5.終わらない身体
食堂を出たあと、王宮の廊下はひどく静かだった。
さっきまで向かい合っていた王女の言葉が、まだ頭の奥で反響している。
(戦争)
(守護者)
(鍵を集める旅)
どれも現実感がないくせに、ひとつひとつが重い。
フィオナは少し後ろを歩いていた。
護衛としての距離。
だが、監視されているという感じはしない。
部屋の前で足を止める。
「今夜は、これ以上の用事はありません」
淡々とした声だった。
「……考える時間を、もらえるってことでいいですか」
フィオナは一瞬だけ視線を向ける。
「はい。殿下も、それを望んでおられます」
それだけ言うと、踵を返した。
扉が閉まる。
静寂。
新は部屋の中央に立ったまま、しばらく動けなかった。
(世界を救え、か……)
正直に言えば、実感はない。
使命感より先に、疑問が来る。
(俺が? 本当に?)
自分は特別な訓練を受けた兵士でもない。
剣を振れるわけでも、魔法が使えるわけでもない。
少なくとも、今は。
椅子に腰を下ろし、両手を見る。
(でも、放っておくって選択肢も……)
思い浮かべただけで、気分が悪くなる。
何も知らないふりをして、安全な場所にいる。
それができる性格じゃないことは、自分が一番よく分かっていた。
「……厄介だな、俺」
小さく笑って、息を吐く。
考えを切り替える。
(じゃあ、どうする)
答えは単純だった。
(決める前に、確認する)
自分に何ができて、何ができないのか。
それを知らないまま「行く」「行かない」を決めるのは、ただの勢いだ。
新は立ち上がり、扉へ向かった。
夜でも、王宮内の通路には人の気配がある。
灯りも落とされていない。
少し歩いた先で、鎧の擦れる音がした。
「……フィオナさん」
呼びかけると、彼女は即座に振り返った。
「どうしました」
「一つ、聞きたいことがあります」
間を置く。
「俺が守護者だとして……具体的に、何ができるんですか」
フィオナは即答しなかった。
「それを知りたい、ということですね」
「はい。じゃないと……判断できない」
その言葉に、フィオナは否定も嘲りもしなかった。
「正しい考え方です」
静かな肯定だった。
「でしたら、明日。簡単な確認をしましょう」
「確認?」
「身体能力、耐久。そして、あなたが死に至る状況に耐えられるかどうか」
新は眉をひそめる。
「それ、全然簡単じゃないですよね」
「ええ」
フィオナは、ほんのわずかだけ口元を緩めた。
「ですが、知っておくべきです」
部屋に戻る。
ベッドに腰を下ろし、背中から倒れ込んだ。
天井が遠い。
すぐに答えを出す気にはなれなかった。
だが、目を逸らすこともできなかった。
「……やるかどうかは、明日決める」
そう呟いて、目を閉じた。
世界はもう、無関係じゃない。
でも、まだ自分の意思は残っている。
それを手放すつもりはなかった。
⸻
目を開けた瞬間、天井が視界に入った。
同じ木目。
同じ高さ。
ちゃんと、昨日の続きだ。
「……朝か」
声に出して、確認する。
夢じゃない。
身体を起こすと、意外なほど軽かった。
寝不足のはずなのに、頭もはっきりしている。
(変な感じだな……)
だが、違和感はあっても不調はない。
とりあえず、それだけで十分だった。
身支度を整えていると、扉を叩く音がする。
「アラタ様。お目覚めでしょうか」
フィオナの声だ。
「はい、今出ます」
扉を開けると、昨日と変わらない鎧姿で立っていた。
夜明けの光を背にしているせいか、少しだけ柔らかく見える。
「体調はいかがですか」
「……普通、ですね。びっくりするくらい」
「それなら問題ありません」
即断だった。
「確認を行います。こちらへ」
余計な説明はない。
だが、昨日の会話があるせいで、何をするのかは分かっていた。
王宮の中を歩く。
朝の空気は静かで、使用人の姿も少ない。
新は歩きながら、昨夜の食堂の空気を思い出していた。
カンナの「同行してほしい」という言葉。
あれに頷くかどうか、結局、まだ答えは出ていない。
(俺が何ができるのかを知らないまま決めたくない)
修練場の扉が見えてきて、胸の奥が重くなる。
ここで分かるのは、強さじゃない。
自分が、戦争の現場に立てる器なのかどうかだ。
案内されたのは、王宮の奥にある訓練場だった。
天井が高く、壁も床も頑丈そうだった。
「……ここで?」
「はい」
フィオナは修練場の中央に立ち、こちらを見た。
「確認します」
短い言葉だった。
「昨日言ってた俺の体や耐久力ってやつをですか……?」
「はい」
一歩、距離を詰める。
「どこまで傷ついて、どこまで戻るのか」
「……物騒ですね」
「ええ」
否定はなかった。
「ですが、知らずに前に出るよりは、ましです」
そう言った直後だった。
視界が跳ねる。
衝撃。
身体が浮いたと思った瞬間、背中から床に叩きつけられた。
「――っ!!」
肺の空気がごっそり抜けた。
声が出ない。息が入らない。
(……うそだろ)
痛みが遅れて来た。
背中の奥が、焼けるみたいに熱い。
腕に力を入れようとして、抜けた。
(……立てない……)
そう思った直後、肺が勝手に空気を吸い込んだ。
「っ、は……! はぁ……っ」
息ができる。
喉が震える。視界が滲む。
恐る恐る、指を動かす。
脚も動く、痛いのに動く。
起き上がろうとして、膝が笑った。
背中に残る熱と痛みが、遅れてまとめて押し寄せてくる。
「……っ、ぐ……」
喉の奥で声が潰れる。
なのに、倒れない。足が踏ん張れてしまう。
顔を上げると、フィオナがすぐ近くに立っていた。
「今の一撃なら、普通はその場で動けなくなります」
新は胸元を押さえた。
息はまだ浅く、視界も少し滲む。
けれど自分の脚で立つことができている。
「……俺、動けてますよね」
「はい」
迷いのない返事だった。
「それが、守護者です」
短い言葉が、重く落ちた。
新は自分の両手を見ると指が震えている。
さっきまでの激痛が嘘みたいに、身体は言うことを聞く。
「……終われない、って」
乾いた笑いが漏れた。
「戻るとか言われても……正直、全然実感ないです」
「当然でしょう」
フィオナは視線を外さず言った。
「あなた自身が、まだ普通だと思い込んでいる」
新は息を吐いた。吐いたはずなのに、まだ胸の奥がつかえている。
(行くなら、こういうのが日常になる)
(それでも俺は、行くって言えるのか……)
「……痛いし、怖いですよ。こんなの」
フィオナは、その言葉を受け止めるように、視線を逸らさなかった。
フィオナは少しだけ息を整えてから答える。
「恐怖を感じているなら、まだ大丈夫です」
「大丈夫って、何が」
「あなたが、まだ人であるということです」
今度も、揺らがない言い切りだった。
怖い。
ちゃんと、怖い。
でも、逃げたいとは違う。
しばらくして、ふと、別の光景が頭をよぎった。
鍋の下に灯った、何もない場所の火。
「……そういえば」
自然と、口を開いていた。
「昨日、調理場で見ました」
フィオナが、静かに視線を向ける。
「手をかざしただけで、火を起こしていた。あれ、魔法ですよね」
「ええ」
フィオナは頷き、足元を軽く示した。
「魔力は、聖樹を起点に世界へ巡っています。空気にも土にも水にもあって、濃淡はあれど常にある」
新は無意識に息を止めていた。
空気にもあると言われると、急に現実味が増す。
「……じゃあ、俺の周りにも」
「あります。ですが、誰でも扱えるわけではありません」
「……誰でも扱えない?」
「多くの種族は、魔法石のような媒介を必要とします。魔力を引き出し、火なら火、水なら水と形にするための道具です」
新は昨夜の自分を思い出す。
手をかざしても、何も起きなかった。
「なら、調理場の人たちはなぜ…?」
「樹人族は聖樹のそばで生きてきた。魔力が身近だから、魔法石なしでも扱える者が多いんです」
「……じゃあ、あの火は」
「手をかざすだけで火を起こせる。あなたが見たのは、それです」
新は、無意識に自分の手を見る。
「……俺は? 魔法、使えるんですか」
「いいえ。守護者が魔法を使った記録はありません」
「守護者の力は、外へ放つ魔法ではありません。聖樹に引き戻される力です」
「あなたは樹人族よりも、もっと源に近い。聖樹と直接つながっている」
淡々とした説明だったが、内容はまったく淡々としていなかった。
「だから、戻される」
「……戻される?」
「身体が損なわれても、致命に至る前に戻されます」
フィオナは続ける。
「死なない、というより……簡単には終われないと言ったほうが近いでしょう」
「……それ、やっぱり嬉しくないですね」
「ええ」
また、同意だった。
「ですが、その身体でなければ、耐えられないこともあります」
フィオナは視線を逸らさない。
「守護者は、普通の兵ではできない確認と訓練が必要になる。……あなたが前に出るなら、なおさらです」
新は、喉の奥で笑いそうになって、やめた。
「……俺、まだ普通のつもりでいました」
「あなたはもう普通の身体ではありません」
短い言葉だった。
なのに、腹の底に落ちた。
新は、背中に残る熱を確かめるように肩を回した。
痛みはまだある。鈍く、しつこい。
「今はまだ、あなたは戻ることに驚いています。でも本当に厄介なのは、戻れることに慣れてしまうことです」
「慣れる……?」
「痛みにも、恐怖にも」
その言葉に、新は口をつぐんだ。
さっきの一撃を思い出すだけで、胃の奥がきゅっと縮む。
(慣れたら終わり、ってやつか……)
フィオナは足元に転がっていた訓練用の木の棒を拾い上げ、先端を軽く指で弾いた。
「あなたの身体は、世界樹とつながっている。だから戻る。ですが」
そこで言葉を切り、新の背中を見た。
「今の痛みも残っていますね」
「残ってます。普通に痛いです」
「それが現実です」
フィオナは淡々と言う。
「戻りはします。けれど、瞬きの間に全部が元通りになるわけではない。重い傷ほど、時間が要ります」
新は背中をさすりながら、顔をしかめた。
「じゃあ……さっき立てたのも、たまたま?」
「たまたまではありません。戻りが早い部類なだけです。ですが、過信しないでください」
「過信、か……」
脳裏に、さっきの落下の感覚が蘇る。
怖い。
でも、怖さの隣に、変な試したいがいる。
その感覚に気づいて、新はぞっとした。
(もう試したくなってる……)
フィオナはその表情を見たのか、言葉を重ねる。
「それに、あなたが戻るからといって、死が無いわけではありません」
新は瞬きを止めた。
「……死ぬんですか」
「条件が揃えば」
簡潔だった。
「たとえば?」
「守護者が終わるのは、聖樹とのつながりを断たれた時です。魔力が届かない場所、あるいは、届かない状態に置かれれば、戻れません」
フィオナは、言葉を選ぶように少しだけ間を置いてから続ける。
「また、身体が戻り続けるのに、意識が追いつかなくなることがあります。傷は癒えても、心だけが置き去りになる。生きているのに、もう自分として動けない、そういう終わり方もある」
その言葉が落ちた瞬間、修練場の空気が一段冷えた気がした。
新は、笑えなかった。
背中に残る痛みよりも、今の話のほうが胃の奥に刺さっている。
「……届かない状態って、何ですか」
声が少し掠れていた。
フィオナは目を逸らさない。
「この世界には、魔力の薄い土地があります。そこに放り込まれれば、回復は鈍ります」
「鈍るで済むならまだいい……ってことですか?」
「ええ」
即答だった。
「もう一つは、つながりそのものを狙われる場合です。魔法石で魔力を扱う者たちは、逆に魔力を断つための道具も作れます」
新は息を呑んだ。
便利なものは、当然、武器にもなる。
「……じゃあ、敵はそれを知ってる」
「方法自体は知られているはずです。ただ、あなたの存在が知られているとは限りません」
フィオナは一歩だけ近づいた。
「だから、守護者は死なないから安心ではない。むしろ、気づかれた場合、狙われるのはあなたです」
言い切られて、新は反射で笑いそうになって、失敗した。
「……最悪ですね」
「最悪です」
フィオナは同意した。冗談の余地がない。
沈黙が落ちる。
修練場のどこかで、微かな金具の軋む音だけがした。
新は、握った拳を開いて、また閉じた。
「……心が置き去りになるって」
口に出すと、余計に現実味が増す。
「それ、どういう……」
フィオナは少しだけ言葉を遅らせた。珍しいほど慎重に。
「痛みが消えない、という話ではありません」
「……」
「身体が戻る速度に、意識がついていけなくなる」
淡々としているのに、説明が嫌に生々しい。
「たとえば、短い間に何度も致命傷を負う。あるいは、傷つき方が自分だと認識しづらい形になる。そうなると戻っても戻っても、感覚が追いつかない」
新は、背中の痛みを思い出した。
さっきの一撃ですら、あれだけ怖かったのに。
「だから私は、あなたに恐怖を失ってほしくない。恐怖は、あなたをつなぎ止める最後の糸になる」
新は、息を吐いた。
怖い。確かに怖い。
でも、それは逃げるための怖さじゃない。
「……さっき言ったじゃないですか。知っておくべきって」
自分でも意外なくらい、声が落ち着いていた。
「俺、今の話を聞いたら余計に決められないんですけど」
「だから、全部は言いません」
フィオナは、きっぱり言った。
そして、少しだけ声音を柔らげる。
「恐怖を煽りたいわけではありません。あなたが、自分の手で確かめるべき部分だからです」
新は目を瞬いた。
昨日からずっと、核心だけは渡さない態度だと思っていた。
でも今のは、隠しているんじゃない。
押し付けないための線引きだ。
「……俺、確かめたら答えが出ると思いますか」
「出ます」
即答だった。
「あなたは、逃げない。ですが、突っ走りもしない人であることはこの短い期間の中でも分かります」
言われて、胸の奥がわずかに痛んだ。
昨夜、自分で引いた線を、他人に見抜かれたみたいで。
「……その言い方、ずるいですね」
新は小さく笑ってしまった。
フィオナは表情を崩さないまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……そういうことを言える余裕があるなら、問題ありません」
フィオナは言った。
「明日以降は、もっと具体的にやります。体の動かし方、受け身、足運び、間合い。武器の持ち方も。戻る身体だからこそ、無茶をしない手順を先に叩き込みます」
「……完全に、旅に出る前の特訓じゃないですか」
新がそう返すと、フィオナは否定しなかった。
「ええ。ですが、これは行くと決めた者だけのためではありません」
「……どういうことですか」
「行かないと決めるなら、その判断にも根拠が要る。あなた自身が納得できる形で」
言われて、新は口をつぐんだ。
昨夜、カンナの前で「少し考えさせてください」と言った。
その考えるが、ただ悩むことじゃないのは分かっている。
「身体だけ鍛えても意味がない、というのも、その手順の話です」
フィオナは続ける。
「戻るから大丈夫、と思った瞬間に判断が雑になります。痛みも恐怖も、鈍くなる。そうして壊れるのは、身体ではなくあなたです」
新は視線を落とした。床の木目が、妙にくっきり見える。
(旅の話、だったはずなのに)
気づけば、行くかどうかじゃなくて、行ったときに壊れないかの話になっている。
でも、それは逃げじゃない。選ぶための現実だ。
「……俺、まだ答えは出せません」
新は正直に言った。
「でも、明日も続けて……それでも無理だと思ったら、断ります。いいですか」
「それでかまいません」
即答だった。
「ただし、断るなら最後まで断ってください。中途半端に足を踏み入れて引き返すほうが危険です」
「……分かりました」
新は短く息を吐いた。
フィオナは言った。
「明日も続けます。あなたが行くかどうかを決める判断材料になるように」
妙な言い方だと思った。
でも、意味は分かる。
自分で踏み出して、自分で確かめて、自分で選ぶ。
その順番を、フィオナは崩さない。
新は拳を握り直した。
「……分かりました。明日も、続きをお願いします。俺が行くかどうかを決めるために」
フィオナは短く頷いた。




