92 これは夢だから
菜子が笑っている。その屈託ない笑顔が俺に向けられるなんてこと、あり得ないのに。
だからこれが夢だと直ぐに分かった。
傷つけた。俺を好きだと言ってくれた気持ちを否定した。
泣いていた菜子の手を払い、置いてきた……。
場面は次々切り替わる。
笑っている菜子。怒って、不機嫌な顔。でも、そこも可愛い。
慌てている菜子は何もないところで躓き、キョロキョロと周りを確認している。恥ずかしかったようだ。
怖いと、寂しい、悲しいと泣いている。駆け寄って、抱きしめてあげたい。
でも、これは夢だから見ている事しか出来ない。夢だと分かっているのに目が熱くなり、胸が締め付けられる。
また場面が替わる。今度は何もない暗闇だけが広がっていて、いつのまにか、俺はそこに立っていた。
「先輩」
「菜子!?」
菜子の声がした。姿は見えないが、間違えるはずがない。俺を呼ぶ菜子の声だ。
もう、聞けないと思っていた。もう、俺を呼ぶことはないと……。
「こっちですよ。どこ見てるんですか?」
「どこだ!?菜子!」
必死に菜子を探す。すると、何もなかった暗闇が、淡く光だした。それはだんだんと人の形を作り、探していた人物となる。
「やっとこっちを見ましたね」
「菜子……。何でここに?いや、これは夢だもんな……。俺も大概女々しいよな」
振っておきながら姿がみたい。声が聞きたいなんて本当に女々しい。
夢は己の願望が作り出すという。なら納得だ。高天と一緒になれと言いながら、親友だとか、恩返しとか関係なく、傍にいて欲しいと願っているのは俺自身。それが本当の気持ち……。
ああ、分かっていたさ。自分の気持ちなんて。本当は嬉しかった。好きと言われた瞬間、強く抱き締めたかった……。でも出来なかった。幼い日に自分に誓った、高天を守る。高天のために出来ることをする。
それはいつのまにか自身を縛り付ける呪いのようになっていた。
「先輩、花火大会の帰り道にした約束を守りに来ました」
「約束……?」
「覚えませんか?」と首を傾げた。忘れていない、ちゃんと覚えている。でもその約束は『居なくなる時はちゃんと言うこと』だった。
と言うことは、菜子は居なくなる?
なんだよ、それ!
「あたし、先輩を好きになれて良かった。誰かを好きになるって凄いことなんですね。心が暖かくなって、ぎゅっと締め付けられて苦しくて……。でも、嫌じゃなかった、嬉しかった。こんな経験ができたのは四ッ谷先輩だったからです。ありがとうございました」
なんだよ、なんでそんなこと言うんだよ。まるで別れの挨拶じゃないか……。もしかして、まるでじゃなく、そうなのか……?
悪い予感に胸がざわついた。
「これからのあたしは、きっと先輩の望みを叶えてくれます。先輩と一緒に一条先輩を支えてくれるはずです」
「これからの菜子?どういう意味だ?」
菜子は菜子だろう?それなのに、まるで別人のように言うのは何故だ?
困ったように笑った菜子は、考えなくて良いと言った。
「これは夢だから……。起きたら忘れてしまうでしょ?だから今は考えずに、あたしの話を聞いてください」
「話を聞いたらどうなる。今、目の前にいる菜子は居なくなるのか?約束を守るってそういう意味だろう?」
「本当はずっと一緒に居たい、でも終わりだから……。一緒には居られなくなるけど、大好きだった気持ちは絶対に忘れません。この先、何があっても大丈夫。だから……」
悪い予感は当たってしまった。さよならってなんだよ、理解できないよ、菜子……。何でお前はそこに居るんだ。何で俺は動けないんだ。
走り寄って抱き締めて、消えないように、どこにも行かないようにこの腕に閉じ込めてしまいたい……。なのになんで、見てることしか出来ないんだ。
「夢の中でしか会えないって、こんな気分なんですね……。もっと話を聞いてあげれば良かった」
夢の中で菜子とこんなふうに会うのは初めてだ、だから俺とのことを言っているのではないと分かった。
俺は菜子から目が離せなかった。瞬きをした一瞬でも消えてしまいそうなくらい、今の菜子は儚く映る。
菜子を包んでいた淡い光が徐々に小さくなり始めた。
「もう、時間ですね。先輩、最後に一つだけお願いがあります」
「最後なんて言うなよ!明日も明後日も居るって言えよ!」
「大丈夫、桜川菜子はちゃんと居ますよ」
「でも、目の前にいる菜子は居なくなるんだろ?言っている意味、全然理解できないけど、したくもないけどっ」
菜子は子供のように駄々をこねる俺を見て苦笑した。
「笑って下さい。最後は四ツ谷先輩の笑顔が見たいです」
「笑えるわけないだろ。菜子、こっちに来い!」
行けませんと否定する姿を見て、胸が痛くなる。菜子が首を横に振るたびにが遠くに行ってしまう気がした。
「想いは通じなかったけどいろんな気持ちをくれてありがとう。側には居られないけど、四ツ谷先輩の幸せを祈っています。元気でいてください。いつも笑っていてください。あたし、先輩の笑顔が大好きでした」
「さようなら」そう言って消えてしまった。
菜子が消えると、動かなかった体に自由が戻る。急いでさっきまで菜子が居た場所に走った。何度呼んでも返事はない。いくら探しても姿はない……。
「また明日じゃないのかよ……」
菜子は最後まで“また”と言わなかった。それは二度と会えないということだろう。
「菜子……」
小さく呟いた名前は虚しく落ちて消えた。
桜川菜子が居たって、お前自身じゃなきゃ意味ないんだぞ……。
「菜子……。菜子……。菜子ーー!!」
俺は勢い良く起き上がった。辺りはすっかり明るくなっていて、朝になっていることを教えてくれる。
空調が効いている寮の室内だというのに、俺は汗だくになっていた。なにか妙な胸騒ぎがする。
朝食をとる前に汗を流すそうとシャワーを頭から浴び、目を閉じた。でも、胸騒ぎはどんどん大きくなった。
嫌な夢を見た気がするが、思い出せない。とても大切なことだったはずなのに……。
食堂に行くと五嶋が居た。向かいに座ると珍しい物でも見るように覗き込んでくる。
「なんだよ、男に熱く見られても嬉しくねぇぞ」
「僕だって熱烈に男を見る趣味は無いよ。しかし珍しいね、四ツ谷が朝から此所に来るなんて。今朝は起きられたんだ。そのくせ機嫌の悪い顔して、忙しい奴」
「よるせぇよ」
「四ツ谷、素になってるよ。何があったんだ?」
何かあったのかと訊かれても困る。何も無いのだから。強いて言えば夢見が悪かったことくらいか。
黙々と食べ進める。何も考えずにいると、ふと何かが頭を過った。
「……菜子?」
「菜子ちゃんがどうかしたのか?」
「いや、なんでもない」
そうだ、菜子に会わないと。何故だか分からないが、強くそう思った。
この話から四ツ谷ルートに入りました。
よろしくお願いしますm(_ _)m




