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ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章

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8.枢機卿

 握った指の関節が熱い。

 落ち着いたふりをしても、胸の奥のざらつきだけは残っている。


 フィオナは棚から清潔な布を取り出し、折り畳んだまま淡々と言った。


「包帯を巻きます。……見た目だけでも」


 新は頷き、腕を差し出す。触れられても痛みはもう薄い。むしろ、さっきまで熱かったはずの場所が、息を吐く間に冷めていく。その速さが怖い。自分の身体じゃないみたいだった。


 フィオナは布を裂き、包帯の幅に整える。手当てというより、手当てしたように見せるための作業だった。まず腕を、裂けた場所の少し上から関節を避けて巻き始めた。きつすぎない。だが緩くもない。ほどけない結び目で固定され、白い布が肌の上に負傷者の形を作っていく。


 次に脇腹。服を大きくめくりはせず、布の端だけを差し込み、胸の下から胴を一周させる。


 新は息を整えた。これで、誰に見られても手当てを受けた直後に見える。少し動きづらいが、勝手に塞がるところを見られるより、ずっといい。


 カンナは椅子に腰を下ろしたまま、呼吸を整えていた。背筋は伸びているのに、指先だけが膝の上で小さく震えている。震えは隠せていないが、それでも姿勢を崩さないあたりが、王女としての癖なのだろうと新は思った。


 フィオナは結び目を確かめ、視線だけで室内を一度なぞった。扉、窓、棚の陰。医務室は密室だが、刺客が王宮の中まで来たという事実が、安心の余地を削り取っていく。


 その時だった。


 扉の向こうで足音が止まり、控えめなノックが二度鳴った。


「……失礼いたします」


 医務官の声だ。先ほどより硬い。


「ギヨーム猊下がお見えでございます」


 猊下、その呼び方だけで、新の背筋が勝手に伸びた。この部屋に入ってくるのは、ただの来客じゃない。それだけは分かる。


 カンナは迷わず言った。


「通して」


 扉が開き、医務官が一歩だけ中へ入る。視線は落としたまま、道を空けた。


 入ってきたのは白髪の男だった。年を重ねているのに背が落ちていない。歩みは静かで足音も薄いのに、部屋の空気だけが少し重くなる。


 足元まで届く濃い色の長い衣をまとい、肩にも同じ布を掛けている。胸元の飾りの中央には、樹を象った印が刻まれていた。


 その場に立つだけで、場が引き締まる。そういう種類の人間だ。


 男は入室と同時に立ち止まり、深く礼をした。


「カンナ王女殿下。ご無事で何よりでございます。……噂が耳に入りましてな。じっとしておれませんでした」


「ギヨーム枢機卿。来てくださったのですね」


 カンナがそう呼ぶと、白髪の男、ギヨームは眉をほんのわずかに動かした。咎めるというより、苦笑に近い。


「殿下。……また枢機卿と呼ばれてしまいましたな。ギヨームでよいと、前にも申し上げたはずですが」


「分かっております。でも……今は、そう呼ぶべきだと思いました」


 カンナは言い切ってから、ふっと息を吐いた。ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。呼び方そのものより、来てくれた事実が彼女を落ち着かせている。


 ただ、新はその一言に反応してしまう。枢機卿。胸の奥がひやりとした。


 その動きを先に断ち切ったのはフィオナだった。新へだけ向ける低い声。


「アラタ。身構える必要はありません。ギヨーム猊下は、殿下の側に立ち続けてきた方です」


 新は息をひとつ落として、構えだけをほどく。完全には緩めない。だが、今この場で敵ではないと分かっただけで十分だった。


 フィオナは続ける。言葉は短いが、必要なところだけを選んでいる。


「評議会の枢機卿の一人です。ただし、王族派。殿下の味方であり続ける方です」


 なるほど、と腹に落ちる。つまり、この男はカンナが言っていた枢機卿たちの一人だ。


 ギヨームはゆっくりと新へ視線を向けた。測るようでいて、品定めではない。ただ目が合っただけで、新は反射で背筋を正してしまう。


「そちらが……アラタ殿ですな。殿下をお守りいただいたと聞きました。礼を言います」


「……いえ」


 それ以上は言葉が出なかった。さっきの刃と血の匂いが、まだ身体の内側に残っている。


 ギヨームはすぐに視線を医務官へ戻した。


「医務官よ。手を煩わせた。ここまででよい。……失礼があるかもしれんが、これから少し場所を移す」


「猊下……」


 医務官が戸惑いを滲ませたが、ギヨームは声を荒げないまま静かに続けた。


「この場は人の出入りが多い。殿下がここにいると分かれば、次はこの医務室が狙われる可能性は十分にありうる」


 医務官は一拍置いて、深く頭を下げた。


「承知いたしました。……失礼いたします」


 医務官は視線を落としたまま外へ下がる。扉が閉じる直前、廊下の気配が一瞬だけ入り込み、すぐ遮断された。


 ギヨームは扉へ目を向けたまま、短く言う。


「……外を固める。フィオナ」


 フィオナは即座に動き、扉をわずかに開けた。そこに立っていたのは、医務室前を押さえていたフィオナの部下だ。目だけで状況を察している顔だった。


「今から殿下を移動させます。回廊の両端を押さえてください。通路は封鎖。近づく者は止める。増員を回して、急いで」


「はっ!」


 返事は短い。足音が二つ三つと走り、廊下の空気が忙しく入れ替わるのが、閉じた扉越しにも分かった。


 ギヨームはカンナへ向き直り、丁寧だが儀礼ではない口調で言う。


「殿下。動けますか。足元に無理はなさいませんよう」


「ええ。大丈夫です」


 カンナは頷いた。声は揺れていないが、指先の震えだけがまだ残っている。ギヨームはそれを指摘しない。代わりに、今すべきことだけを並べた。


「医務室を出ます。私の部屋へ。あそこなら出入り口を絞れますし、廊下も扉もこちらで押さえられます」


 新はその言い方に、少しだけ息が戻るのを感じた。


 ギヨームは新にも目を向ける。


「アラタ殿は後ろを。前は私とフィオナで押さえる」


「……分かりました」


 新が返事をすると、フィオナが扉を開ける。


 廊下にはすでに兵が増えていた。角の先や柱の陰、通路の両端に鎧の影が立っている。通路を塞ぐ位置取りだ。通る者がいれば、必ず目が向く。


 ギヨームが先に半歩出て、周囲へ目を走らせる。衛兵たちの背筋が揃い、空気が引き締まった。


「よし。参りましょう、殿下」


「はい、ギヨーム枢機卿」


 カンナが立ち上がり、歩き出す。フィオナが前に出て角を確認し、ギヨームが中央でカンナを守る位置に入る。新は半歩遅れて後ろについた。包帯がやけに目立つ。けれど、その目立ち方が今は必要だ。


 廊下をいくつか折れる。人の少ない区画を選んでいるのが分かる。


 途中、衛兵の一人が新の包帯に目を留め、顔をしかめた。次の瞬間、手のひらで「こちらへ」と示し、そっと道を譲る。怪我人として扱われている、それが分かった。


 しばらくして、廊下の端に一枚の扉が現れた。装飾は派手ではない。だが取っ手も蝶番も手入れが行き届き、周囲の壁もやけに整っている。権限のある者の部屋だと分かる。


 ギヨームが扉の前で立ち止まり、外側の衛兵に目をやる。


「ここから先は、私の目の届く範囲で守る。外は頼むぞ」


「はっ!」


 返事が短く返る。二人が左右へ散り、通路の両端を押さえる。フィオナの部下たちも合流し、扉の前と角に配置が組まれていく。


 ギヨームが扉を開ける。


 中は執務と居室を兼ねた部屋だった。過剰な贅沢はない。机は広いが整理され、壁際に書架と簡素な椅子がいくつか。火の入っていない暖炉。窓は高く、外から覗けない角度で、薄い光だけが床に落ちている。


 そして部屋の奥、手入れの行き届いた剣が、一本、二本と静かに置かれていた。刃に曇りがなく、柄も磨かれている。


 カンナが一歩だけ息を吐く。


 ギヨームは扉を閉め、鍵を掛けた。


「……さて。ここなら話ができます」


 ギヨームはカンナへ向き直る。丁寧で、しかし甘くはない。


「殿下。先ほど起きたことを、最初から。取りこぼしなく伺います」


 カンナが小さく頷き、新は黙って背筋を正した。

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