(8-3)
万魔殿は生きた迷宮である。内部構造は複雑に蠢き、廊下が部屋が常に蠕動し、侵入者を惑わす。
勇者一行もまた、その攻略には苦戦を強いられた。入り乱れた迷宮と、数々の罠を突破し、奥へ奥へ。ここまで来た以上、もう引き返すことはできないのだ。
「魔王め……堕ちたな。我が身かわいさに貴重な大魔石を使ったか」
勇者はそんなことをつぶやきながら、四体の魔獣との激闘を乗り越え、ボトムとの再戦に勝利し、ついに魔王の眼前まで辿り着く。
「魔王、追い詰めたぞ! これで最後だ!」
運命に決着をつけるときが来た。魔王も勇者も、その点については思いは同じだ。
魔王は振り返らなかった。勇者に表情を見せずに、淡々とした口調で語りはじめた。
「万魔殿を召還したからといって、それでお前たちを斃せるなどとは思っていない。四体の魔獣もきっと役に立たないだろう。大魔石三つを代償とするのでは、釣り合いがとれていないかも知れない。だが、時間稼ぎにはなった」
「時間稼ぎだと?」
「私は考えた。お前を斃すにはどうすればいいのか。方法はない。なにをしても、私はお前に勝つことはできない。最終的にそう結論した。だが、やれることはすべてやってみようと思う。考え得る可能性は、すべて試すことにした」
「どういうことだ。なぜ、時計を気にしている」
「あと、一〇秒」懐中時計の秒針を見守りながら。
「な、なにをするつもりだ!」
「最後の、悪あがきだよ」
自爆。それが魔王の最後の手だった。螺旋巻きのグ・アキルに特注の〈爆弾〉を万魔殿に仕掛けさせたのだ。必要だったのはそのための作業時間、そしてグ・アキルが避難するための時間だ。それは万魔殿はおろか、死霊の山そのものすら消し飛ばす威力を持つ。一〇八tもの爆薬の同時起爆がもたらす火力と、最新の魔技術、そして魔王自ら描いた鴻大多重術式の結晶。これにも大魔石を一つ消費し、始めてなしえたものだ。
やりすぎか? ああ、やりすぎかも知れん。だが、手加減などできぬ。少なくとも万魔殿を全壊させるだけの威力は必要だ。非常識には非常識で応じるまでだ。いかなる奇蹟も消し飛ばすほどの物量が必要なのだ。どうせ自爆するなら、持ちうるかぎりの最大火力での最高の花火を上げるべきだ。
むろん、時を止めて脱出することもできない。万魔殿の内部は迷宮のように複雑に込み入っている。時を止めたとしても、脱出には最短ルートを通って一〇分はかかる。さらに爆風の安全圏まで離れるのには全力で走っても一〇分はかかる。二〇分以上時を堰き止め続けることも、決して不可能ではない。が、その反動として魔王は二〇分もの加速化された時間を引き受けなければならない。今までに魔王が試したことのある最長時間は七分。そのときは大変な目に遭った。脳に多大な負担がかかり、頭痛・目眩・嘔吐を催し、二日間寝込むはめになった。堰き止めた時間と副作用は必ずしも正比例ではなく、ある臨界点を超えると指数関数的に増大する。限界時間の二倍以上、廃人化は確実だ。あるいは黒触病が進行し、理性が破壊されるおそれがある。魔王の魔物化、それは最悪の大惨事を生むだろう。地上は人も魔族も住めなくなり、魔界にすら危険が及ぶ可能性がある。
さらにいえば、爆発後は強力な残留魔素が爆心地を中心に広がる。それからも逃れたければ、さらに遠くへ逃げる必要がある。単に爆発から逃れるだけでは、二〇分間無防備に残留魔素を浴び続けることになる。山の半径一〇km内は人も魔族も近づくことのできない魔境と化すだろう。
なにより、魔王が爆心地に留まることで術式は安定し、計算上の爆発力が保証される。そして「自分だけ逃げ出す」という方法は、勇者に対しては悪手だ。馬鹿馬鹿しいが、こんな精神論で彼には臨まねばならなかった。
自らの命を省みず、ただ勇者だけを殺すことを至上目的とする。そんな魔王の最後の一手は、当然のように失敗した。
「なぜ起爆しない……!」
狼狽えるふりも飽きてきた。わかっている。勇者にこんな手が通用するはずがない。ありとあらゆるunthinkableに思いを馳せても、彼には決して届かぬのだ。
「ひゅー、無様だねい」
ネスター・グ・アキル。螺旋巻き最高峰の職人。魔王最後の悪足掻きの要。その失敗に際し、彼は驚くほど図太い態度で現れた。
「勇者を見て、気が変わった」
「なにをいっている……」
「設定をいじらせてもらったよ。〈爆弾〉は決して起爆しない。どんな極悪人からの依頼も黙って引き受けてきた俺だが……魔王、あんただけはダメだ。ましてや、勇者と心中しようだなんてな。俺にも、こんな気持ちが残ってるだなんて思わなかったよ。へへ、正義……っつーのかな、これ」
自らの製造した兵器がどれだけの人命を奪おうが、それに心を痛めるなどという倫理観など螺旋巻きの職人には一切ない。彼らはどこまでも職人であり、受注生産に徹するのみである。
そんな誇り高き螺旋巻きの民が、いかなる発注でも倫理や私情で断ることなど決してないはずの螺旋巻きが、ましてやそのトップクラスの職人であるネスター・グ・アキルが、こんな若造にあてられ、「正義」なぞ得体の知れぬ感情に目覚めるだと……!
「冗談も大概にしろ!」
魔族以外のすべては勇者に味方する。人も、社会も、自然も、奇跡も、運命も、そして、あるいは魔族さえも。世界は彼の敵と味方で区別され、すべての敵は滅びの運命を逃れられない。
「見たか、魔王! 正義は……正義は必ず勝つんだ!」
勇者がいうかぎり、その言葉は真実なのだろう。
もはや、正面からぶつかるしかない。魔剣〈哭神絶禍〉、当然ながら用意している。対するは勇者の聖剣。まだまだ、私は足掻くことをやめない。
「はんぺんをいじめるな!」
その場にいたもの全員が、場違いな来訪者に絶句した。
幼子。彼女の呼ぶ名が、誰を示しているのかもわからない。ただ一人を除いて。
少女は魔王の前に立ち、両手を広げた。そして勇者を睨みつける。身を呈して、勇者から魔王を守るために。その様子を見て、勇者は、顔を伏せて、いった。
「……こんな幼い子まで盾にするなんて。魔王、もはや哀れ過ぎてかける言葉もない」
勇者の言葉など耳に入らず、魔王は激しい動揺を覚えていた。
ネガデスがラプを逃した? ありえない。彼がそんなミスを犯すはずがない。
ラプがここへ来たのは、ラプ自身の意思だろう。あれだけ釘を刺しておいたはずが、ネガデスが私の名誉のために余計なことでも吹き込んだのか。そこまでは考えられる。だが、ここまで来られたのは本当にラプの力なのか?
たしかに、今や死霊の山からは魔物もアンデッドも駆逐された。彼女一人でも登ってくることは難しくない。だが、万魔殿はどうだ? 魔獣はすべて斃され、あるいは罠もすべて解除済みなのだろう。しかしそれでいて、万魔殿は迷宮だ。彼女一人でここまで辿り着くことなどまず考えられない。野生の勘か。彼女に元来そのような能力が備わっていたのか。
「見下げ果てたぞ魔王! そんなものが、そんなことがお前にとっての最後の手段だったのか!」
勇者は、なぜか魔王を侮蔑の目で見ていた。そこで魔王はある発想に至る。
まさか、これも勇者の影響か? 私を「クズ野郎」に格下げするために仕組まれた演出なのか? 彼にとっての心理的な追い風なのか? ただそれだけのために、ラプは利用されたというのか?
わからない。なにもかも突飛な推論だ。だが、一つわかったことがある。勇者は人間に、ましてや幼子には手は出せない。かといって、適当な人間をさらって人質にする、などという方法では確実に失敗していただろう。だが、ラプはどうか。彼女はそういった悪意とは無関係に魔王を守ろうとしている。
あるいは彼女なら――なにを考えている。彼女にいったい、なにができるというんだ。
「ラプ、逃げろといったはずだ」
「いやだ。はんぺんといっしょにいる」
「ここを離れろ。向こうに脱出口がある。帰りも迷宮内を通っていくことになるが……そうだ。これを持っていけ。お守りだ。万魔殿の召還に使った大魔石の欠片からつくったもので、これがあれば迷うことはない」
「いやだ」
「わかっているのか。私は魔王だぞ」
「知らない。はんぺんといっしょにいる」
「わがままをいうな。私のいうことを聞くんだ」
「…………」
今度は返事をせず、ラプは顔を伏せ、ぎゅっと裾を握り込む。
「早くしろ! 死にたいのか!」
激昂、魔王の強い言葉にラプは怖じ気づき、涙ぐんだが、それでも少女は魔王から離れようとはしない。ラプにもわかっていたのだ。その怒りが魔王の優しさであることを。そして、ここで別れてしまえば、もう二度と会えないことも。すべて肌で感じていた。魔王は、自らの嘘の下手さ心底恨んだ。
こうなれば、魔王も心を鬼にするしかない。ラプがどれだけ強情でも、力は子供だ。強引に引き剥がすことなど容易にできる。そして、魔王はかぎりなく力を抑えて、少女を蹴った。そして、倒れ伏す彼女を冷たい目で睨み、行動を促した。
「魔王……! お前は、そんな子供にまで……!」
さすがのラプも、この対応には引き下がるしかなかった。魔王に言われた通り、名残惜しそうに、ゆっくりと、ゆっくりと。
「どこまで性根が腐っているんだ……絶対に、お前はここで斃す!」
邪魔者がいなくなったと見て、勇者は臨戦態勢に入る。彼の動きは少しばかり早すぎ、その怒声は、去りゆく少女の耳にも入り――。
「ダメぇ!」
ラプが間に飛び込み、勇者の剣が彼女を深く斬りつけた。
「ラプ……!」
魔王は少女の上半身を抱え上げた。胴からはとどめなく血が大量に流れ出し、身体中が赤く染まっていた。ラプはただ、声を上げることもできず、微笑んでいた。
魔族は回復魔術を使えない。もともと高い生命力を持っているため、必要ないのだ。
そのことが、今はとても口惜しい。
「なぜこんなことに……!」
これには、さすがの勇者もショックを受けていた様子だった。
魔王は、青褪めていくラプの顔を眺め、冷めていく身体を抱きかかえていた。次第に笑顔も失せていく。絶望に、魔王もまた蒼白――いや、いる。目の前に、ラプを救える存在が、いる。恥を忍んで、頼むしかない。
「頼む、どうかこの子を……」
「魔王ぉぉ!」聞く耳などない。「魔王……お前はいったいどこまで……」
勇者の脳内でいったいどんな都合のいいシナリオが展開されているのか、想像するだけでおぞましい。勇者はすでに、この出来事をとりかえしのつかない悲劇として処理している。おそらく、ラプを治療する気は毛頭ない。しかし、いやだからこそ、なにもかもかなぐり捨てて、彼に、彼の仲間に頼まなければならない。
そんなくだらない葛藤に思い悩むうちに、魔王の腕のなかで、ラプは息を引き取っていた。こんなにもすぐ傍にいながら、絶命の瞬間を看取ることさえできなかった。死者を蘇生することは、さすがに勇者の仲間にも不可能であるに違いない。傷が深すぎる。出血量が多すぎる。誰がどう見ても助からない。その事実を受け止めるのに、魔王は長い時間を要した。せいぜい数分にも満たない時間だったが、魔王にとってこれほど長い時間はなかった。
「剣を止めることはできなかったのか! お前ともあろうものが、こんな少女の動きくらい、見切れなかったとでもいうのか!」
「ここにきて責任転嫁か? せめて、悪であることに誇りを持て!」
「殺す……! お前だけは、絶対に……!」
「ようやく本性を現したな、魔王。受けて立つぞ!」
魔剣〈哭神絶禍〉VS聖剣〈闇薙ぎの剣〉。
最終決戦の火蓋が切って落とされた。両雄一歩も退くことなく、開戦の瞬間より互いに最大奥義を見せつける。一合、剣を交えるごとに、その衝突は、万魔殿を、死霊の山を、烈しく揺るがした。地が響き、空が哮り立った。世界の命運をかけた戦いは、それにふさわしいだけの様相を見せていた。
魔王は、退いた。万魔殿の迷宮に身を隠した。
「逃げるな!」勇者が追う。彼を仲間から引き離し、一人になったところで、魔王は攻勢に出る。〈時を堰き止め〉勇者の胴体を真っ二つに切り裂いた。今度は縦に。さらに斜めに。何度も、何度も切り刻んだ。
一分。細切れになった勇者の死体がボトボトと崩れ落ちる。
「ラルフ!」仲間たちが駆けつけてきた。
彼らは目の前の光景を受け入れられずにいる。そこには勇者の姿はなく、ただ勇者だったものが転がっている。
リヒトがなにか叫んで銃を乱射した。魔王には届かない。〈防禦障壁〉で綺麗に弾く。その隙にクロエが魔王の死角に入る。側頭部を目掛けてハイキック。片手で軽くいなす。
ミナはただ、勇者の死体の前で泣いていた。
こぼれた涙が奇蹟を起こした。
眩い光が勇者だったものから発せられる。光はたちまち人の姿をなしていく。ほんのわずかな短い別れ、勇者の復活、悪夢の再臨。諦めはついていたので驚きはしない。ここからの展開は見るも無惨だ。
魔王は静かな怒りを覚えていた。この世の不合理に。勇者個人のあまりに偏狭な人格に。しかし、憤慨したからといって本来以上の力が発揮されるはずもなく、順当な結果として魔王は勇者に敗れた。
そして、世界は平和になった。
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