8.枢機卿
握った指の関節が熱い。
落ち着いたふりをしても、胸の奥のざらつきだけは残っている。
フィオナは棚から清潔な布を取り出し、折り畳んだまま淡々と言った。
「包帯を巻きます。……見た目だけでも」
新は頷き、腕を差し出す。触れられても痛みはもう薄い。むしろ、さっきまで熱かったはずの場所が、息を吐く間に冷めていく。その速さが怖い。自分の身体じゃないみたいだった。
フィオナは布を裂き、包帯の幅に整える。手当てというより、手当てしたように見せるための作業だった。まず腕を、裂けた場所の少し上から関節を避けて巻き始めた。きつすぎない。だが緩くもない。ほどけない結び目で固定され、白い布が肌の上に負傷者の形を作っていく。
次に脇腹。服を大きくめくりはせず、布の端だけを差し込み、胸の下から胴を一周させる。
新は息を整えた。これで、誰に見られても手当てを受けた直後に見える。少し動きづらいが、勝手に塞がるところを見られるより、ずっといい。
カンナは椅子に腰を下ろしたまま、呼吸を整えていた。背筋は伸びているのに、指先だけが膝の上で小さく震えている。震えは隠せていないが、それでも姿勢を崩さないあたりが、王女としての癖なのだろうと新は思った。
フィオナは結び目を確かめ、視線だけで室内を一度なぞった。扉、窓、棚の陰。医務室は密室だが、刺客が王宮の中まで来たという事実が、安心の余地を削り取っていく。
その時だった。
扉の向こうで足音が止まり、控えめなノックが二度鳴った。
「……失礼いたします」
医務官の声だ。先ほどより硬い。
「ギヨーム猊下がお見えでございます」
猊下、その呼び方だけで、新の背筋が勝手に伸びた。この部屋に入ってくるのは、ただの来客じゃない。それだけは分かる。
カンナは迷わず言った。
「通して」
扉が開き、医務官が一歩だけ中へ入る。視線は落としたまま、道を空けた。
入ってきたのは白髪の男だった。年を重ねているのに背が落ちていない。歩みは静かで足音も薄いのに、部屋の空気だけが少し重くなる。
足元まで届く濃い色の長い衣をまとい、肩にも同じ布を掛けている。胸元の飾りの中央には、樹を象った印が刻まれていた。
その場に立つだけで、場が引き締まる。そういう種類の人間だ。
男は入室と同時に立ち止まり、深く礼をした。
「カンナ王女殿下。ご無事で何よりでございます。……噂が耳に入りましてな。じっとしておれませんでした」
「ギヨーム枢機卿。来てくださったのですね」
カンナがそう呼ぶと、白髪の男、ギヨームは眉をほんのわずかに動かした。咎めるというより、苦笑に近い。
「殿下。……また枢機卿と呼ばれてしまいましたな。ギヨームでよいと、前にも申し上げたはずですが」
「分かっております。でも……今は、そう呼ぶべきだと思いました」
カンナは言い切ってから、ふっと息を吐いた。ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。呼び方そのものより、来てくれた事実が彼女を落ち着かせている。
ただ、新はその一言に反応してしまう。枢機卿。胸の奥がひやりとした。
その動きを先に断ち切ったのはフィオナだった。新へだけ向ける低い声。
「アラタ。身構える必要はありません。ギヨーム猊下は、殿下の側に立ち続けてきた方です」
新は息をひとつ落として、構えだけをほどく。完全には緩めない。だが、今この場で敵ではないと分かっただけで十分だった。
フィオナは続ける。言葉は短いが、必要なところだけを選んでいる。
「評議会の枢機卿の一人です。ただし、王族派。殿下の味方であり続ける方です」
なるほど、と腹に落ちる。つまり、この男はカンナが言っていた枢機卿たちの一人だ。
ギヨームはゆっくりと新へ視線を向けた。測るようでいて、品定めではない。ただ目が合っただけで、新は反射で背筋を正してしまう。
「そちらが……アラタ殿ですな。殿下をお守りいただいたと聞きました。礼を言います」
「……いえ」
それ以上は言葉が出なかった。さっきの刃と血の匂いが、まだ身体の内側に残っている。
ギヨームはすぐに視線を医務官へ戻した。
「医務官よ。手を煩わせた。ここまででよい。……失礼があるかもしれんが、これから少し場所を移す」
「猊下……」
医務官が戸惑いを滲ませたが、ギヨームは声を荒げないまま静かに続けた。
「この場は人の出入りが多い。殿下がここにいると分かれば、次はこの医務室が狙われる可能性は十分にありうる」
医務官は一拍置いて、深く頭を下げた。
「承知いたしました。……失礼いたします」
医務官は視線を落としたまま外へ下がる。扉が閉じる直前、廊下の気配が一瞬だけ入り込み、すぐ遮断された。
ギヨームは扉へ目を向けたまま、短く言う。
「……外を固める。フィオナ」
フィオナは即座に動き、扉をわずかに開けた。そこに立っていたのは、医務室前を押さえていたフィオナの部下だ。目だけで状況を察している顔だった。
「今から殿下を移動させます。回廊の両端を押さえてください。通路は封鎖。近づく者は止める。増員を回して、急いで」
「はっ!」
返事は短い。足音が二つ三つと走り、廊下の空気が忙しく入れ替わるのが、閉じた扉越しにも分かった。
ギヨームはカンナへ向き直り、丁寧だが儀礼ではない口調で言う。
「殿下。動けますか。足元に無理はなさいませんよう」
「ええ。大丈夫です」
カンナは頷いた。声は揺れていないが、指先の震えだけがまだ残っている。ギヨームはそれを指摘しない。代わりに、今すべきことだけを並べた。
「医務室を出ます。私の部屋へ。あそこなら出入り口を絞れますし、廊下も扉もこちらで押さえられます」
新はその言い方に、少しだけ息が戻るのを感じた。
ギヨームは新にも目を向ける。
「アラタ殿は後ろを。前は私とフィオナで押さえる」
「……分かりました」
新が返事をすると、フィオナが扉を開ける。
廊下にはすでに兵が増えていた。角の先や柱の陰、通路の両端に鎧の影が立っている。通路を塞ぐ位置取りだ。通る者がいれば、必ず目が向く。
ギヨームが先に半歩出て、周囲へ目を走らせる。衛兵たちの背筋が揃い、空気が引き締まった。
「よし。参りましょう、殿下」
「はい、ギヨーム枢機卿」
カンナが立ち上がり、歩き出す。フィオナが前に出て角を確認し、ギヨームが中央でカンナを守る位置に入る。新は半歩遅れて後ろについた。包帯がやけに目立つ。けれど、その目立ち方が今は必要だ。
廊下をいくつか折れる。人の少ない区画を選んでいるのが分かる。
途中、衛兵の一人が新の包帯に目を留め、顔をしかめた。次の瞬間、手のひらで「こちらへ」と示し、そっと道を譲る。怪我人として扱われている、それが分かった。
しばらくして、廊下の端に一枚の扉が現れた。装飾は派手ではない。だが取っ手も蝶番も手入れが行き届き、周囲の壁もやけに整っている。権限のある者の部屋だと分かる。
ギヨームが扉の前で立ち止まり、外側の衛兵に目をやる。
「ここから先は、私の目の届く範囲で守る。外は頼むぞ」
「はっ!」
返事が短く返る。二人が左右へ散り、通路の両端を押さえる。フィオナの部下たちも合流し、扉の前と角に配置が組まれていく。
ギヨームが扉を開ける。
中は執務と居室を兼ねた部屋だった。過剰な贅沢はない。机は広いが整理され、壁際に書架と簡素な椅子がいくつか。火の入っていない暖炉。窓は高く、外から覗けない角度で、薄い光だけが床に落ちている。
そして部屋の奥、手入れの行き届いた剣が、一本、二本と静かに置かれていた。刃に曇りがなく、柄も磨かれている。
カンナが一歩だけ息を吐く。
ギヨームは扉を閉め、鍵を掛けた。
「……さて。ここなら話ができます」
ギヨームはカンナへ向き直る。丁寧で、しかし甘くはない。
「殿下。先ほど起きたことを、最初から。取りこぼしなく伺います」
カンナが小さく頷き、新は黙って背筋を正した。




