恋は戦争
一度はやっておこうと乙女ゲーというジャンルに乗ってみました。ひとまず満足した。
12/1 誤字修正しました。報告ありがとうございます。
12/3 誤字修正・加筆修正しました。報告ありがとうございます。
「そういえばさぁ、水無瀬の好きなタイプってどんなの?」
新開学園高等学校の校舎2階端に存在する3-Fの教室、水無瀬と呼ばれた青年は前の席に座って雑誌を膝に広げる元宮詩織の言葉に瞬きをした。
昼休みに教室に残った女子生徒の意識がこちらに向いたのを感じて、水無瀬柚月は意識して唇の端を上げた。
「元宮みたいなの…………って言ったほうがいいのかな?」
「いらんわ、馬鹿」
落胆したようにざわついた周囲は、すぐに安堵の吐息に変わった。
にやりと茶化すように笑った柚月に目の前の学年一の美女は心底嫌そうに悪態をついた。
お互い、一緒にいるのは居心地がいいのだが、いかんせん異性としては相性が悪いことを二人とも知っていた。
「好きなタイプ……ねぇ。あ、歩いてるとボブの髪型の子には目が行っちゃうかな」
教室中でボブの髪型の女子が色めき立ち、ロングの女子は髪を切ることを決意するが、柚月の続けた言葉に勇んだ心は急停止した。
「妹と同じ髪型だし」
どうしてこんなことになったのかって?
それは自分の優柔不断な性格のせいだ。
「あ~う~」
上り階段の陰で水無瀬花音はしゃがみこんで項垂れていた。
ここは入学して間も無く探検した際に見つけた自称『花音の避難場所』だ。
今日も朝から放課後まで色んな生徒の視線を集めてぐったりとした花音は、一緒に帰る兄が用事を済ませている間、このベストプレイスでちっちゃくなっていたのだが、そんな彼女は容赦なく襲い掛かった追い討ちにしょんぼりと華奢な肩を落とした。
恨めしげに視線を落とした彼女の手に握り締められたスマートフォンの画面には、仲良くしてもらっている3年の先輩から『水無瀬の好きなタイプはボブの髪型の女の子だって。妹と同じ髪型だから(笑)今、3年の教室でその噂蔓延ちゅ~^^;』という悪夢のようなメールが着ている。
最悪だ。
花音は青褪めた。
明日中にも1・2年の教室には、兄 柚月の好みのタイプについての噂が蔓延して、教室には1年から3年までの雑多な野次馬が花音を見にくるだろうし、好みのタイプの理由とされた妹としては校舎内を歩きづらくなることこの上ないだろう。
ただでさえあの水無瀬柚月の妹ということで注目を集めているのに、
(……誰だ、好みのタイプなんて馬鹿なこと聞いたやつっ!)
憤って結局のところ怒りは持続せずにすぐ萎んで、花音は見つけた金属性の細い棒でタイルとタイルの隙間に差し込んでひたすら綿くずや砂を掻き出す。
地味なストレス解消法だが、意外と熱中できる。
花音は息を長く吐いた。
わかっている。
自業自得なのは。
後悔したことはないけれど、でもストレスが溜まるのだ。
花音は項垂れて膝にぐりぐりと小さな額を押し付けた。
赤くなっているかもしれないけれど知ったことか。
「それにしても……さっすが学園のアイドル、『攻略対象』の噂はすぐに広がるわ」
あはは、と自嘲したような笑い声がシンとした空間に広がって溶ける。
この世界が『恋は戦争』という乙女向けの恋愛シュミレーションゲームの世界観と同じだと花音が気づいたのは、いつからだっただろう。
もしかしたら乳幼児特有の視界の悪さがなくなって、覗き込む兄の顔をはっきり見た時からかもしれない。
(あの時は、誰かに似てる?う~ん?って感じにしか思わなかったしなぁ)
名前を注意深く聞いてみると兄が“水無瀬柚月”で妹の自分が“花音”、丸まんま恋愛シュミレーションゲームの攻略対象とその妹だったのだ。
気のせい?と思って注意深く観察してみても、兄はやっぱり“水無瀬柚月”の面影があり、妹の私もやはり“水無瀬花音”の面影があった。
そして両親の顔と名前、住んでいる街の名前もお隣の夫婦、わんちゃんもやっぱり覚えている通りだった。
さて、『恋は戦争』という恋愛シュミレーションゲームは学園が舞台のゲームで、それプラス何か―――ゴシック要素etcetc―――が加わるということはない純粋な学園もののゲームだ。
それゆえコンセプトはいまいち弱く、攻略対象も隠しキャラを合わせて6人という昨今のゲームとしては少ない仕様だが、とても人気があったのは質のいいシナリオと、多彩なED、現役の漫画家が線画を担当した繊細なパッケージイラストにイベントCG、そしてキャラクターデザイン、そして人気の中堅どころ声優を使っていることに起因するだろう。
ボリュームもあり、一部ののめりこめなかった者には“長過ぎる”と批判されているが、一人でもはまったキャラがいれば概ねボリュームの多さは好評だった。
内容は単純、春に新入生として入学した主人公が様々な男性と出会い、そして一緒にいるうちに彼らの悩みを知り、真正面から一緒に立ち向かっていくというストーリーだ。
単純だが、心理描写も細かくイベントも多いし、CGも多い、製作スタッフの情熱が見える作品でもある。
ただOPアニメーションは外注らしいがクオリティは微妙だった。
(それを私はプレイしてたらしいけど)
概要はともかく、いつやったとかはまったく思い出せない。
花音の兄 水無瀬柚月はこの学園の3年生でモデルのようなすらりとした体躯をし、ふわりと柔らかい橙の髪と碧眼、砂糖菓子のように甘い顔立ちをしている。
妹の自分から言わせて貰えば、確かに顔はいい、さぼり癖はあるが成績だっていいし、要領もいい。
女性の扱いも慣れていて、普段の会話に口説き文句をさらりと混ぜてくるところはちゃらいが、まぁそういうキャラクターだから仕方ない……はず。
器用貧乏というか、要領がいいゆえに満たされない、本当に叶えたい願いに手が伸ばせないキャラクターだったのだが。
(何がどう間違ってこんなに痛いシスコンに……)
花音は顔を上げて自分の白い膝頭を見下ろした。
少しピンクがかった茶髪はこてで巻いた毛先が首元にふわりと絡み(ちなみにこれは兄がやった)、ロイヤルブルーの大きな瞳、誰もが羨むような白い肌、薄めの赤い唇、折れそうな華奢な手足、150センチの小さな体は男子生徒の間では守ってあげたいと評判がいい。
また容姿を鼻にかけない大人しい性格がうけて人気上昇中である。
本人が見た目とは裏腹に地味な性格をしているだけだが、とにもかくにも対外的には水無瀬花音は守ってあげたくなる美少女だった。
そして水無瀬柚月ルートではキーキャラクターでもある。
満たされないチャラ美形柚月のお悩みがこの妹に関することだからだ。
ゲーム本作では幼い頃から仲良しだった水無瀬兄妹は、中学生を境に妹が兄に距離を取りはじめた。
思春期だからか?と兄は訝しんだが、妹は戸惑ったように兄を避け、ろくに会話もしなくなる。
そのことが何でもない態度を取る兄のずっと抜けない棘となるのだ。
しかも思い詰めたような妹に、起用貧乏の兄は何かあったのか?と妹に直接聞こうとはしなかった。
なぁなぁな人付き合いしかこなしてこなかった彼はどうしたらいいのかわからなかったし、正面から聞くという行為が怖かったのだ。
妹は失っても惜しくない交友関係とはまったく違ったために。
一方、妹は何故兄を避けるようになったかというと、実は兄とは血が繋がっていないということを偶然、知ったからだ。
兄は花音が生まれたばかりの頃、事故死した父の友人夫婦の子で、天涯孤独のその子を両親は引き取って実子のように育てた。
だが、事実を知った花音はどう接していいのかわからずに混乱し、何も知らない頼りにしていた兄に相談するわけにもいかず、どうしたらいいのか悶々と悩んだ。
兄が大事で家族だと思っているからこそ、この事実を知ったら兄はどう思うか、そう思うと妹も踏み出せなかった。
この問題を癒しオーラ満載の主人公が柚月と接し、妹へと向き直らせるきっかけを作るというのが水無瀬柚月ルートである。
(でもねえ……)
妹はショックで兄を避けるようになったとあるが、
(兄は橙髪で私がピンクがかった茶髪って……普通兄妹じゃないってわかるでしょうが)
花音は毛先を白い指先で摘んで溜息をついた。
ちなみに父は茶髪で、母はピンクの髪色で花音の髪色はもろ遺伝の影響を受けている。
結局のところ、何故、水無瀬柚月が痛いシスコンになったのかというと、ゲームの本編とは違って花音が兄を避けることしなかったから。
(だってだって、しょんぼりさせるなんて可哀想じゃん。お兄ちゃん、悪い人じゃないのに、むしろ家族想いでいい人なのにさ)
買い物に行こうと言われ断れば憂い顔をする兄が可哀想で、我が家はリビングで勉強をすることを義務付けられているのだが、妹に勉強を教えたそうにそわそわする兄を放置するのが不憫で、ついつい受け入れた結果、なぜかこうなった。
自分も大概ブラコンの気があるので痛い兄妹だ。
(何でゲームの妹ちゃんはこの兄を無視出来たの!?)
スマートフォンから着信音が鳴り響いたのは兄が設定した彼専用の甘いラブソングだ。
何故、この着信音にしたか怖いから確かめたくない。
内容は用事が済んだというメールだろうから確認せずに、タイルとタイルの間に金属棒を動かしてごみを出す。
この場所にいることも知っているから、ここまで兄は来てくれるはずだ。
(あああ~、気持ちいいくらいよく取れる。この隙間って誰も何もしてないのね~。……そういえば、今気づいたけど悩み解決するっていうフラグ自体ぱっきり折っちゃったのよね)
今年、新開学園高等学校に新入生として花音と一緒に入学してきた主人公 高郷ほのか。
彼女はこのままじゃ柚月ともう一人 地村征司を攻略不可だろう。
(でも、駄目なら他のキャラとくっつくよね?)
「ああ、やっぱりここにいた。帰るよ?」
「ちょ……先輩!?」
面倒な事態にならなければいいな~と内心で考え、しゃがみこんで小さくなっていた花音に陰が差す。
聞き慣れた深みのある優しげな声と聞き覚えのない女生徒の声に花音は顔を上げて首をコテンと傾げた。
女性を伴ってくるなんて珍しい。
大概、男子にも女子にも人当たりがいい人だけれど要領がよく、相手に不快感を持たせずに煙に巻く兄は妹を迎えに来る時は一人でくるのに。
女子生徒はぶしつけにも「行っちゃやだ」と兄の背後から腹に手を回わして抱きついてきたので、花音も柚月も嫌そうに眉を顰めた。
顰めるだけではなく、彼女の腕を力づくでほどく兄の顔は少し不機嫌で、それは花音も同様だった。
「先約があるんだよ、悪いけど」
「元宮先輩のことでしょ?あの人とは虫除けに付き合ってるふりをしてるって、私わかってるんですか……ら」
(何か妙に上から目線だよね)
不快感に眉を顰めたままの花音は、兄の体の向こうからひょっこりと顔を覗かせた馴れ馴れしい態度の少女の顔をはっきりと認識して、口から叫びが飛び出しそうになった。
ぽかんと口が開いてしまっている。
(なっなななな!?何で主人公が!?)
栗色の髪は艶やかさを見せつけるように背に流され、顔は美少女とまではいかない平凡な顔立ち、髪と同色の瞳、身体つきも出すぎてもいなく、太りすぎてもいないプレイヤーの分身、まさに平均的な主人公である高郷ほのか。
彼女も柚月の先約の相手が予想外で驚いたらしい。
ぽかんと大口が開いてしまっているが突っ込む余裕が花音にはない。
「えっ!?何で先輩と妹とは仲が悪いんじゃ……」
(え!?)
何故、水無瀬兄妹はこの世界では仲が悪かったことはないのに何故そんなことを言うのか。
彼女はもしかして本来ならば水無瀬柚月が妹と仲が悪いと知っているのか。
(そもそも何で私が妹って知ってるの?それもおかしい)
ゲームの展開どおりに進むのであれば、彼女とはもっと後で会うことになるし、兄と接していて妹が同学年にいると知っていても、主人公はその顔合わせで花音の顔を初めて知ることとなるはずだ。
何かおかしい。
絶対、おかしい。
「何でも何も俺が妹と仲が悪かったことはないけど?」
口元に笑みを浮かべているが兄が苛々しているのを感じ取って妹は内心でビクビクとしていた。
兄は本気でキレると非常に怖い。
(そりゃあ私とお兄ちゃんが仲悪いって言われたんだもんね)
完全なる一方的な決め付けは妹を大事に思っている兄には気分を害すのに十分な内容だろう。
花音だっていきなりそんなこと言われれば気に入らない。
笑顔を浮かべているものの、ぴりぴりとした空気を読み取ったのかもしれない主人公が泣きそうな戸惑った表情を浮かべた。
(あ、敵認定された)
素直に謝罪も自らの発言を訂正もしなかった彼女は兄の脳内敵リストに加えられたらしい。
今まで花音に無理矢理迫った男たちが主な加入メンバーだったから、貴重な女性としてはこれでおそらく5人目だ。
「で、でも」
まごまごと食い下がる主人公をさらっと無視して柚月は未だしゃがみこんでいる花音に手を差し伸べた。
仕草が優しいものの彼が背後の主人公を拒否して、ピリピリとしているのを感じて花音はビクビクする。
(早く立ち去りたいっ!こわい、凍死する!)
慌ててその手をとって立ち上がる。
壁際に置いてあったバッグは優雅な仕草で兄が回収済みだ。
「帰ろう、花音」
「う、うん」
すれ違いざまにちらりと主人公を見ると彼女は花音をきつい視線で睨み付けていた。
(こっ、えええええぇぇぇぇ!!!癒し系、どこ行った!?カムバック癒し系)
「あ、あのっ、水無瀬さん話が……」
「ごめんなさい、用事があって……」
翌日は予想通り、花音がいる1-Bの教室には水無瀬柚月の好みのタイプだと言わしめた妹の存在を見ようと1~3年の生徒が休み時間のたびに詰め掛けた。
そうして、男子生徒はその清楚さに頬を染め、女子生徒は敵わないと肩を落とす。
正直、うざったくて仕方ないが小市民の蚤心臓しか持たない花音は、咎めることも出来ない。
言いたいことが言えない日本人なのだ。
ようやく昼休みになって、兄手製のお弁当を持って教室を飛び出す。
途中で頬を赤らめ緊張している男子生徒が声を掛けてきたが、申し訳なさそうに眉を下げ慌ててその場から離れた。
彼らの目的は明らかで、それをわからないと天然ぶるつもりはないし、本来だったら話を聞いてきっぱりと断るのがいいのだろうけれど、今は会わなくてはいけない人がいる。
廊下を早足で進む花音は相変わらずの他人の視線にげんなりとしつつ、階段を小走りで降りて左折したところで、前方からあまり会いたくない人物に出くわした。
一瞬、足を止めそうになったけれど、そもそも攻略対象の1人でもある彼 日向煌のことはこちらが一方的に知っているだけで、あちらは私のことなど知らないに違いない。
そう考えた花音は満足げに息を吐くと足取り軽く進んだ。
段々とその人物と近くなってくるとその猛々しい容貌もはっきりとわかってくる。
(ワイルド系のいい男よね~。見た目どおり性格も俺様でそこが趣味じゃないけど)
赤い髪の毛は無造作に後ろに流され、皮肉気なアイスブルーの瞳が主人公を見下すのだ。
悪い人物ではないのだが、どうにも掴み難く扱い辛い。
つまり面倒くさい。
(身長はお兄ちゃんよりもちょっと大きいのね~)
すれ違う瞬間、こそこそと観察していた花音の視線と男の視線がかち合った。
「!?」
「おい、お前。水無瀬の妹じゃねえか?」
「……チッ、ガイマス、ヨ?」
思わず上ずった声に日向が目を細めて、睨み付けているのか、凝視しているのかわからない視線を向けてくるので花音は引き攣った。
驚きすぎてそのまま立ち去ろうと思っていたのに思わず足を止めてしまったのが大層悔やまれる。
というか逃げたい、今すぐに。
「いや、間違いねえ……はず。水無瀬のスマフォのデータフォルダにあったのは、ぜってえお前の写真だったはずだ」
(おにいちゃあああああああんのばかあああああ!!!!)
じろじろと不躾に見てくる日向に花音は逃げ出したくてたまらない。
でも彼に背を向けるのは危険と本能が何故か言っている。
「……」
「ふぅん、水無瀬の妹だけあって見目はいい。お前なら連れ歩くにも不足はない。ちょうどいい、暇つぶしに付き合え」
根はいい人で親の教育方針のせいでこうなってしまったんだし、体の弱い兄との確執とか、その他もろもろとか、と花音の頭の中では走馬灯のように自分を宥める理由を列挙してみたが、どうにも我慢ならなかった。
外見はともかく、中身は地味で優柔不断でぐうたらな花音だが、そんな彼女でも今の言い草はカチンと来たのだ。
「お断りします」
日向が驚きで目を瞠るのを花音は冷めた瞳で見やった。
「……何だと?」
彼は自覚がないのかもしれないが、予定すら聞かないということは、相手を格下に見ていると同じことだ。
(つまり、相手が言うこと聞いて当たり前ってことね)
対して花音は優柔不断で地味でぐうたらだが、ぐうたら故に兄に髪を結んで貰ったり、弁当を作ってもらったり、優柔不断でレストランのメニューが決まらなかったら迷っているメニューを兄が頼んでくれて半分こしてくれるという甘やかされっぷりだ。
兄以外の他人に何かを求めることはないが、見ず知らずの他人に何かを強制され束縛されるのは大嫌いだった。
「お前、誰に口答えしてる」
「さあ、貴方のような面倒くさい人は存じ上げません。では」
ピリピリとした剣呑な雰囲気が辺りに漂うが、花音はにっこりと綺麗な笑顔を浮かべて応戦した。
本当は知っているけれど、知っているなんて言いたくもない。
これからこいつは面倒くさい人で通そう、花音はそう心に決めて、その場から逃げるように走り出す。
「おい!」
「腕とか掴んだら、痴漢!とか変態!とか暴力振るわれそうとか叫んでやりますからね!」
ここからだったら悲鳴の一つでも上げれば反対側の職員室や保健室に届くだろう。
腕を掴もうとした日向が花音の言葉に思わずためらった隙に花音は全力疾走でその場を立ち去った。
「悠先輩!」
「かのちゃん、遅かったねえ?何かあった?」
中庭まで息切れするほどの速度で走ってきた少女に、悠と呼ばれたスタイルのいい女は持っていたペットボトルのお茶のキャップを開けて手渡した。
よれよれと座り込んだ花音の弁当箱を代わりに受け取って背中を擦ってくれたので、ついつい花音は甘えるように寄りかかってしまった。
この杉浦悠先輩はそれなりに付き合いが長いので兄の次に安心する。
「すみ、ま……」
「いいから飲んで」
ごくごくと手付かずのペットボトルを半分ほど飲み干して落ち着いた花音は、ボトルの残量を見て、しまったという顔をした。
「ご、ごごめんなさ……」
「いやいいから、落ち着いてちょうだい。それより何かあったの?」
気にするなと手を振った悠に花音は恐縮するように頭を下げる。
悠の心配そうな問いに花音は先ほどのいけすかない男がポンと脳裏に浮かび少しイラついた。
(床磨きしたい。帰ったら絶対してやる)
ひたすら磨くというのは、部屋も綺麗になるしストレスも解消される一石二鳥の地味な花音のストレス発散法だ。
でもこの先輩に心配を掛けるのはよろしくないだろう。
何よりあの日向煌と悠は同学年なので、事情が知れれば殴りこみに行きかねない人情厚い男気のある先輩なのだ。
「いえ……あの、何でもないです。それより昨日主人公と会ってですね。会ったというより兄にくっついてきたんですけど」
「うん?ひとまず食べながら話そうか」
そう言って彼女はコンビニのパンを取り出して開けたので、花音もそれに倣って兄手製の弁当のふたを開けた。
主人公である高郷ほのかのことをこの先輩に話すのは訳がある。
悠は何とこの世界観が乙女向けの恋愛シュミレーションゲーム『恋は戦争』とまったく合致していることに気づいている、いわゆるお仲間だからだ。
そして彼女も花音と同じく一年生の攻略対象キャラクター、杉浦颯のキーキャラクターでもある。
颯の姉でもある彼女は中学校1年生の頃、兄と同じクラスだったのだが、何回か仲睦まじく一緒に帰る水無瀬兄弟を見かけて、この時期にはもう水無瀬兄弟はギクシャクしているはずなのに何故イベントどおりではないのだろう?と不思議に思い、花音に偶然を装って接触してきたのだ。
その時からの付き合いだったりする。
「私とお兄ちゃんが一緒にいるところを見て、“先輩と妹とは仲が悪いんじゃ……”って言ったんですよ、あの人。これって……」
「私たちと同類かもね」
けろりと言ってのけた悠に花音の箸が止まる。
それが問題かと言われれば、問題ではないのかもしれないけれど、花音には睨まれたあの目が忘れられなかった。
「入学式から一応、出来るだけ主人公ちゃんの動向、追ってみたのよ」
「え?そうだったんですか!?」
「そしたら彼女、初日から全股ルート狙って動いてたわよ?」
このゲームにはエンディングが多いことは既述済みだが、メインキャラクターはGOOD END1、GOOD END2、友情END、BAD END1、BAD END2の5種、隠しキャラはGOOD END1、GOOD END2、友情END、BAD END1の4種、個別恋愛ルートに入っていないシナリオ上のBAD END(主人公の成績が足りないための落第や中退、交通事故による死亡、殺される、恋愛対象キャラの失踪など)が10種以上、1人きりのNORMAL END、親友との友情エンド、留学END、学園クイーンEND、スポーツ推薦END、そして一番条件が厳しい全股ENDが存在する。
これは決められた順番で相手を訪ね、決められた選択肢を選び、シビアな期間でパラメーターをあげなくてはいけない初見では鬼畜なエンディングで、他のエンディングを全てクリアして初めて、ヒントが出される。
初見で狙うなら、まず隠しキャラを引っ張り出すのに苦労することになるが、事前情報なしではまず成功しない。
「でも、全股って……」
「そうね、無理ね」
水無瀬柚月はもうイベント自体が起こらないし、何より―――。
「兄は彼女がいますし」
「そうなのよね~……、シスコンくせに」
付き合って2年経つ今も悠は未だに信じられないと言うけれど、兄の彼女 上橋亜紀をよく知っている花音は納得している。
亜紀は度量が大きいのだ。
「今までお兄ちゃん、何人かの女の人と付き合ってきたけど、結局私との約束を優先させるから、駄目になっちゃったんですよね」
兄は必ず土日のどちらかは妹と出かけるので、デートはそれ以外の日でという注文をつける。
兄妹はメールも頻繁にするラブラブっぷりなので、結局は妹と私どっちが大事なの!?となってしまうらしい。
「一時期は私のせいでって思って、それが負担だったんですけど……兄とちゃんと話し合ってすっごく考えたんです。そしたら、妹との約束であっても先約を優先させるのは当然だってことに気づいたんですよ」
「まぁ、そうね」
どんな場合もよっぽどやむにやまれぬ場合以外、先約が優先されるのは当たり前で、その時の感情だけで先約をキャンセルするような人間はただのいい加減な人間だ。
「それに兄が言ったんです。家族を大事にすることは駄目なことなのかって。過去の彼女さんの不満もわかるし、でも彼女さんが恋人と家族を同じ次元で考えることが間違ってるんじゃないかってとも思ってたんです。……この考え方が恋愛において一般的じゃないってこともわかってるんですけど。でも話し合って、よく知らない彼女さんの気持ちを守るよりも、兄を大事にするって私、決めたんですよ」
「いいんじゃない?決めたんなら。で?今の彼女はどうなの?」
悠の問いに花音は、ぱあっと顔を輝かせた。
「とってもいい人です。たまに一緒に買い物行くんですよ!服のセンスとかもよくて……、何より私にも、お兄ちゃんにも手を差し伸べてくれます」
過去の兄の彼女たちは花音になんて見向きもしなかった。
興味がなかったしそれでもよかったのだけれど、だんだんと兄が妹を優先させることの敵意を向けられてくるのが花音にとっては辛かった。
けれど、今は違う。
「まぁ、かのちゃんはブラコンだし、水無瀬はシスコンで我儘だから度量がでかい彼女じゃないと駄目なのよね」
「悠先輩だって、地村先輩じゃなきゃ駄目じゃないですか」
「とーっぜん!征司はあたしのヨメよ!」
冷やかしの言葉は効果を発揮せずからりとした表情で悠は言い切り、「でもあの女、ちょいちょい征司の周りをうろうろしてんのよね」と渋い表情をした。
攻略対象キャラの1人、2年生の地村征司は悠の恋人だったりする。
寡黙でがっしりとした体型の剣道部のエースは去年の入学時から悠のもうアタックを受けたらしい。
剣道ばかりで女性にあまり免疫がない彼は悠に戸惑っていたらしいが、ひたすら押して押して押して押し捲る彼女に絆されたのか、秋の終わりには付き合い始めた。
(悠先輩、中学生の頃から地村先輩のキャラクターがすっごく好み。高校で会ったら絶対落とすって言ってたもんなぁ)
彼が攻略対象ということを気にもせず、彼女は彼を落としたのだが、そのため主人公の高郷ほのかが地村を落とすことも出来ないだろう。
彼女と地村は非常にラブラブだ。
付け入る隙も……と思ったところで着信音が鳴った。
ベルの音というシンプルな着信音は勿論、花音のものではない。
弁当箱を片付けながら悠を窺うと、彼女は携帯電話を指先で操作して思いっきり眉根を寄せて荒々しく立ち上がった。
怖い、まるで背後に般若が見えるようだ。
何が起きたのだろう。
「悠、先輩?」
「……一年生が征司にちょっかいかけてるって。ふざけんなってんのおお!あれはあたしのヨメだっ!」
「ちょっと待、って」
荒々しい足取りで校舎へと向かう悠の後を、彼女が食べたパンの袋とペットボトル、花音の弁当箱を回収して慌てて追う。
(何だか嫌な予感がするなぁ)
花音のこの予想は哀れにも当たることになる。
悠を追った先、第一体育館に続く野次馬が集まる廊下で彼女と言い争ってるのは案の定、主人公の高郷ほのかだった。
彼女は地村の太い腕に取りすがるようにべったりとくっついて腕に頬ずりしている。
地村が腕を引いてさりげなく離そうとしているのだが、とりもちのようにべったりとくっついているためまったくその成果は出ていない。
だからといって武道を嗜んでいる彼は女性に手荒なことをするのがためらわれるのだろう。
それがまた地村の彼女である悠の気に障るようだ。
(あわわわわ……何てこっちゃ~)
「ちょっと!人の彼氏にちょっかいかけないでくれない?」
普段は人懐こい悠の快活な顔が冷淡な表情を浮かべる。
「彼氏?」
高郷ほのかが、こてんと首を傾げて地村と悠を交互に見つめて、けたけたと笑った。
「ええ~?杉浦くんのお姉さんと地村先輩がぁ?何の冗談ですか?だって、地村先輩は女慣れしてなくってぇ……、これで誰かと付き合ってるなんて……」
彼女の中ではこれもゲームではなかったことなので有り得ないのだろう。
兄の件もあるのにどうして学習していないのだろうか。
それとも初日の邂逅での反応の悪さは高感度が低いためとでも思っているのだろうか?
けれど地村が、
「俺は悠と付き合ってる」
と魅力的な低音で言うと彼女は顔色を変えた。
女性に慣れていない地村というキャラクターは、女性を名前で呼ぶことは絶対になかった。
ましてや、呼び捨てなど以ての外だ。
それがわかったのだろう。
信じられないという表情で呆然と地村を見上げる高郷ほのかの腕が緩んだ隙に、彼は彼女から距離を取った。
そのまま、足早に悠の元に向かう。
(何か、相変わらずのワンコっぷりだよね)
去年の冬に何回か引き合わされたが、花音から見て地村は悠の忠犬にしか見えない。
悠が地村の腕に自分の腕を絡め、高郷ほのかを睨みつけ牽制している。
牽制されている当の彼女はというと、うつむいて何かぶつぶつと言っているらしい。
その様子が不気味だったが花音は同時にとても哀れだとも思った。
周囲に集まっている野次馬が気味悪げに彼女を見た。
「おかしいじゃない、水無瀬先輩といい、地村先輩といい、妹と仲良かったり、杉浦くんのお姉さんと付き合ってたり、有り得ないのに……だってなかったのに、そんなシーン……」
彼女は屈辱に顔を歪め、悠とその後ろで佇んでいた花音に気づき睨みつけた。
邪魔をする者は許さないとでも言うように口火を切る。
「私を馬鹿にして……許さないんだからっ!」
「受けて立ってくれるわ!あたしと征司の仲を邪魔するものはコテンパンにしてくれるわ!」
(ええええええぇぇぇ!?受けて立っちゃうの、悠先輩っ!)
非常に面倒なことになった、どうしよう面倒だ、と嘆く花音はまだ知らない。
本日、廊下ですれ違った攻略対象の1人、日向煌があまりに生意気だった花音に興味を持ったことを。
ちやほやを狙っていただけの主人公ちゃんが何となく哀れ。