04.「シオン」
「どうだい。大きいビルでしょ」
「……はい」
彼が素直に頷くと、メアはなにが嬉しいのかふふんと自慢気に笑った。
確かに大きい。大きいし高い。見上げても最上階までは見えない。
「まあここはお客様用の入り口だからね。私たちはこっちから」
二人は「STAFFONLY」と彫刻されたプレートが掛かる別のドアからビルの中に入る。
ドアの奥は階段になっていた。メアが先に階段を降りていく。
「……ここは何なんでしょうか」
二人分の足音が響く合間に聞いてみる。
ちらりと見ただけだが、彼にはあの金属でできたプレートはとても高級そうに見えた。それは今彼がいるビルの中も同様で、自分がとても場違いに思えて仕方ない。
「ここ? ホテルかな。レストランとかエステみたいな娯楽施設とか、まあ色々入ってるけど」
階段を降り切った先にはまたドアがある。
「ここが君の働くお店、の事務所入口。私の職場でもある」
はあ、と曖昧な返事しかできずにいる彼に、メアはドアを開けて中に入るように促した。
言われるままに、おずおずと中に入る。
中には数人の人がいた。あちらこちらから視線が突き刺さる。
部屋の真ん中に、事務机が幾つも並べて置かれている。
丁度彼の正面には中年くらいの男が一人。行儀悪く椅子に座っていた。
男が読んでいた雑誌から顔を上げ、互いに目が合う。彼は僅かに後じさり、男は訝し気に眉を寄せた。
「誰だ?」
不信感を存分に含んだ男の問い。至極もっともであると彼は思った。部屋の中の全員がそう思っているだろう。
「あ、店長いるじゃん」
ひょこりと彼の後ろからメアが顔を出す。ラッキー、という呟きが聞こえた。
「あ?メアか」
「お疲れ様でーす。店長、ご希望の品物お持ちしましたよ」
彼の背を押して室内に進む。
「品物ォ?」
「奴隷ですよ。店長、人手が足りないから奴隷でも買うかって言ってたじゃないですか。ハイこれ、預かったカードです。支払いは足りました」
「ハァ?」
店長と呼ばれた男の素っ頓狂な声と裏腹に、他からは「ああ」「……そういえば」「言ってた言ってた」という声が上がる。
「あと領収書と、彼の書類諸々です。初期登録の関係で所有者はとりあえず私にしちゃいましたけど、首輪からいくらでも変更は可能だそうです」
「おい、待て待て待て」
「はい?なんですか?」
首を傾げるメア。
「それいつの話だ」
「先週の食事の時です」
「返してこい」
「ナマモノなんで無理です。ていうか買い手側の事情での返品は受け付けないそうです」
店長が舌打ちした。
「俺素面だったか?」
「ベロンベロンに酔ってましたね」
「馬ッ鹿オメェ、酔ってる時の俺の話を真に受けんじゃねえよ。いつも言ってるだろ」
「でもレベッカさんの指示でもあるんですよ。いい加減人手が足りな過ぎるって」
それを聞いた店長は机の上にあった携帯をひっ掴んで立ち上がる。そのまま歩き出し、部屋の奥にあるドアの向こうへ消えて行った。
彼がどうしたものかと立ち尽くしていると、メアにパイプ椅子を勧められた。
椅子に座ってじっとしていると、チラチラと視線を感じる。
これからどうなるのだろうか。奴隷の仕事にマトモなものはないと耳にした事があるが、果たしてここでもそれが適用されるのか分からない。
「大丈夫だよ。悪いようにはならないから」
隣に座るメアを見る。
それが所有者の言葉故か、彼は自分でも驚くくらいに落ち着いた。
彼の内心など知らず、メアは周囲からの笑い混じりの冷やかしに得意気な顔を返している。
やがて店長が戻ってきた。店長席に戻ると、 「そいつの世話は当面お前んとこで頼むだってよ」とメアに告げた。
「了解です。話はついたんですね」
「人が足りねえのは事実だからな。猫の手よりは幾らかマシだろ」
店長に横目で睨めつけられて、彼は内心竦み上がる。
「で、お前、名前は?」
「え、あ……ええと」
名前、自分の名前。
慌てて記憶の中を探し回るが思い出せない。最後に名前を呼ばれたのは数年前で、それすら生まれた時に付けられた名前ではないのだ。
「……忘れました。済みません」
素直に白状すれば、店長は 「あ?」メアは 「マジで?」と声を漏らした。
「おいメア、どういう事だ」
「いやー、私にもさっぱり……君、ホントに自分の名前覚えてないの?」
「……は、はい」
「うわそうなんだ。びっくりびっくり」
「俺はお前が名前も聞いてなかった事にびっくりだ」
気まずそうにアハハと笑うメアを一瞥し、店長は彼に視線を戻す。
流石に自分の名前も忘れるほどの脳なしを働かせる気はないのだろうか。明日にでも返品されて、また檻の中に逆戻りか。彼がマイナス方向に想像力を膨らませる。
そんな事を知る由もない店長が「こいつの名前どうするよ」と呟くと、なぜかそこから、事務所にいる人員総出で彼の名前を決めるための話し合いが始まった。
話し合いは混迷を極めた。
誰かがインターネットで人気の名前を検索し、また他の誰かが子どもに付けたかったという名前を口にする。
候補を挙げては否定するという事を繰り返し、平行線を辿り続ける議論に誰もが嫌気がさしてきた頃、誰かが 「もうポチとかタマでいいだろ」と呟いた。
いくらなんでもポチは嫌だ。
彼が冷や汗を流していると、 「おいメア、お前も案出せ」とメアにお鉢が回ってきた。
「じゃあシオかコショウがいいです」
部屋の中が束の間静かになり、すぐに、「流石にそれは」 「いくらなんでも胡椒はない」と非難が噴出した。彼にしてみても、シオとコショウもポチと大して変わらない。
「大事な調味料じゃん、塩胡椒。それにあやかろうと思ったのに」
「紛らわしいだろ。塩胡椒なんて」
「ちぇー、じゃあシオンで」
「どれだけ塩に拘るんだ」
「うるさいなあ。……君はどう思う?嫌かな、『シオン』は」
「いいです。シオンでいいです」
カクカクと首を上下に振る。
正直なところ、シオンでもシオノでも構わない。ポチやコショウでなければもうなんでもよかった。
「ほらみろー!」
勝ち誇った様子のメアに、あちらこちらから文句が上がるが、店長の「決まりだな」という一言で渋々ながらも収まった。
「今日からお前はシオンだ。いいな」
「は、はい」
再度頷く。シオン、シオンと新しい自分の名前を頭の中で繰り返す。
「次は挨拶だな。……つってもまだいねえ奴もいるし、揃ってからか」
これでこの一件は終わりになったようで、それぞれが各自の行動に戻る。
そっと俯いて息を吐く。仕事も始まっていないのに疲れ切っていた。
顔を上げると、自分のものと比べて2回りも3回りも小さな手が視界に映る。隣を見ると、メアが手を差し出していた。
「……あの、」
どうかしましたか、と聞く前にメアが口を開く。
「名前も決まった事だし、改めて。ほら手ぇ出して」
言われるままに片手を出すと、その手を握ってメアが笑う。
「これからよろしくね、シオンくん」
メアの手をぎこちなく握り返し、シオンも言う。
「よろしくお願いします」