない、というように言葉を続ける。
「あんな変態、相手にしてるだけ無駄だろ。めんどくせーから先生達に預けちまおうぜ」
暗殺者の類いとか、平気で人を殺すような奴は、変態だと考えている。
「で、でも、それは……」
「大丈夫だって。俺らはともかく、リアせんせーならな」
それに、先生の許には彼女の知り合いだというあの爺さんがいる。
あの爺さんは本物だ。摩耗し、腐ってきた観察眼と勇者の記憶の中でも指折りの実力者であることが分かる。
そこらの変態程度、簡単に捻ってくれるだろう。
他力本願で非常に情けないところだが、適材適所という奴だ。
「俺たちはまだガキなんだ。大人達に迷惑かけて、そこから学んでいくのが仕事なんだよ。
だからここは逃げる……な?」
「……うん」
ガキはガキらしく、大人に迷惑かけてりゃいいんだよ。
もし俺が言われたら今のお前が言うかとツッコむが、エリーザは素直に頷いた。
幾分か不安の減ったエリーザの表情に安心し、さて、と立ち上がる。
「ひとまず、ここを離れなきゃな」
ほれ、と手を差し出せば、素直にそれを握るエリーザ。実年齢はこちらが下であるのに、まるで年下を相手にしているみたいだ。
まったく、先ほどの勝ち気はどこに行ったのやら。
そう言えば、通りの方から怒号やらが聴こえないな。
沈静化したのか?
「……いや。
こんな早く収まるほど穏やかな奴らじゃないはずだが……」
そう考えていた俺は、間違いなく油断していただろう。
ソレに気づくのが僅かに遅かった。
「ーーー見ィつけたァ」
「ーーーーーッ!?」
「キャッ……!?」
咄嗟にエリーザを突き飛ばす。軽いエリーザの体が簡単に浮き上がり、壁際まで追いやられた。
後を追うように、俺もその場を飛び跳ねる。近場で拝借したナイフを掲げたのは、本当に無意識の防衛行動だった。
「ヅァーーーッ!?」
頭上から、腕ごと持っていかれそうな衝撃が降りかかる。いや、実際に掲げたナイフは弾かれた。その直下、俺の肩口までを巻き込んで切り下ろされる。
「ほぉ?」
「チィ……ッ!!」
その場からの退去、そして咄嗟の防御が無ければ、俺は正中線から真っ二つになっていたに違いない。
「づ、ぁ……ッ」
それでも肩を切られたことに変わりなく、延長線上にいた俺の左肩から赤い飛沫が舞い散った。
「ぢぃィ……ッ!!」
激痛だ。目の前が花火のように真っ白く瞬き、意識が持っていかれそうになる。
それでも構えつつ、改めて見ると目の前の奴は奇妙な風体をしていた。
見た限りはやはり男。長身痩身で最低限の肉を落としたような針金のような体つき。女性のような柔らかいシルエットは皆無。
しかしそれはあくまで見た限りであって、その全容は分からない。
「っはは……包帯男とか、か、仮装パーティかよ」
全身包帯。
僅かに開かれた目元と、浅く被ったボロボロの笠のような帽子以外、包帯しか見えない。
どっかのマンガにでも出てきそうだ。それだけ現実感のない姿をしている。
ドス黒い、血のように濁った赤瞳が俺らを捉えて離さない。
間違いなく、殺意を孕んだ狂気の眼。
「っ……」
それに声を上げることすらできないのか、エリーザが俺の服を後ろから摘まんでいるのが分かる。
俺は片膝ついているのに下に引っ張られている様からして、真後ろでへたり込んでいるのかもしれない。
「……よぉ、あんた誰よ? この辺じゃ見たことねぇな」
右手は剣を、左手は安心させるようにエリーザの手を握る。
そして、後ろで聞いているエリーザが不安にならないよう、なるべく明るい声で話しかけた。
「ひょっとして主街区崩れの新入りか? 全身ぐるぐる巻きは今の流行だったりすんのか?」
おしゃれなんだな、と引き攣る頬を誤魔化すように笑う。でないと冷や汗が止まらず、焦りが顔に浮かんでしまう。
ヤバい。どうしようもなくヤバい。
構えこそ二流三流どころか素人のそれだが、こいつと打ち合えば最期、断頭の未来しか浮かび上がらない。
今の俺が、こいつに勝てる未来が見えないのだ。
「……ククッ」
それが、分かっているのか。
目の前の男はくぐもった声を漏らしながら、僅かに除く濁った瞳を悦に染まらせた。
「怖がることぁないよ、坊や。何も、怖がらなくてぇいい」
奴の手に軽く握られた細身の剣が由良と上がる。
「噴水、って知ってるかなぁ? 水が穴から上へ向けてブシャーと出るんだけど、アレぇ、キレェなんだよぉねぇ」
左手を顎にあてがい、夢心地のような口調で、陶酔したように語る。
「だからさぁ……見せてよぉ、君たちの体で」
その様はやはり、隙だらけ。
しかし殺意一色の奴の剣は、怖気が走るほどに誠実だった。
「君たちの体でぇーーーキレェな赤い噴水見せてよォォ!!」
鏖殺。
一切合切、この世の全て、我を残して疾くと消えろ。
傍迷惑な純粋さで、野郎は突貫してきた。
「ッーーー走れ、エリーザ!!」
アレはヤバい。どうしようもない。
更正の余地は当然無く、そもそも打倒することもできない。生きているだけで害悪を撒き散らすような存在と直感した。
ならばこの場において、一番危険になるのは? 無論、エリーザである。
早々に退避させなければ、エリーザは死ぬ。俺が死ぬのも時間の問題だが、それでもエリーザは秒と経たず一瞬で殺される。
それだけは、絶対にさせない。
つっても、やっぱり追いつかれてしまう訳で。
やはり、ここは男の見せ所だろう。
「ーーーーー!」
だというのに、エリーザは目に涙を溜めながら必死に首を振っている。
恐怖で声も出ないのか、しかし目は鋭く俺を射抜いて、俺がここに残るであろうことを悟っていた。
一丁前に俺を守ろうとしているのか。
生意気な。おまえのことだから、どうせここにいても何もできないのは分かってるだろうに。
いいから、大人しく言うこと聞いてくれよ。頼むから。
そりゃあ女を背に守りながら戦うとか、珍しく燃える展開だし、主人公っぽいけどさ。
「ーーーオォラァアアアァァァ!!」
両手に構えた短剣を、持てる全力で奴の剣の腹に叩きつける。
こちらは尻餅を付き、奴は肩から先を大きく弾かれた。
「ぬゥ……!?」
「ぐ……ッ!!」
隙を見せぬように、即座に立ち上がる。が、こちらを意外な目で見るばかりで、襲ってくることはなかった。
流石に予想外だったろう。ガキにこんな形で防がれるのは。
これだけの所業に足る理由など、俺が貧困街にて臭ぇ大人どもで鍛えていることと、こいつの体が異様に細いこと。そして俺が前世の意識も精神面に作用していることに他ならない。
「ッはは……」
静かな殺気に今にも叫び声を上げそうな中、
「そんな、剣筋ブレブレな剣で、殺られる訳ねぇだろ……ッ」
見え見えなんだよ、三流剣士。七歳児舐めんな。
仮にこの変態が真面目に研鑽を積んできていれば話は別だが、俺が気力振り絞れば何とかいなすことはできる。
そうとは言えないだけの要素が、俺とお前の間にはあるんだよ。
まぁ、なんだ。
つまり何が言いたいかっていうとーーー
「もちっと筋トレした方がいいぜ、ガリガリ」
「ーーーーーー」
驚愕、次いで微かな怒張を瞳から感じ取る。
そうだ、もっと怒れ。
お前を、俺にメロメロにしてやるよ。絶対に離さねぇ。
後はーーー
「……エリーザ」
「ッ……」
なるべく、優しい声でエリーザに話し掛ける。
あのやり取りでも服を離さなかった手が大きく揺れた。
「今から走って、先生のとこまで行ってくれ」
「で、でもっ……ナギはーーー」
往生際の悪い。掴んで離さない、といった様子の両手と声が震えているのが分かる。
信頼ねぇな。
確かに、七歳児にゃ荷が重すぎるどころじゃないかもしれんが、ちょっとやるせない。
論破できる材料も無いので、ここは強引に押し通す。
「いいから、さっさと呼んで戻ってこい。こんな変態、俺一人じゃ持て余しちまうんだよ」
男が見栄張ってんだよ。
頼むから、ここは俺にカッコつかせろ。
「お前がいると邪魔なんだよ。死にたくなかったら、早く逃げろ」
再三の説得、というか事実を突きつけているだけだが。
エリーザはようやく、俺の言葉を聞いてくれた。
「っーーーすぐ、戻ってくるから!!」
……タタタッと地を蹴って去る音を背から聞く。
無事、戻って行ったようだ。
それに思わず安堵し、僅かにエリーザに割いていた意識を目の前の男へ向ける。
「……待ってくれたなんて、随分と律儀だな」
自らの剣を指先で弄りながら、こちらを見ていた男。
不思議なことに怒りは無く、俺へのほんの少しの興味が浮かんでいる。
「やぁなに、彼女は君の想い人かなぁと思ってぇ」
「はっ、腐れ縁だよ。付き合いが長いだけだ」
妙に間延びした口調で話しかけられたから、答えただけ。
「仲がいいんだねぇ。じゃぁ後でぇ、あの子も噴水にしてあげよぉ」
「ーーーーーー」
今日は右足の調子が悪いのか。じゃあ右足から切り落とそう。
君には想い人がいるのか。じゃあそれも一緒に殺そう。
なるほど、会話の内容一切が、“殺”の字に帰結する。故にこの会話に実など皆無。
この男は、そういう奴か。
「たぁーだその前にぃ? 君には少ぉし興味がわいてきたよぉ」
「俺に……?」
「その年でぇ、殺しても死なないなんてさぁ……不思議じゃない?」
先の怒りは何だったのか、今度は爛々と興味の光で輝いた瞳をこちらに向けていた。
純粋な疑問と興味を含んだ瞳。今まで無かったんだから、今まで無かったんだから。例から漏れた出来事を前に、未知を楽しんでいる。
「面白いよぉ君ィ。面白いよ面白いよ面白いよォ……」
ガリガリの指先で剣先を擦っていた男が、不恰好な構えを取る。
危険な香りを孕んでいる割に、妙に素人臭い。本にそう書いてあったからそうしました、とでも言いそうな代物だ。
それでも、この気配は殺伐なんて表現じゃ生温い。
「君の噴水はぁ、なにいろぉを咲かせくれるんだい?」
「…………」
自分で吐いた言葉に陶酔している。俺の首を刎ねた時を想像して、ゾクゾクしてるようだ。
マジのキチガイ、こいつ。得体のしれない気持ち悪さで吐き気がする。
「……でも、ここで君を殺すのはぁちょっともったいないけどぉ」
「……んじゃ、見逃してくれ」
「いやぁ……ごめんけどそりゃぁむりぃ」
まぁいいや、とつぶやいて。
肩が揺れ、愉悦に染まった瞳。
「そろそろ、噴水にしてあげよぉ」
「ーーーーーッ!!」
来るーーーそう感じた瞬間、奴は既に飛び出していた。