03.仕事場
「はい起きて起きてー。夕方だよー、素晴らしき労働の時間だよー」
その声を聞いて飛び起きた。壁に掛けられた時計の針は4時をさしている。まさかあのまま寝入っていたのか。なんて事だ。
「あ、あああの、俺、済みません寝てましたごめんなさい」
咄嗟に出てきたのは笑える程に上ずった声。顔から血の気が引く音が聞こえてこないのが不思議なくらいだった。
「え?いやー別にね、寝てたくらいで怒りゃしないけどさ。何だ、お店じゃ寝てると怒られたの?」
「……はい。まあ、そうです」
正確には怒られるというより殴るか鞭が飛んできた。就寝時間以外は大抵、檻の中に並んで買い手の気を引くのだが、そこでしょっちゅう舟を漕いでいた。檻を蹴飛ばされて怒鳴られるくらいなら優しい方だ。
あの鞭捌きは凄かった。檻の格子を縫って飛んでくる精密さ、そしてそれ以上にとんでもなく痛かった。
それにしても“お店”か。なんというか絶妙に婉曲的な表現だなと余計なことを考えた。
「店に並んでたら怒られるかもねえ。一応は商品だったわけだし、売れるようにアピールしてほしかったのかもね」
「……あ。あー、成る程。それは、確かに寝てたら駄目でした」
今になって売り手側の心情が分かってしまった。分かりたくなかった。いや、まあ、正解かは定かじゃないが。
「まあお陰で安く買えたんだけどね」
なんと。
ケラケラと笑って軽く言ってくれるが喜ぶべきなのか傷つけばいいのか分からない。
「さて出発するよー。窓よしカーテンよし電気よし火の元よーし。あ、これ持ってって」
ジャンパーを放られた。今更だがメアも上着を着て、ショルダーバックをかけている。
「よし出発だ」
細かい準備を済ませて外に出る。「これ君のね」とスニーカーを渡されたが服といい食事といい一体どうなっているんだろう。
外は上着なしでも十分に暖かい。夕方に差し掛かる頃合いの空は、まだ穏やかな水色をしていた。
「こっちだよー」
メアに付いて歩いていく。アパートを出ると雑多な街並みが目の前に広がっていた。
目に映る景色が物珍しい。というか外自体がもう珍しい。
「この辺は来たことない?」
というメアの問い。答えに詰まる。
「……ここがどこだか……」
「え?」
何と答えればいいものか。彼は言葉に迷う。
「ええと……多分、ここは俺が住んでた町とは違うと思います。……昔に住んでたのは確かアマタナっていう町でした」
十年以上年前の記憶で、あまり当てにならないけども。
「んん、アマタナっていう町は聞いたことないなあ。移動したからって品物に現在地を一々教える理由も無いし、買った場所でそのまま売るかって言われりゃ売らないか」
その地域や国が奴隷売買を禁じているなら尚更だ。
彼女に名前の響きだけで近場かそれともどの地方の名前かなどを判断する技能はない。顔つき、肌や髪の色でもある程度分かるかもしれないが、こちらも同様に分からない。使っている言葉は同じだし、流石に国境まで超えちゃいないだろうというのがメアの考えだった。
彼は気になっていたことをメアに尋ねる。
「この街、……土地は、なんというんでしょう」
2人が歩く路地に人はいない。とても静かだ。
「この辺はクロガネって呼ばれてるよ 」
それからもぽつりぽつりと会話をした。彼が質問してメアが答える。彼は誰かと会話するのも新鮮だった。随分と話した気がする。
進むにつれて、人通りも段々増えた。
そこそこ広い道を歩きながらメアが言う。
「ここを真っ直ぐ行くと大きな道に出る。人が多いから気をつけてね」
忠告虚しく、彼は流れる人の波に翻弄された。何度となく肩がぶつかり、時にはあからさまに不快な顔を向けられる。
「えっ、あ。……メアさん?」
ほんの数秒目を離しただけで見失ってしまった。
「こっちだよー」
慌てて声の聞こえた方を見れば、少し離れた人混みの中でメアが立ち止まって手を振っている。
慣れない人混みを掻き分けて、彼は大急ぎでそちらに向かう。
彼が隣に並んだ事を確認してからメアは歩き出す。
「大丈夫?」
「は、はい」
何とか、という言葉は飲み込んだ。
それからは無言でとにかくメアに付いて行く。小柄な彼女は行き交う人で簡単に隠れてしまうので見失わないように必死だ。
無数の枝道が伸びる目抜き通りをどれだけ進んだか。メアは道の両脇に無数に並び立つ高層建築のひとつの前で立ち止まる。
「じゃーん。ここが今日から君の仕事場だよ」