71 夏風邪にご用心
十字先生と別れ、一人帰路に着く。その途中で部活終わりの椿とばったり遭遇。なぜか手にはパンが握られていた。
じっとパンを見つめるあたしに「食べる?」と差し出してきたけど、別腹も出来そうもないくらい満腹だったから断ったら、「美味しいのに」なんて言いながら二口で全部食べてしまった。
すごい、マジックをみているみたい。あたしだったらその倍の時間は掛かるだろうな。
「あ~美味しかった。菜子も部活の帰り?」
「ううん、ちょっと用事が有って。椿は部活お疲れ様。お昼ご飯は……、もちろん食べたよね」
うん、と返事をして食事内容を説明してくれた。結果として、胃がムカつきました。
朝、部活に行く前にコンビニでおにぎりを買い休憩中に食べ、終わったら牛丼屋さんで大盛りを食べ、寮に帰る途中でパンを買った。それをさっき食べ終わったところ。
分かった。椿は満腹中枢が迷子になっているんだ。きっとそうに違いない。
あ、そうだ。花火大会のこと、椿に言うのを忘れていた。
すっかりあたしの中では行ってくれるだろうって決めていたからなぁ……。断れた時のこと、考えてなかったよ。
ちょっと不安になりつつ歩きながら訊いてみた。
「あのね、あたしの地元である花火大会一緒に行かない?メンバーは予定だけど、生徒会の人と侑吾君と美穂も誘おうと思ってるの」
「行く!って言いたいところだけど、日にちによるかな。合宿とか遠征とかあるからさ」
椿は愛用のスポーツバッグから部活の予定表を出して言った。
実は正確な日にちの確認をしていない。でも、毎年変わらずお盆前の週末にやっているので今年も同じだろう。後で侑吾君に確認しよう。侑吾君が知らなくても恵さんなら分かるよね。
あたしは部活の予定表を見せてもらいながら日にちを指差した。
「多分、この日。後でちゃんと確認するけど、間違いないと思う」
「ああ、この日なら合宿明けの休みだから大丈夫。行けるよ」
「良かった。あと、浴衣着用。OK?」
「えっ、浴衣?あたし持ってないよ」
そうだよねぇ。急に言われても困るよねぇ。あたしも困ってるのよ。
どうしようかな、と日陰に避難して腕組み考えていると、椿がいきなり「そうだ!」と掌に片方の拳を乗せて言った。
古典的な表現だ。久しぶりに見た気がする。
「美穂に電話していけそうならこのまま浴衣買いに行こう!あ、でもあたし部活着だからそれはダメだ!菜子、帰るよ」
一人で提案して、一人で納得して考えが纏ると、あたしの手を引いて走り出した。
「待って!」と願うあたしの言葉は耳に届かなかったらしい……。
本当に待って!この暑い中走りたくないし、椿の走る速さについていけないよ!
足がもつれて転びそう。
そりゃ誘ったのはあたしだけど、どうして運動部の人間は行動が早くて、ナチュラルに人を巻き込むんだ!?
息も絶えだえに寮に着くと、「あ~、いい汗かいた。ね、菜子!」爽やかに汗を拭いながら同意を求める椿。
恨み言の一つでも言ってやろうとしたけれど、息を整えるので精一杯だったので言えなかった。
憎い。この桜川菜子の体が憎い……。なぜもっと体力のあるキャラ設定にしてくれなかったんだ!せめて人並みにしてくれていればここまで苦しい思いはしなくて済んだはず……。
ふと蘇るシュラの言葉――「ここはゲームを現実にした世界」――じゃあなにか?こんなに体力が無いのは自分自身のせいだってのか?
絶対ちがうよね?だってお母さんはあたし以上の運動音痴だもん。これはデフォルトに違いない……。
おのれシュラ、次こそはいかなる手段を使ってでも殴ってやる……。
椿は、ぜーはー言いながら肩で息をして苦しそうなのに、黒い笑みを浮かべるあたしに困惑気味に声を掛ける。
だから同じように爽やかな笑顔で何でもないと答えた。
寮に入るとここは楽園ですか?と誰かに尋ねてしまいたくなるくらい快適な温度を保っていて、思わず寮生活、万歳!なんてことを心の中で万歳三唱をしてしまった。
美穂の部屋に行くと本人が出て来て、室内に招き入れてくれる。同室の子は帰省中らしい。
一人で寂しいね。と言えば、「寮にはこんなに人が居るのよ、どうやって寂しがるの?」と不思議がられた。
いつも二人だったのに急に部屋に一人になって寂しくないのかなと思って訊いたのだけれど、美穂にしてみれば理解出来ないことだったようです。
あたしだったら寂しくて夜も眠れないかも……。まぁ、それは嘘だけどさ。
でも、8月に入ったら椿は合宿で居ないんだよね。しかもそのままお盆休み突入で、お盆が明けたら今度は遠征。
寮に帰って来るのは夏期講習がある8月の終わり……。
この学園は夏期講習、全員参加なんだよねぇ。別にいいけどさ、全員参加なら夏休みの期間を短くすれば良いのに。
ま、そこは色々あるんだろうから仕方ないか。
しかし考えるだけでつまらない。こんな事なら交友関係、広げておくんだった。
「で、いきなりどうしたの?」
「そうだった。何で来たのか忘れるとことだった」
いけない、友人の少なさに悩んでいる場合じゃなかった。
「椿にも言ったんだけど、お盆前の週末にあたしの地元で花火大会があるの、一緒に行かない?」
「いいよ~。でも、なちの地元だとあたしの家と逆方向だぁ。……泊めて?」
ぐはっ。でた、女の子の「泊めて」攻撃!
いや~、同性でも来るものがありますよね、これ。
若干の間がナイスでした。グッと親指を立てる仕草をしてしまいそうだったけど、その衝動は抑え込めた。
危なかったぁ。中身がいい歳大人だってバレたら変態認定されるところだったよ。
「もちろん!椿も来なよ。もともと泊まってもらおうと思ってたんだ」
「そうする。あたしも遠くなるから泊まらせてくれるのはありがたい」
親も居ないから騒いでも問題ないし、お祭りで疲れた体を引きずって電車に揺られて帰るのって、結構しんどいもんね。
さて、ここでもう一つの本題です。そう、浴衣。
本当はあたし一人が着れば良いと思うけれど、一人じゃ浮いちゃいそうなんだもん。みんなが浴衣なら気分も釣られて盛り上がるってもんだよ。
「でね、生徒会の人も行く予定なんだけど浴衣をご要望なのですよ。いかが?」
「あ、やっぱり。あの人達がこんな美味しいイベントを見逃すはずないものねぇ。しかも浴衣はある意味萌え要素を含んだ衣装なわけだ……。そら見たいわ、涎もんだ」
「萌え?涎?よく分からないけど、そう言う訳だから、今から買いに行こう!」
まっさらな椿には難しかったようです。今のまま変わらない椿で居て欲しい。
綺麗な心を持った人の近くに居ると汚れが落ちる気がするから……。
しかしちょっと待っておくれ。さっき何と言った?「今から買いに行こう」と言ったかね?「え、今から?」という結構まともな疑問は少数意見として却下されたもようです。
盛り上がる二人に圧倒され、仕方なく買い物に出かけることにした。
一旦椿と部屋に戻り身支度を整える。部活で掻いた汗を流した椿の後、すっかり汗が渇き、体が冷えてしまったあたしもシャワーを浴びることにした。
この寮にはバスタブが無い。お風呂大好日本人としては熱いお湯に肩まで浸かりゆっくりしたいけど、シャワーじゃ無理。
一人部屋にはバスタブが付いているらしい。なにそれ、羨ましい。
せめてもと、温度を上げて熱いお湯を頭から浴びる。
「っ……くしゅんっ!?」
ヤバい、寒いかも。この感じは風邪の前兆かもしれない。
いや、病は気からって言うし、気にしなければ大丈夫だよね?
念のため今夜は薬を飲んで寝よう、そうしよう。
しっかり気にしてしまいながらもシャワーを浴び終えた。




