0-1 勇者、帰る
光が溢れ、陰影が全く入らない宮殿。絢爛な絵画に彩られた硝子天井。
その中央に鎮座する巨大な扉の前で、一組の男女が向き合っていた。
「ーーーじゃあ、そろそろ行くよ」
笑い掛ける男の姿を、女は今にも泣き出しそうな顔で見つめている。先ほど男から渡された細身の長剣を、強くその身で抱きしめた。
肩から指先にかけてを震わせて、
「……本当に、行ってしまわれるのですか?」
「こっちの生活も悪くないけど、あっちでやり残したことがあるからな。ケジメはきっちりつけねぇと」
男は必要最低限の革鎧にローブを纏った、まだ齢二十にも届かない少年。黒髪黒目の珍しい風貌である。
対して女はと言えば、少年とおよそ同年代。絵画の中から、あるいは物語から抜け出てきたような絶世の美少女だ。日の光でキラリと光る、美しい金糸のような髪に、宝石の如く美しい蒼の瞳。
もっとも、今はその目に涙を滲ませ、先ほどから嫌々と首を振ったことで髪は振り乱れている。
「おいおい、お姫様なんだからもっと気を遣えって」
側近が見たらきっと卒倒するぜ、と茶化すように笑うが、しかし少女の顔は曇るばかり。
冗句が通じず、少年は思わず頭を掻いた。
「……参ったな。もう未練なんてねぇつもりなんだが……」
その顔を見るとーーーそう思わずにはいられない。王国一と言われる傾国の美少女が自分の為にこうも泣いてくれると、男冥利に尽きるだろう。
しかし、元より腹は決まっている。少年は元の世界に戻り、あるべき姿に戻るのだ。
「……そうだ」
ふと何か思いついたか、少年は長年愛用している黒ズボンのポケットから何かを取り出した。
少女の手を取り、取り出したそれを乗せる。
「……これは?」
銀色に光る、複雑の形状をした小さな棒だった。
「……俺の故郷じゃ大切に持ってなきゃいけねぇもんでさ。他人には迂闊に渡せないもんなんだ。
……できれば、お前に持っててほしい」
「ッ……! は、はいっ」
ありがとうございます! と目尻に涙を浮かべながらも、喜色満面に笑みを浮かべた。
今までですら見なかったこれ以上ない笑顔に思わず面食らう。
言うほど大した代物でないだけに、この反応は予想外であった。
(つかそれ、実家の鍵なんだけどな……)
オーバーリアクションとも取れる反応にバツが悪い。
しかし悪い気はせず、口元に笑みを浮かべて、
「ーーーじゃあ……」
「はい……」
剣と、鍵を握りしめた少女の表情は穏やかだった。
それに少年は安心を覚え、躊躇いなく扉に手を掛ける。
「またいつか、お会いできる日を心から祈っています。
いつまでもーーーお待ちしております」
鈴の鳴いたような声が、少年の耳元に優しく転がる。それは何物にも変え難い至福であり、何度目とも分からぬ躊躇いを覚えた。
ーーーしかし、それも瞬きの間には消えている。
後悔などない。この選択は絶対に間違ってなどいないと、何よりも自分が信じているのだから。
故に、ここは綺麗に別れようーーー
「あぁ。また、いつか会おうーーーエカテリーナ」
少女の名を、甘く、そして穏やかに呟いた。
首だけを向けた少年の全身を、強い光が包み込む。次いで全身を引っ張られるような感覚。
それに抵抗せず、むしろ笑みを浮かべて受け入れる。
ーーーもう、何も思い残すことはない。
自分は、役目を果たしたのだ。
万感の思いで、やりきった表情をした少年は、世界から旅立った。